(4)兄妹の時
火星の風の中には、少し鉄の臭いが混じっている。
テラフォーミングがなされても、星の持つ性質はそう簡単に変わらない。
見た目はかつての地球に近くなったとはいえ、火星の大地は元々、赤い荒野だったのだ。
赤道直下の街レイモスの郊外には、その名残を感じさせる荒れた岩場がいくつか存在する。
その内の一つ、人気の無い大岩の陰に、ソルド=レイフォースの姿はあった。
「アマンド・バイオテック?」
宙に浮かんだ光を見つめ、彼は怪訝そうに眉をひそめる。
光の中にたたずむ女性――電脳人格の【クロト】は、いつもと変わらぬ表情を向けている。
『はい。コードナンバーS121のケースに関わっていると思われる企業です。【アルテミス】の調査報告では、この企業の管理する施設より、カオスレイダーが出現したようです。報告の詳細については、セントラルのデータバンクに直接アクセスしてください』
「了解した」
ソルドは、セントラルのデータバンクにアクセス、意識をリンク。
たちまち彼の頭の中に情報の奔流が流れ込んでくる。
その中から必要なデータのみをピックアップし、解析処理を実行。
一連の行動にかかった時間は、わずか数秒である。
「なるほど……異常な再生力を持った敵。そして消えたデータの謎か。あいつも面倒な事件に首を突っ込んだな」
『アマンド・バイオテックは、表向き医療用クローン体などの研究開発を行っている企業となっています。しかし裏では【宵の明星】との繋がりも噂されています』
「【宵の明星】……レジデンスのコロニー含め、今や各地に散らばっているとも言われる反政府テロ組織か」
『ええ、テロ支援のための生体兵器を開発しているのではないかとも。もっとも、具体的な証拠は掴めていませんが……』
「うむ。しかし、異常再生能力を持ったカオスレイダーとの接点はありそうだ」
黄金の瞳を細めながら、ソルドは神妙な表情を作る。
普段はあまり見せない表情だ。
『司令はアマンド・バイオテックの調査も含めて、今回の事件を追って欲しいと考えているようです』
「わかった。ルナルと合流したら、すぐに行動を起こすことにする」
『あの……ソルド。気をつけてくださいね』
「了解した」
いつもらしからぬ彼の姿に、【クロト】も表情を曇らせていた。
普段はコードネームしか呼ばない彼女が、個人名を呼んだのも珍しいことである。
ただ、ソルド自身はそのことに気付くことはなかった。
(今回のサプライズ・ケース……きな臭い事件になりそうだ)
【クロト】との通信を切り、彼は再び思考の海に沈む。
これまで経験してきたカオスレイダー絡みの事件は、直接的な力の行使が主である。
世界に混沌をもたらすために奴らは生命を奪い、溢れ出る人の感情を食らっていく。
その行動は無作為で無差別であり、寄生された者の意識の残滓はあれど、カオスレイダー自身に策略めいたものはなかったはずである。
しかし今回の事件は、なにか違う。
もちろんそれは漠然とした予感に過ぎないものだったが。
「兄様!」
澱んだ風の中に聞き慣れた声を聞いたのは、それからややあってのことだ。
顔を上げたソルドの目に飛び込んできたのは、全身を薄い青で統一した麗しき女性の姿である。
子供のように輝く銀の瞳を向けたその様子は、喜びという感情に満ち溢れているようだった。
「ルナル……ひさしぶ、うあっと!?」
「兄様! 会いたかった!!」
ソルド自身も表情を緩めた瞬間、彼女の姿が視界いっぱいに広がっていた。
ふわりと漂う甘い香りと温かな柔肌の感触は、ソルドの思考を一瞬停止させるに充分なものだ。
回された細い腕が、見かけによらぬほどの力で彼の身体を締め付けた。
「おいおい……そんなに強くしないでくれ。苦しいだろう」
「だって、一カ月も会ってなかったのよ! それとも兄様は、私とこうするのがイヤなの?」
「誰もそうは言っていない。ただ、周囲の視線というものをだな……」
「ここはめったに人の来ない場所じゃない。そもそもそういう場所を選んで会ってるはずでしょ?」
「……まぁ、そうだが……」
「それに、そんな緩んだ顔して言っても説得力ないんだから」
ソルドの瞳を見つめ、ルナル=レイフォースは無邪気に微笑んだ。
大人っぽい顔立ちをしている彼女だが、こうした表情を見せている時は無垢な少女そのものである。
もちろんそれはソルドがよく知っている姿であり、だからこそ彼の表情も優しいものになっているわけだが。
「まったく。負けたよ……ルナルには」
溜め息混じりにつぶやきながら、彼はルナルの頭に手を置いた。
艶やかな髪は絹糸のようであり、撫でると砂のように指の間からこぼれていく。
それをまたすくい取るように撫でる。
きりがないようでいて、幸せを噛み締められる動きの繰り返しだ。
ルナルは嫌がることもなく、ただ静かにソルドの首元に顔を埋めている。
「本当に久しぶり……兄様の匂い、兄様の温もり……ずっと感じたかった」
「……そうか」
「もう二度と会えなかったらどうしようって思った時もあったのよ?」
「それは考え過ぎだろう」
「そんなの、わからないじゃない……」
離れていた時を取り戻すかのように、二人は互いの存在を感じ合う。
はたから見れば、恋人のように甘い一時を過ごす男女の姿であったろう。
しかし、彼らにとっては繰り返されてきた日常であり、呼吸をするように自然な愛情表現のひとつである。
それはただの兄妹よりも、遥かに深い繋がりを感じさせた。
「……さて、気は済んだか? そろそろ任務の話をしたいのだが?」
そんな時間がしばらく過ぎたところで、ソルドはつぶやく。
瞳を合わせた愛妹の顔が、わずかに膨れているのがわかった。
「兄様のイジワル……私はまだ全然足りないのに」
「これがプライベートなら、いくらでも付き合うが……今はそうも言っていられんだろう?」
「じゃあ、続きは任務が終わったあとでいい?」
「ああ、構わん」
「ホント? 約束よ」
物足りなさそうな様子のルナルは、その言葉に納得したのか、ゆっくりと兄の身体から身を離す。
それに従って先ほどまでの愛らしさは消え、冷たい氷のような表情に戻っていく。
生命を守り、混沌を駆逐する特務執行官としての姿に戻るまで、かかった時間はほんの数秒である。
ソルドもまた表情を引き締めると、彼女の瞳を見つめた。
「さて……【クロト】から報告は聞いた。今回の一件、アマンド・バイオテックが絡んでいるのは間違いないな」
「ええ、十中八九。ただ、あの場所でどんな研究が行われていたのか、なぜカオスレイダーがあそこにいたのかは不明のままよ」
そこにあるのは、すでに仲の良い兄妹の姿ではなかった。
二人は淡々と情報を整理し、与えられた任務へのアプローチを模索する。
「なんらかの生体実験が行われていたとするなら、カオスレイダーが潜む可能性はある。奴らは生命体を依り代とする。つまり取り付くのは、人間だけとは限らない……」
「つまり、あの場所で培養されていたなにかに取り付いていたと、兄様は言いたいのね?」
「サプライズ・ケースともなれば、なおのことな。実際、手合わせした奴は、どの程度の力を持っていた?」
「それほど大した力は持っていなかったわ。再生能力の高さを除いてね」
「能力的には、下級クラスということか……?」
「恐らく……でも、死に際の言葉から考えると、研究データを持ち去った別の敵がいることは間違いない」
「うむ……」
ルナルの言葉に、ソルドは腕組みの姿勢で低く唸る。
高い再生能力を持っていようと、下級クラスのカオスレイダーならば怖れることはない。
しかし、裏で動いている存在が気にかかる。
研究データを持ち去った者の目的はなんなのか?
そして、それは人間の仕業なのか?
「いずれにせよ、もう少し突っ込んで調べるしかないな。情報が不足し過ぎている」
「ええ……私はアマンド・バイオテックの本社に潜入して、施設の詳細を探ってみようかと考えています」
「そこはお前向きの任務だな。私では人目につき過ぎる」
「兄様……それを自分で言っては、世話ないわ」
自嘲気味な兄のぼやきに、ルナルが思わず苦笑を漏らす。
確かにやることなすこと派手なソルドでは、隠密行動に向かない。
それを自覚していながらも改めない辺りが、また彼らしいと思う。
そんなソルドをフォローすることが、ルナルの役割だ。
いつものことだと思う。
「ならば私は今一度、その施設を調べてみるとしよう」
「わかったわ。じゃあ、早速始めましょう」
彼女は言い終えると同時に踵を返す。
青の髪が風の中に踊り、艶めいた輝きを残す。
が、歩き出す足を一瞬止め、ルナルはわずかに兄の姿を顧みた。
「兄様……どうか気をつけて」
「ルナルもな。なにかあったら、すぐに呼べ」
「はい。兄様」
ほんの一時、微笑みを交わしながら、二人は別れる。
それは永劫を共にするようでいて、刹那に生きる者たちの想いが感じられる仕草だった。




