(5)疑惑と信頼の狭間で
空調が唸り、冷たい光が灯る鋼鉄の廊下を、甲高い靴音がこだまする。
歩く者たちはそのほとんどが体格の良い人間であり、同じ軍服に身を包んでいる。
大声で他愛もない話をしている様はその辺の一般人と同じだが、密かに剣呑な雰囲気を漂わせているのが大きな違いだろう。
そんな行き交う人間たちの中に、声を発することもなく一人歩く男がいる。
くせ毛の茶髪の下に光る瞳にはわずかに黄金色の輝きが滲み、辺りの様子を油断なく窺っていた。
(やってることは、まるで潜入任務だな……)
その男は特務執行官【アポロン】こと、ソルド=レイフォースである。
姿を偽装し、彼が入り込んでいるのは、CKO治安維持軍の駐留する軍事基地のひとつだ。
慣れない格好に少し心地悪さを感じながらも、彼は視線を落とすことなく歩き続ける。
(だが、これも仕方のないことか。正直、ここまで状況が悪化しているとは思わなかったが……)
そもそもCKOの最上位機関であるオリンポス所属の彼が、なぜこのような姿で秘密裏に行動しているのか。
そう決断せざるを得なかった理由は、数時間前まで遡る――。
『……治安維持軍の過去の作戦内容を探って欲しい?』
パンドラのプライベートルームで、ソルドは中空に浮かぶ光の少女を見つめていた。
その少女――オリンポス・セントラルの電脳人格【ラケシス】は、訝しげな表情を浮かべている。
「ああ。本来はこんなことを頼んではいけないのだろうが……お願いできるだろうか?」
『なんでそんなことを調べたいわけ?』
どことなく暗い雰囲気を漂わせた彼女に対し、ソルドは自分の考えていることを語る。
本当のルナルが【ヘカテイア】とは別にいる可能性。その彼女を救うために知られざる過去を探ろうとしていることを――。
『ふ~ん……そういうことか。でも、ごめん……あたしは協力できない』
しばらくそれを無言で聞いていた【ラケシス】だが、返してきた答えはいつになく冷たいものだった。
ここにきてソルドは、彼女がいつもの彼女ではないということに気付く。
『だって姉貴をあんな目に遭わせたかもしれない奴を……あたしは許せないもの』
「【ラケシス】!?」
思わず目を見開くソルドに、【ラケシス】は睨み付けるような視線を向けてくる。
『【ヘカテイア】がルナルじゃないって信じたいソルドの気持ちはわかるよ。でも、それって証拠がないんでしょ?』
「それは……! だが、それを調べるために……!」
『証拠がない以上……ルナルが【ヘカテイア】だって可能性もあるんだよね!?』
責め立てるようなその言葉は、憎悪という感情に支配されているようにも思えた。
元々感情豊かな【ラケシス】ではあったが、今はそれが完全に裏目に出ている。【クロト】が機能停止に追い込まれた事実は、彼女にとって相当ショックな出来事だったのだろう。
ただ、悲しげに目を伏せ黙り込んだ青年の姿を見つめた彼女は、わずかに冷静さを取り戻したようだ。
『ごめん……意地悪言ってるのはわかってる。でも、今は母様からも任務以外での外部アクセスをしちゃいけないって言われてるの……だから……』
震える声の中、【ラケシス】は幼子のように涙を流す。
それはもちろんホログラフ表現のひとつに過ぎなかったが、今の彼女の心境を強く表してもいた。
たとえ仮初めの電脳人格であったとしても、そこにある感情――姉妹愛は確かなものなのだろう。
その絆を理解できるだけに、ソルドもこれ以上強く懇願することができなかった。
「そうか……すまなかった。【ラケシス】……ならせめて、今の話だけは伏せておいてくれ」
『うん……それは秘密にしておく……』
そう言い残して散るように消えた光の下で、ソルドは暗澹たる思いに駆られるのだった。
「ルナルを救うために、治安維持軍の資料が必要だと?」
【ラケシス】に協力を拒否されたソルドが次に訪れたのは、ボルトスの私室であった。
やはり訝しげに問い返してくる褐色の男に対し、彼は先刻の話と同じ内容を告げる。
しばしそれを聞いていたボルトスは、ややあって小さく嘆息した。
「……なるほどな。最近お前たちが、コソコソ動き回っていたのは知っていたが……」
「申し訳ありません……」
「まぁ、仕方がない。ルナルが健在という確かな証拠もないのでは、ライザスに報告もできんだろう」
いかつい顔に浮かんだ表情は、やや苦々しげなものだ。
そこには彼自身、ままならない状況に対する不満が潜んでいるようにも見えた。
「俺としてもお前の言葉を信じたいが、【ヘカテイア】が支援捜査官を殺害し、【クロト】を機能停止に追い込んだ疑いは強まりつつある。この状況では、俺も迂闊に擁護はできん」
オリンポス創設当初からライザスやウェルザーと共に組織の運営を担ってきただけに、彼の立場も複雑である。
個人的感情だけで動くわけにはいかないと、自身の行動には釘を刺している様子だった。
「だが……お前やアーシェリーが、ある程度動き回れるような便宜は図っておこう。資料の件も直接手を貸すことはできんが、軍のアクセスコードなら、すぐ入手できる」
「ありがとうございます。ボルトス……」
「礼は良い。それよりなんとしても証拠を見つけることだ。本物のルナルが別にいるというお前の直感……それが気の迷いでないという確かな証拠をな」
ボルトスはそう言いながら、自前の端末を手早く操作する。
兄妹を同時に特務執行官として見出した彼の心境としては、やはり二人を信じたい思いは強いようだ。
やがて彼が端末の画面をソルドに向けると、そこには比較的長めの文字列が並んでいた。
「ソルド。このコードを使って軍施設のコンピューターから直接アクセスしろ。データバンクの閲覧が可能になるはずだ。急げよ」
「はい!」
コードの内容を記憶したソルドは力強い返答と共に一礼すると、その場を立ち去ったのだった。
かくして軍基地への潜入を果たした彼は、今に至るのである。
ただ、それなりに規模が大きいとはいえ、関係者同士の顔は割と知られているらしい。
軽く挨拶をするたび、怪訝そうな視線を向けられたソルドは、長居は無用とばかりに目的の場所を目指す。
やがて彼が辿り着いたのは、資料室と書かれた部屋である。
(よし……ここからなら、軍のデータバンクにアクセスできる)
中へ入ったソルドは想定通りの展開に、わずか息をつく。
室内は割と手狭で、壁際に立ち並んだ棚に整然とデータディスクが収められている。
そして中央にはコンピューター端末が、向かい合わせに四台ほど並んでいた。
幸い、今は利用している者はいない。
(日時は三十年前の五月十五日……ルナルが孤児院にやってきた日。その前に展開されていた軍の作戦行動を、すべて洗い出す)
速やかに席に着き、端末を起動する。
アクセスコードは問題なく承認され、軍のメインサーバーへと接続した彼は過去の作戦内容の検索を始める。
(マリスは恐らく偽名を使っていたはずだ。そこから辿ることはほぼ不可能……手掛かりはバイオテクノロジーに関連する研究施設への襲撃だけか)
条件を絞りつつデータを洗っていくも、想像以上に数は多かった。
わずかに辟易しながら作業を続けていた彼は、やがてそれらしき内容の記録に辿り着く。
(見つけた。恐らくはこれだ。【アルファ・モイパ地区における生体研究施設襲撃作戦の報告】……)
ファイルを開き、ソルドは記された内容を読み込んでいく。
(現行法における禁忌事項に該当する生体研究を秘密裏に行っていた施設への襲撃を敢行。施設内部に複数の生体実験サンプルが確認される。司令部より殺処分の命令が下り、実行部隊はそれを完遂する。当該施設は軍接収後に閉鎖となる。施設所有権は不明だが、反政府組織と癒着していた企業のものである可能性が濃厚。施設責任者であったムラカミ博士の行方も不明である……!?)
そこで彼は息を呑む。
最後の一文に出てきた名前に、ソルドは地球で会った一人の老人の姿を思い出していた。
(まさか……いや、あのムラカミ博士はオリンポスの協力者だったはず。反政府組織に通じていたとは思えない。では、この資料にある名前はいったい!?)
改めて端末に指を走らせ、ファイルの内容を探っていくも、それ以上の記録は残されていなかった。
(やはり三十年前ともなると、もう詳細は残されていないか……そうなると手掛かりは、このムラカミという人物の名前だけだ)
ありふれた名前ではあったが、博士号を持ち生体研究施設の責任者を務められるほどの人物ともなれば、条件は絞られる。
端末をシャットダウンし立ち上がったソルドは、速やかに部屋をあとにした。
(もう少し調べてみる必要があるな。シェリーにも伝えなければ……)
焦燥と困惑、疑念と不安――様々な思いが渦巻く中、彼は密かに苦々しい表情を浮かべていた。




