(14)捨ててはならない想い
パンドラの通路を歩みながら、サーナはいつになく陰鬱な表情を浮かべていた。
(まさか……ルナルちゃんが、そんなことになったなんて……)
任務完了の報告をした彼女がライザスから聞かされたのは、ルナルがソルドたちに牙を剥いたという意外な事実だった。
そして【ヘカテイア】を名乗った彼女が【エリス】同様の存在となってしまったことも――。
(ソルド君が変だったのは、これが理由だったのね。そして……)
サーナも話を聞いた時は、嘘ではないかと思ったものだ。
しかし、司令室に流れる重苦しい空気や、ソルドの見せていたあまりに暗い表情が真実ということを物語っていた。
なにより、それを如実に表していたのがアーシェリーの態度である。【クロト】が言うに、待機中はレストスペースにいることの多い彼女が、自室に閉じこもったまま出てこないというのだ。
サーナは今、そのアーシェリーのプライベートルームの前に辿り着いていた。
「アーちゃん、いる? 入っても良いかしら?」
ドア脇のコンソールに触れ、サーナは言う。
ややあって、コンソールに内蔵されたスピーカーから返答が聞こえてきた。
「……どうぞ」
その声の暗さにサーナは不安を覚えながら、ドアをスライドさせた。
室内には、やや甘い香りが満ちていた。
パンドラのプライベートルームは構造的にも簡素なものであり、下手をすれば独房と見られても仕方のないものだ。
そもそも稼働時間の多い特務執行官が私室に篭ることはほとんどない。ゆえに誰の部屋も個性は感じられず、似たような内観になっていることが多い。
アーシェリーの部屋もそれは同様であり、唯一異なっていたのが彼女が趣味とするアロマの香りだった。
「……なにか用ですか。サーナ……」
「ん……まぁ、用というほどのことはないんだけどね……」
本来は心を落ち着かせるはずの効能のある香りの中で、アーシェリーは憮然とも呼べる声で問い掛けてきた。
そんな彼女を見つめ、サーナは小さくため息をつく。
(なるほどね……これは重症だわ。あのソルド君が心配するわけね。無理もないと言えば、無理もないけど……)
アーシェリーになにがあったのかということは、先ほどの話の中で聞いていた。
【ヘカテイア】となったルナルから凄まじい憎しみを叩きつけられ、殺されかけたということ。そんな彼女を庇ってソルドが傷ついたということもだ。
「……でしたら、放っておいて下さい。少し一人になりたいので……」
「ん~……残念だけど、今のアーちゃんを一人にしておくのは危険かな」
「どういう意味ですか……?」
「自分でわからない? アーちゃん……まるで死んだ魚のような目をしてるわよ」
その言葉にアーシェリーは、泣き腫らした目元を隠すかのように顔を逸らす。
サーナはそっと歩み寄り、ベッドの淵に腰を下ろした。
「……ルナルちゃんに殺されそうになったのが、そんなにショック?」
問い掛ける彼女に対し、アーシェリーはなにも答えない。
それを肯定と捉えたサーナは、天井を見上げて言葉を続ける。
「そうよね。特にアーちゃんとルナルちゃんは同期だったしね……」
仲間といえど、特務執行官には年次が存在する。
それはあくまで偶然の一致に過ぎないものだが、やはり同時期に特務執行官となった者たちの間には他と違う関係性が存在している。
サーナでいえば、フィアネスとの関係がそれに当たるだろう。
「私は……仲間だと思ってました」
やがてアーシェリーは、訥々と言葉を紡いだ。
「でも、彼女は違ったんです。ルナルにとって私は……ソルドを奪おうとする憎い女だったんです」
言いながら彼女は、なにかを思い返すように顔を上げる。
その翡翠の瞳には、弱々しい輝きが揺れている。
「アレクシアも、私によって愛する人を失った。だからあそこまで狂ってしまった。ルナルもまた……」
「アーちゃん……」
「私は……人を愛する資格も、愛される資格もない女なんです」
どこか断定するようにつぶやくと、彼女は再び膝に顔を埋める。
「私はソルドを好きになってはいけなかった。こんな思いをするくらいなら、私はもう……彼と触れ合わないほうがいい……」
それまで静かに話を聞いていたサーナは、そこですっと立ち上がると、アーシェリーに向き直る。
「……アーちゃんっっ!!!」
いきなり怒声に近い声を上げた彼女は、アーシェリーの肩を掴んで上体を起こすと、その頬に強烈な平手を見舞った。
乾いた音が、無機質な室内にこだまする。
「しっかりしなさいよ! あなた、なにを寝ぼけたこと言ってるの!!」
「サ、サーナ……」
頬を押さえ、驚きに目を見開いたアーシェリーに対し、サーナは勢いを殺すことなく続ける。
「あなた、ソルド君が好きなんでしょう!? 愛してるんでしょう!? なんでそんな簡単に、その想いを捨てようとするのよ!?」
「で、ですが……私は……私のせいで……!」
その言葉に対し、アーシェリーは抑えていた涙を溢れさせる。
「ルナルは……私がいたから、あんな風になってしまったんです! 私がいなければ……私がソルドに想いを伝えなければ、こんなことにはならなかった!!」
泣き叫ぶように、彼女の口から思いが迸る。
それは普段のアーシェリーが決して見せることのない強い感情の解放だった。
「それなのに、ソルドは私を責めないで……! 私のせいじゃないって……! そんなこと、あるはずないのに!!」
「アーちゃん……それは違うわ」
ひとしきり叫び終えた彼女の肩にそっと手を乗せ、サーナはかぶりを振る。
「少なくともソルド君は、アーちゃんがいたから立ち直れた。ボロボロになっても再び特務執行官として立ち上がれたのは、あなたがいたからでしょ?」
地球での出来事は誰も詳しく知らなかったが、二人の結んだ絆がソルド復活の鍵となったことは確かだった。
それは純粋な想いの成せた業であり、誰にも否定できないものだ。
「アレクシアって女のことは、確かに不幸な事故だったかもしれないわ。でも、ルナルちゃんのことはあなたのせいじゃない」
「で、ですが……」
「アーちゃん……人を愛する気持ちが、罪なわけないわ。そんなこと言ったら、この世の中は罪人だらけになる」
力強い視線を向けつつも、彼女はそこで静かに口調を転じる。
「ただ、人を愛するってことは、きれいごとでもないわ。二人の人間が同じ人を好きになれば、どちらか一方が必ず泣くことになる……」
その言葉は、どこか悲しげな響きを持っていた。
それは過去に思いを馳せているようでもあった。
「それでも、相手に遠慮して自分の気持ちを押し殺したり、捨てることは間違ってる。それに、あなたの想いを受け止めたソルド君の気持ちすらも否定することになるわ。アーちゃんは……それで良いの?」
「で、でも……ソルドは……優しいから……」
「ソルド君が、優しさや同情だけで人の想いに応える男なの? 不器用でぶっきらぼうでなに考えてるかわからないけど、決していい加減な男じゃないわ」
褒めているのか貶しているのかわからない言葉で励ましながら、サーナはアーシェリーを抱き締める。
「もう一度、ソルド君に聞いてみなさいよ。彼の本当の想いを……」
それは幼子をあやすような温かさに満ちた抱擁だった。
普段とはまったく違うサーナの姿に戸惑いつつも、アーシェリーは心が穏やかになるのを感じていた。
「それにね……あたしにはルナルちゃんが、そんなひどいことをする女にも思えないのよ……」
「サーナ……」
「あの子は……人の痛みのわかる子よ。嫉妬に狂って我を見失うような女じゃない。まして仲間を傷つけるなんてね……」
わずか顔を上げ、サーナはつぶやく。
それは単純に信じたいという思いと異なり、彼女がルナルという人間を観察してきた上で導き出した確信にも近い思いだ。
「その【ヘカテイア】ってのが、本当にルナルちゃんなのか……真実がわからない今、決めつけるには早いと思うわ。だからアーちゃん……一人で悩み苦しむのは止めましょう?」
「サーナ……ありがとう、ございます……」
「別に良いわよ。他ならぬアーちゃんのためだもの。それに礼なら、ソルド君に言ってあげて。あなたのこと、本当に心配していたんだから……」
「は、はい……!」
軽くウインクをしつつ、いつもの調子で告げた彼女に、アーシェリーはようやく表情を和らげる。
重苦しく澱んでいた空気も、心なしか晴れたような気がした。
(まったく……世話の焼ける二人ね)
荷を下ろすように息をついたサーナだが、目の前の問題が片付くと同時に、内心では一抹の不安を感じてもいた。
(でも……これが個人的な気持ちの問題だけで済めば良いんだけど……ね)
その懸念が杞憂であることを祈りつつ、彼女はその視線を再び中空に投げかけた。




