(9)霧の中の真意
女が歩いている。
薄霧に霞む夜の街路を、ただ一人で。
肌寒さを感じる空気の中、投げかけられる外灯の光は澱んでいる。
誰が誰か――遠目ではわからぬその中で、女を尾行する男がいる。
息を荒げながら、男は爛々と輝く瞳で女を追う。
その色は、歪な紅い色に染まっている。
カオスレイダー――人類を侵す災厄。
しかし、それは必ずしも人の心を蝕むものではない。
元より暗い情念を抱き、人の社会の中で異端とされる者たち――彼らにとって混沌の種子は、むしろ近しい存在なのかもしれない。
そして男は、その異端の人間だった。
自らの歪んだ欲望を満たすため、彼は混沌の意思に身を委ねる。
頭の中で聞こえる歪な声も、男にとっては自身を鼓舞するものでさえあった。
コロセ。
コントンニ、スベテヲ――。
やがて辺りに人の見えなくなったところで、男は猛進を始める。
霞むように見えていた女の姿が、すぐにはっきりとしてくる。
アップにした髪型の下に、白いうなじが見える。
手にしたサバイバルナイフが、鈍く煌めいた。
やってやる。やってやるぞ。
あの女を押し倒し、そのうなじを味わってやる。
そして喉元をこの刃で引き裂いて殺してやるのだ。
男の接近に女が気付いた時には、すでに遅かった。
腕を広げた男が、飛ぶように女に襲い掛かる。
歪んだ黒き獣の欲望が、霞む白の中で現実になろうとしていた。
そのはずだった。
「……こうも簡単に引っ掛かると、割と拍子抜けなんだけどね」
しかし、男は次の瞬間、冷たく響いた声と共に宙を舞っていた。
正確には、回っていた。
天地がひっくり返るような視界の中、男が次に聞いたのは自身の骨が折れる音だった。
「ぐあああぁぁあぁ!!」
「これでも苦労したのよ。アンタみたいな奴の嗜好を探るのはね」
流れるような動きで男を投げ、その利き腕を折った女は青い瞳で男を見下ろしてきた。
侮蔑にも似た視線と共に男に向けられたのは、小型のハンドブラスターの銃口だ。
出力こそ低いものの、無防備な人間を殺すには充分な威力を持つものである。
「とりあえず、アンタが元からの外道で良かったわ。こっちも罪悪感を感じなくて済むもの……じゃ、そろそろ死んで」
まるで感情を動かすこともなく、女は男の頭に照準を合わせてトリガーを引こうとする。
恐怖すら感じる間もなく、男はその生命を奪われるはずだった。
しかしその瞬間、二人の間に黒い衝撃が割り込む。
爆発するように弾けた空気が、両者を引き離すように吹き飛ばしていた。
「悪いけど……この男をまだやらせるわけにはいかないわね」
もんどりうって倒れた男と、転がるように体勢を立て直した女の間で第三の声が響く。
そこに現れたのは、薄霧の中でもはっきりとわかる漆黒を纏った人物だった。
「誰!?って……アンタ……ルナル……!?」
誰何の声を上げた女は、そこで相手の姿を確認して驚きをあらわにする。
そこに現れた者は、女も良く知る人物だった。
冷たい銀の瞳が、殺意と共に彼女に向けられる。
「支援捜査官【タレイア】――レイカ=ハーベスト……あなたもここでリタイアね」
その人物――【ヘカテイア】はつぶやくや否や、女へと詰め寄った。
いつの間にか手にしていた大鎌が、白い世界に黒の軌跡を描く。
凍り付いたように動けない女に、その刃が叩き込まれた――はずだった。
「!?……これは……」
【ヘカテイア】は意外な感触に、その表情をわずか歪めた。
肉を貫き、切り裂く予定だった漆黒の刃が、硬質な壁のようなものに阻まれている。
ガラスのように透き通った氷の壁――刃を受けてひび割れと共に砕け散ったそれが、辺りに無数の煌めきを残す。
「あいにくですけど、そう簡単にはいきませんわよ……」
「あなた……?」
薄霧に舞った光の中で、金髪の女の姿が陽炎のように歪む。
すぐあとにその場に現れたのは、銀の髪をなびかせた小柄な少女だった。
「久しぶりですわね。ルナル……」
「フィアネス……」
それは特務執行官【ペルセポネ】こと、フィアネスであった。
意外な人物の出現に、さしもの【ヘカテイア】も目を見開く。
「狙い通りといったところですわね。やはり支援捜査官を手にかけていたのは、あなたでしたのね」
「なるほど……レイカに成りすまして私が来るのを待っていたのね。手の込んだことを……」
嘆息気味につぶやいた少女に対し、黒き女も息をつく。
元々、電影幻霧といった幻惑の技を行使するフィアネスである。欺く技術においては特務執行官の中でも優れているだけに、【ヘカテイア】も正体に気付けなかったようだ。
「……ひとつの賭けでしたけど。それはそうと、どういうことなのか説明していただきたいですわね? ルナル……」
「説明?」
「支援捜査官たちを殺害した理由ですわ。あとは【クロト】の侵食の件も……返答によっては、容赦しませんわよ」
そんな彼女を見つめ、フィアネスは告げる。
【ヘカテイア】の思惑を知るため、元々この任務を請け負っていたレイカを説得し、入れ替わった甲斐があったというものだ。
その言葉には殺意すら感じられるほどの強い意思がみなぎり、小柄な身体も大きく見えてしまうほどだ。
しかし、それに対して【ヘカテイア】は高らかに哄笑を上げた。
「!?……なにがおかしいんですの!?」
予想外の反応に苛立ちを見せたフィアネスに、黒き女は肩を竦める。
「フフ……ごめんなさい。フィアネス……あなたがあまりにも変わらないから、少し嬉しくなったの。ところでこの囮捜査は、ウェルザーに頼まれたのかしら?」
「質問しているのは、こちらですわ!!」
「図星……というところかしら。それなら、答えてあげるわね」
声を荒げるかつての同僚に、【ヘカテイア】は改めて冷めた視線を向けた。
「理由は簡単。脆弱な支援捜査官も、ポンコツの電脳人格も、もう不要だからよ……」
「不要……ですって!?」
「そうよ。私たちの目的を果たすためには、邪魔にしかならないもの」
「目的……!? いったい、あなたの目的はなんですの!?」
かつて特務執行官だったとは思えないほど仲間をバカにした発言に、フィアネスが更なる怒りを見せる。
ただ、彼女が問い返した言葉に対し、黒き女は意外そうな表情を向けた。
「あら? フィアネス……あなたも知っているはずよ。オリンポスの真の目的……その使命をね」
「オリンポスの……真の目的?」
「そう……私も【エリス】も、あなたたちと目的は同じなの」
「なにを戯言をっ!!」
意味のわからない発言にフィアネスは怒声をぶつけるも、【ヘカテイア】の態度は変わらない。
「戯言じゃないわよ。この行動もすべてはそのため……ああ、そういえば忘れていたわね」
なにかを思い出したようにつぶやいた彼女は、大鎌の先端を上空に向ける。
するとその刃から染みのような黒い靄が現れ、漂うように彼女の背後に流れていく。
やがて靄は、倒れ伏していた男の身体に吸い込まれていく。
「う……う……うおああああアアァァアァァアァァァァッッ!!」
絶叫と共に、爆発するような轟音が響く。
凄まじいエネルギーを解き放った男は、全身にナイフのような棘を生やしたトカゲのような怪物に姿を変えた。
「!? カオスレイダーへ覚醒した!? ルナル……あなた、なぜ!?」
その男の変化に、フィアネスは驚愕する。
【ヘカテイア】はわずかな笑みを浮かべつつ、跳躍して天に舞った。
「フフフ……残念だけど、今日はここまでね」
「待ちなさい!! ルナルッッ!!」
「帰ったら、ウェルザーと相談してみるのね。よく考えればわかるはずよ……私の言ったことの意味がね……」
銀の少女を銀の瞳で見下ろしながら、女は告げる。
その口調はからかうようでありながら、どこか真摯な雰囲気も感じられた。
「また会いましょう。フィアネス……あと、ソルド=レイフォースによろしくね」
そして【ヘカテイア】は、空の闇に溶け込むように姿を消した。
残されたフィアネスは身を震わせながら、その手を強く握り締める。
そんな彼女に、カオスレイダーとなった男が襲い掛かってくる。
黒きエネルギーを撒き散らしながら迫った異形に、少女の怒りの矛先が向いた。
「邪魔ですわ!!!」
半ば八つ当たりめいた声と共に、カオスレイダーの動きが止まる。
怒りのボルテージとは裏腹に、絶対零度にすら到達しようかという凄まじい冷気が異形の身体を凍結させたのだ。
次いで放たれた掌底から衝撃波が生まれ、氷像と化したカオスレイダーに炸裂する。
(……ルナル……あなたは、もう……)
なす術なく粉々に砕け散った敵を一瞥することもなく、フィアネスは唇を噛み締めていた。
信じたくなかった現実。そして霞んでいるかつての仲間の真意――。
やるせない思いを抱えて伏せられた少女の目元には、一粒の雫が煌めいていた。




