(9)愛という名の憎悪
鮮血の赤が、澱んだ空に舞った。
吹き荒ぶ風がその飛沫を霧のように、辺りに飛び散らせる。
振り下ろされた漆黒の刃を見つめ、アーシェリーはその目を大きく見開いていた。
自らを裂こうとした大鎌は、しかしながら彼女の身体には到達していない。
なぜなら目の前に現れた男が、肩口でそれを受け止めていたからである。
「ルナル……もうよせ!! どうしてこんなことをする……!!」
その青年――ソルドは突き刺さった大鎌を抑えつつ、苦悶の表情を浮かべる。
身体と心の双方を苛む痛みが、その声を大きく震わせていた。
「どうして……? それをあなたが聞くの? 兄様……いえ、ソルド=レイフォース!!」
わずかな驚きを見せたルナル――【ヘカテイア】は、その声に怒りを滲ませる。
大鎌が、ソルドの肩口に深く食い込んだ。
「私の気持ちを弄んだくせに、よくそんなことが言えるわね!! 兄だなどと噓をついて!!」
「ぐっ! な……!?」
続けて放たれた言葉に、ソルドは思わず言葉を失う。
そんな彼を冷ややかに見つめ、【ヘカテイア】は告げる。
「知らなかったと思った? 私とあなたの間に血の繋がりがなかったことを……! だとしたら、とんだ間抜けだわ!!」
「うあああっ!!」
「ソルド!!」
叫ぶような声に続き、大鎌が更に食い込む。
噴き上がった鮮血にソルドが呻き、アーシェリーが叫ぶ。
「あなたとマリスの話……私は聞いてしまったのよ……」
そこで【ヘカテイア】は、語り始める。
ルナルとして生きた生前の記憶の一部を――。
それは先刻、ソルドがアーシェリーに語った話の続きだった。
ひどく荒れた夜、目を覚ましたルナルはどことない胸騒ぎを感じ、廊下へ歩み出た。
彼女の目には、少し先の部屋から漏れ出る光が映っていた。
そして、その奥から言い争うような声が聞こえていた。
「私は……ルナルを信じる!!」
いつになく激しいソルドの声に、ルナルは息を呑んでいた。
気付かれないようにそっと廊下を歩みながら、彼女は部屋の中の声に耳を傾ける。
そして次の瞬間、ルナルは驚愕の真実を聞くことになった。
「たとえ血の繋がりはなくとも、ルナルは私の妹だ!」
(え……?)
「そして、普通の人間でなかったとしても、あいつは私たちと共に生きてきた! 得体の知れない声になど負けずにな!!」
(どういう……こと……? 私が……普通の人間じゃ……ない……?)
心が荒波のように揺れるのがわかった。
目の前が暗くなり、鼓動が激しくなる。
壁に背を預け、その手を握り締めながらルナルは、襲ってきた動揺に耐えていた。
部屋に踏み込んで詳しい話を聞こうと思いつつも、身体が震えて動くことができなかった。
「ルナルは苦しみに耐え、人として生きてきたんだ! 子供たちだって、あいつを慕っている! そのことは、あなただってわかっているだろう! マリス!!」
「ソルド……」
「私はルナルを傍で守る。これまでも、これからも……! あいつを悪魔にしないために!!」
動悸が治まると同時に、ルナルはその場を離れていた。
心をかき乱した衝撃は、簡単には消えはしなかった。
しかし、それを上回る熱い感情が、彼女の中に沸き立っていた。
薄暗闇の中、静かに降り注いだ青い光が、濡れた頬を照らしていた――。
「初めて聞いた時は、ショックだったわ……」
【ヘカテイア】は、その声にわずかな悲しみを乗せてつぶやいた。
彼女の雰囲気は、それまでの冷たいものから一転して変わっていた。
姿こそ異なれど、それは紛れもないルナルの言葉だと、ソルドにはわかった。
「でも……あなたの言葉が、私を支えてくれた」
銀の瞳が、柔らかな光を取り戻していた。
血にまみれた現実の中、この一時だけ時が巻き戻ったかのようにも思えた。
「私がどんな出自でも……本当の兄妹でなくとも良かった。あなたと一緒にいられる。それだけで……私にとっては、それだけで良かったの」
人として生きてきた記憶――得体の知れない苦しみこそ抱えていたものの、それ以上に幸せな気持ちがルナルの心の中にはあった。
傍に寄りそう一人の青年の存在が、文字通り彼女にとっての光だった。
「特務執行官として生まれ変わろうとした時……私は苦しんだわ。それはコスモスティアが私の闇を拒絶していたから……」
災厄の中、突然訪れた死――悪魔の声に呑み込まれかけた心の中で、彼女は必死に手を伸ばしていた。
うっすらと聞こえてきていた声に応じ、再び蘇りたいと彼女は望んでいた。
しかし、ルナルに秩序の戦士としての資格があっても、それを阻む闇が彼女の復活を妨げていたのである。
「けれど、あなたへの想いだけで、私は特務執行官になることができたわ! この想いの強さだけは、コスモスティアも認めてくれた!!」
それでもルナルは、信じて手を伸ばし続けた。
内に秘めた青年への強い想い――それはやがて一筋の光となって、暗き闇を貫いた。
その向こうに見えた青い輝きの中、ルナルは特務執行官【アルテミス】としての生を得ることができたのだ。
「それなのに、なぜ……? なぜ、あなたは私を裏切ったの……?」
しかしそこで、温かき追憶の時は終わりを告げる。
再び冷たく変わった現実の空気の中で、ソルドは呪うように放たれた言葉を聞く。
動揺が、その金の瞳に浮かんだ。
「ルナル……! 私は裏切ってなど……!」
「なぜ、そこの薄汚い女なんかに心を奪われたのかって言ってるのよ!!!」
ルナル――【ヘカテイア】は、彼の弁解を遮って叫んだ。
どす黒く放たれた波動の中で、肩に食い込んだ大鎌が再び沈みこんでゆく。
鮮血が間欠泉のように噴き上がり、ソルドは苦痛の叫びを上げる。
「ぐああああぁぁあああっっ!!」
「私は許さない。裏切り者……兄様……ソルド=レイフォース!! あなたを殺し、誰の手にも届かないところへ連れていく! そしてそこの薄汚い女も、なにもかもみんな【ヘカテイア】の名の下に殺してやるわ!!」
【ヘカテイア】の声は、いつしか狂気に満ちたものとなっていた。
言っていることが、支離滅裂気味なことにも気付かないのだろう。
それはまさに、歪んだ愛のもたらした憎悪だった。
「や、やめ、ろ……ルナル……ッ!」
ソルドは訴えかけるように叫ぶも、その声は弱々しいものだった。
すでに大鎌の刃は、無限稼働炉のエネルギーフィールドを侵食している。あと数センチ食い込めば、文字通り彼の生命に関わってくるだろう。
【ヘカテイア】の持つ圧倒的な力はソルドのそれを凌駕している。もはや防ぐ手立てはないと思われたその時であった。
彼女の背後から現れた手が、大鎌の柄を掴んで止めていた。
「待ちなさい。【ヘカテイア】……」
そこに現れたのは、漆黒の髪と緋色の瞳を持つ女だった。
ソルドたちが目にしたメモリーデータに出てきた女――アレクシアの再生体である【エリス】である。
同じ力を持つ女の出現に、【ヘカテイア】は訝しげな視線を向ける。
「なぜ、止めるのよ。【エリス】……」
「気持ちはわかるけど、今はその時じゃない。あの方の意思に背くことになる。あなたもわかっているでしょう?」
そこで【エリス】は、色合いに似合わぬ冷たい視線を、呆然としている緑の髪の女に向ける。
「それに、そこのアーシェリーは私の獲物なの。譲るわけにはいかないわね……」
「……まぁいいわ。確かに今日は、こんなつもりじゃなかった。つまらない過去を壊しに来ただけだから……」
その言葉に嘆息した【ヘカテイア】は、手にした大鎌を消し去る。
多量の血を流して膝をついたソルドを、冷たい銀の瞳が見下ろしていた。
「特務執行官【アポロン】……ソルド=レイフォース」
同じように冷たさを取り戻した声で、彼女は告げる。
「私はもうあなたを、兄様などと呼ばない。くだらない過去は今日で消え去ったのだから……」
それは、決別の宣言であった。
思い出を蘇らせる日に、思い出の地を破壊した【ヘカテイア】は、生前のすべてを消し去ったのだ。
ただひとつ、歪んだ想いだけを残して――。
「私は必ずあなたを殺す。そして今度こそ、私だけのものにしてみせる。その時を楽しみにしているわね……」
踵を返す一瞬に歪な笑みを浮かべ、【ヘカテイア】は立ち去っていく。
冷たい風が、その長い黒髪を大きくなびかせていた。
「ア、アレクシア……」
「助かったなどと、勘違いしないことね。アーシェリー……お前は必ず私が殺すわ」
同じように【エリス】もまた、アーシェリーに告げていた。
黒きふたつの影が立ち去り、その姿が渦のような闇に呑まれて消えると、場には再び柔らかな日差しと優しい風が戻ってくる。
ただ、ソルドたちの心に穏やかさが戻ってくることはなかった。
「ソルド……だいじょうぶですか……?」
「あ、ああ……君も、だいじょうぶか……」
互いに血にまみれながら、二人は向かい合う。
彼らの周りの風景は、無残なものになり果てていた。
墓碑は粉々に散乱し、木々や草花は死んだようにしおれているか、もしくは消え失せて荒れた土を覗かせていた。
「わ、私は平気です……でも……」
その中でアーシェリーは己が身を抱き締めつつ、震える声でつぶやいた。
彼女の瞳には大粒の涙が浮かび、それがとめどもなく流れて頬を伝っていた。
「私は……やはり罪深い女なんですね。アレクシアに続いて、ルナルまであんなことに……!」
「シェリー……!」
ソルドは、思わず息を呑んでいた。
それはこれまで彼が目にしたことのないほどの、強い悲しみと苦悩とに苛まれたアーシェリーの姿だった。
やがて彼女は青年から目を逸らしながら、ぽつりと一言を漏らす。
「私は……私は、あなたを好きになってはいけなかった……」
「違う! それは違う! シェリー!!」
その言葉を聞いたソルドは、反射的に叫んでいた。
拒絶するかのような態度の恋人を強引に抱き締め、青年は強く訴えかける。
「……私の罪なんだ。あいつの本当の思いに気付かなかった私の……!」
「ソルド……」
「シェリー……だから苦しまないでくれ。君は悪くない……悪くないんだ」
そう繰り返して言葉にするソルドの瞳からも涙が溢れ、光を反射して流れ落ちていた――。




