(2)女神の暗躍
暗い路地を駆ける人影がある。
ゴミの散らばる狭いビルの谷間を、息を切らしながら男が走る。
体格はやや小太りで、腹の出た中年の男である。その表情は苦しみと恐怖とに歪んでいる。
ゴミを蹴飛ばし、あちこちに身体をぶつけながら、彼は必死に逃げ惑う。
そんな男を追って駆ける影がひとつ――こちらは躍動感に溢れた青年であった。
男と対照的に呼吸を乱すこともなく、不敵な笑みを浮かべながら、獲物を狙う狩人のように相手を追い詰めていく。
数分ほどの追走劇のあと、やがて袋小路に追い込まれた男は足を止め、背後の青年に振り返った。
「追い詰めたぜ。オッサンよ……」
「わ……わしに、なんの用だ……!?」
「悪いが、あんた自身に用があるわけじゃないのさ。まぁ……あんたも無関係ってわけにはいかないんだけどな」
青年はそう言うと、懐から剣の柄のようなものを取り出す。
それはプラズマエネルギーを刃として生成する白兵戦用武器のレーザーカッターだ。CKOの治安維持軍で広く使用されているものである。
ただ、青年の持つそれの柄頭には、煌めく結晶が埋め込まれていた。
その結晶が刹那、眩い光を放つ。
「ウグアアアアアアアァァァアァァァ……!!」
次の瞬間、中年男の口から絶叫が漏れる。
その瞳が紅く輝き、次いで口元に牙のようなものが覗く。
「正体を現したな。化け物が。さて……とっとと死んでもらうぜ」
「ウアアアァァッッ!!」
殺気を解き放つ青年に向けて、男が襲い掛かる。
青年はその突進をすり抜けるようにかわすと、レーザーカッターを起動し、敵の背面に斬りつける。
肉の焼け焦げる臭いと共に、人ならぬ男の苦鳴が響いた。
「とどめだ!!……なにっ!?」
すかさず光の刃を突き込もうとした青年だが、その刹那、彼の身体は後方に吹き飛ばされる。
やや無様に地面を転げた青年が体勢を立て直すと、目の前に一人の女がたたずんでいた。
「悪いけど……そこの男をやらせるわけにはいかないの」
「だ、誰だ!? お前……って、まさか……!? がはっっ!!」
気が付いたように目を見張った青年は、すぐに口から動揺の声と大量の血を吐くこととなる。
その胸に漆黒の色を宿した大鎌の刃が突き刺さっていたのだ。
「さようなら。【ペルセウス】……」
「あ……ぁ、ある……て、み……す……?」
「フフフ……残念だけど、私はもう【アルテミス】じゃないの……」
闇の髪をなびかせ、銀の瞳を輝かせた女――【ヘカテイア】は不敵な笑みを浮かべながら、手にした大鎌を振り抜く。
一閃と同時に鮮血が飛沫となり、生命を失った青年は仰向けに倒れた。
「さぁ……あなたにはしばらく暴れてもらうわね」
そんな青年を一瞥した黒き女は、傷を負ってうずくまる中年男に語り掛ける。
大鎌から闇の色を宿したエネルギーが放たれ、男の傷口から体内に入り込んでいく。
次いで男の身体が膨れ上がり、その姿が人ならざる異形の獣へと変じてゆく。
「ウ……ウ……ウオオオオオアアァァアァァァッッ!!」
「せいぜい派手にやってちょうだい。特務執行官が来るまでの間だけどね……」
咆哮とと共に混沌の獣――カオスレイダーへ覚醒した男にそう言い残すと、【ヘカテイア】は夜の闇に溶け込むようにその姿を消した。
「支援捜査官【ペルセウス】からの生存シグナルが途絶えただと?」
しばし時を置いたパンドラの司令室で、その報告を聞いたライザスは訝しげな表情をした。
目の前には黒い長髪を持つ電脳人格の【クロト】が、愁いを帯びた表情で浮かんでいる。
『はい……消失とほぼ同時に、同地点から高いCW値が観測されました。カオスレイダーが覚醒したことは間違いありません。ローテーションオーダーに従い、特務執行官【ヘパイストス】に出動要請をかけますが……』
「わかった。頼む。【クロト】……」
『了解しました……』
端的に告げたライザスはそこでため息をつきつつ、シートに背を預ける。
カオスレイダーを追う過程において支援捜査官が殉職することは、取り立てて珍しいことではない。もちろん、慣れたいとも思わないことであったが。
ただ、今回の件では疑問に思う点がひとつあった。
一人となった空間の中で、彼は宙に手を滑らせながら、様々なデータを表示する。
その中のひとつの項目を凝視しつつ、ライザスは改めて眉根を寄せた。
(妙だ。確かに【ペルセウス】は寄生者を追っていたが、覚醒に至るには少し余裕があったはず。それがなぜ……?)
あり得るはずのない事実に、彼は嫌な予感を抱かずにはいられなかった。
闇の中に、破壊の嵐が巻き起こる。
人の造り上げた被造物が容易く砕け、灰燼が空に舞う。
人々が悲鳴を上げて逃げ惑う中、現れた異形が咆哮を上げる。
長く鋭い牙を持った熊のような怪物は、その漆黒の体毛を硬化させ、周囲へと撃ち放つ。
針のような弾丸と化したそれらは、意思を持ったように人間の身体に突き刺さり、ハリネズミのような死体に変えた。
「スベテヲ……コントンニ……」
アスファルトに足形を刻みながら、異形――カオスレイダーは歩く。
すでに動く者は、近くに見当たらなくなっていた。
ただ、それは異形による虐殺だけが理由ではない。
まるでゴーストタウンのように、建物の内部も含めた周囲一帯から、人の気配が消え失せていたのである。
「待て。カオスレイダー……これ以上の暴虐は許さんぞ」
そんな中、低い声と共にその場に一人の男が現れる。
スキンヘッドが特徴の、体格の良い男だ。剣呑な殺気と共に、猛禽のような瞳が異形を捉えている。
「キサマハ……ナンダ……オアアアアァァアァァァァッッ!!」
カオスレイダーは唸り声のような叫びと共に、体毛の散弾を放つ。
しかし、男にそれらが突き刺さることはなく、すべて体表で弾かれてバラバラと地に落ちる。
「我は金剛……巌の守護者。世乱す悪意の塊に、正義の鉄槌を振り下ろさん。我が名は、特務執行官【ヘパイストス】!」
拳を掲げ、その男――ランベル=アイアンフォースは名乗る。
そして地を蹴り、彼は一気に異形に詰め寄る。
敵は鋭い爪をもって迎え撃とうとするが、カウンターで入ったランベルの拳が、突き出された手をその腕諸共に粉砕する。
ミンチのようになった肉片が、どす黒い血と共に周囲に飛び散った。
「グアアアアァアァァァッッ!!」
「貴様を掃討する。粉々になって、散れ!!」
絶叫を上げて苦しむカオスレイダーの顔面を、ランベルの左手が掴む。
するとその手元から広がるように、敵の頭が結晶化を始めた。
やがて無機質な彫像のようになったその頭を、空いたランベルの右手が粉砕する。
煌めく破片が舞い散る中、意思を失った異形の身体が音を立てて倒れた。
「【ヘパイストス】より、オリンポス・セントラルへ……対象の掃討は完了した。ICコードの解除を要請する」
『……了解しました』
淡々と【クロト】への通信を終えたランベルは敵の遺骸を一瞥すると、わずかに嘆息する。
(……ここにきて、ずいぶん出動要請が多くなった。それに支援捜査官の殉職率も上がっていると聞く。今回は【ペルセウス】が犠牲になったか……)
その表情は修行僧のように、無為なものである。
ただ、感情がないわけでなく、心の内には憐憫と疑念とが生まれていた。
(だが、支援捜査官たちが、こうも立て続けにヘマをするのはおかしい。それに彼らの追っていた寄生者のすべてが末期症状だったとも思えん……いったい、なにが起こっている?)
廃墟のような闇の街を歩きながら、彼はわずかに宙を仰いだ。
『……【ヘパイストス】が、対象を掃討したようです』
その頃、オリンポス・セントラルの電脳人格【クロト】は、ランベルからの報告を告げていた。
しかし、彼女の浮かぶ空間はパンドラの司令室ではなく、目の前にいる人物もオリンポス司令のライザスではない。
夜に溶け込むかのようにたたずむその影は、光となって浮かぶ電脳人格に銀色の視線を向けた。
「そう。ご苦労様……【クロト】」
椅子のような縁石に腰掛け、答えたのは、ルナルこと【ヘカテイア】である。
ねぎらうような言葉でありながら、そこにはどこか面白がっている様子が見える。
「けど、もう少し時間稼ぎしてもらえると助かるのよね。あまり早く掃討されると、せっかく覚醒させたカオスレイダーが無駄になってしまうから……」
『うぅ……っ。それ、は……』
「フフフ……冗談よ。職務に忠実なあなただもの……オリンポスは裏切れないわよね」
頭を抑え苦しむ様子を見せる【クロト】に、【ヘカテイア】は邪な笑みを浮かべる。
口調こそ同じものの、そこにはかつてのルナルの面影はほとんど感じられなかった。
「じゃ、また連絡するわね。新しい情報……期待してるから」
『は、い……』
バイバイするように手を振った【ヘカテイア】の前から、【クロト】の姿が消える。
人工的な光が消え、星の輝きがわずか照らすだけとなった空間で、黒き女はわずかに嘆息した。
「とはいっても、そろそろ気付かれる頃ね。アレももう限界みたいだし、みんなそこまでバカじゃないでしょうしね……」
子供のように足をぶらつかせながら、【ヘカテイア】は空を見上げる。
その視線の先に見ているのは、かつて自身が所属していた組織の本拠であろうか。
「これで、オリンポスがどう動いてくるか……見物よね。あなたはどうするのかしら? ソルド=レイフォース……? フフフ……アハハハハハハハ……!!」
誰に言うともなくつぶやいた彼女は、次いで高笑いを上げるのだった。




