(3)残された謎
火星の軌道エレベーター頭頂部エリア。
先の超電導ライナーの始発駅となったステーションには、わずかばかりの異臭が漂っていた。
今は営業の終了した時間帯であり、薄暗く人の気配も感じられない。
車両同様に完全無人制御のためか、静かなものである。
「……ここね」
そこに特務執行官【アルテミス】こと、ルナル=レイフォースの姿はあった。
彼女はクリスタルチューブの中を逆走し、つい先ほど辿り着いたばかりである。
(……残留エネルギーは、この奥に続いている……)
ルナルは、乗客用ゲートの他にいくつか存在する貨物搬入用ゲートのひとつに目を向けていた。
そこには、ゲートを管理している企業の名前が刻印されている。
(管理企業名は、アマンド・バイオテック・コーポレーションか。医療用クローンの開発や研究を行っている会社ね)
メモリーの情報と照らし合わせ、彼女は眉をひそめる。
先の戦闘で抱いた疑問――高い再生能力を持ったカオスレイダーの謎に関係がありそうだ。
もちろんそれは漠然とした予感で、根拠があるわけではない。
(不法侵入は気が進まないけど……この際、仕方がないわ)
わずかな逡巡の後、ルナルは中に入ることを決めた。
壁際のコンソールに手を触れると、赤い光が掌中を満たす。
しかしそれも束の間、すぐに光は青に変わり、ゲートは音をたてて開いた。
薄暗いブルーのライトに照らされた搬入通路が伸びている。
そのまま足を進めてみると、あちこちに血痕がついているのを確認できた。
時間にしたらほんの数分の距離だが、無機質な空洞は妙に長く感じられる。
(……これは……)
やがて開けた空間に出ると、そこには凄惨な光景が広がっていた。
どうやら荷捌き場のようだが、今は雑然とした惨劇の現場だ。
ひび割れた内壁、潰れたコンテナやマニピュレーターの残骸、そして点在するように転がる人間の死体――無作為で無差別な破壊の痕跡である。
(間違いない。さっきのカオスレイダーはここで覚醒したようね)
異臭に顔をしかめつつルナルが目を走らせると、崩落したコンテナの陰に通路が覗いていることに気付いた。
奥から異様な熱気が漂ってくる。
コンテナの隙間から染み出す緑色の液体も気になるところだ。
ルナルはコンテナの上に跳び上がると、身を滑り込ませるようにしてそこへ侵入した。
緑色の液体は、通路の奥から流れてくる。
人一人が通るので精一杯という通路を進むと、やがて頑強なドアに突き当たる。
そのドアも今はロックが破壊されているらしく、半開きの状態になっていた。
(……ここは、研究施設?)
扉の奥は直方体の空間であり、数基の大型カプセルが整然と並んでいた。
ただ、それらはすべて破壊され、内部にあった物体はカラカラのミイラと化している。
リノリウムの床を満たしているのは、恐らくカプセルに入っていた液体だろう。
(生体培養液だわ。でも、なんの研究をしていたの……?)
液体の分析を瞬時に済ませ、ルナルは壁際に設置されたコンピューター端末に近寄った。
幸いなことに、機能は生きているようだ。
ランプとモニターが、ネオンのように明滅している。
ただ、周囲の状況に対して、ここだけ無傷に近いのは奇妙な話だ。
(データが消去されている……何者かが全部、持ち去ったようね)
コンソールに指を走らせたルナルは、その理由をなんとなく察した。
メモリードライブは真っ白で、なんの痕跡も残されてはいない。
ネットリンクされていない独立型コンピューターのため、転送したわけでもないようだ。
つまりは、携帯型の記憶媒体に落として持ち去ったということだろう。
(これ以上の手がかりは見込めない。けど、データを持ち去った何者かがカオスレイダーに関わっていた可能性は充分にある。アマンド・バイオテックか……調べてみる必要がありそうね)
サプライズ・ケースの危険性は承知していたが、ルナルは改めてこれが一筋縄ではいかない事件になることを予感していた。
時はそれから数時間ほど進み、とある建物内の一室に移る。
そこは沈んだ雰囲気の空間であった。
床には毛並みの揃った絨毯が敷かれ、今や貴重となった天然木製の調度類が壁際に並んでいる。
周りに置かれているのは、いくつかの観葉植物で、落ち着いた雰囲気を演出している。
部屋の中央には来客用のソファセット、天井にはシャンデリアと、見た感じ富豪の屋敷を思わせる造りである。
しかし今、部屋には一切の照明が灯されていなかった。
中に一人の男がたたずんでいるにも関わらずである。
恐らく意図的に消しているのだろうが、そのためか豪華な室内もうすら寒く感じられる。
部屋の主ともいうべき男は、皮製の椅子に身を沈めている。
机上のパッドから光のスクリーンが浮かび上がっており、それが室内唯一の照明となっている。
画面には、全身を黒のスーツに包んだ人間の姿が映っていた。
『……生存者はありません。破壊の跡も相当なものです。人間の力では、ここまでの破壊は不可能でしょう』
「そうか。他に変わったことはないか?」
『一部の端末が、不自然に生き残っています。例の研究データを保存してたもののようです。メモリードライブが白紙になっているところから考えると、何者かが持ち出した可能性があります』
「持ち出したか……死体の数は確認できているか?」
『惨状がひどいので、なんとも……ただ、研究セクションの中に、死体はありません。あるのは実験体だったと思われる生物の残骸だけです』
黒スーツの報告を受けながら、男は眉間にシワを寄せた。
目鼻立ちのはっきりした精悍な顔が、わずかな苛立ちに支配される。
「研究セクションに死体がない、か……そこは密閉区画のはずだな?」
『はい』
「ならば、外部からの侵入は困難……ということは持ち出したのは本来、そこにいるはずの人間か」
『私もそう考えます。恐らく犯人はここの研究主任……アイダス=キルト博士ではないかと』
ゆっくりと身を起こしながら、男は懐からタバコを取り出した。
口にくわえ、オイルライターで火をつける。
放たれた紫煙が、薄闇の中に立ち昇るのが見て取れた。
「アイダス=キルト……奴が研究データを奪い、逃走したということか」
『しかし、どうやって逃げたのでしょう? この破壊の跡に関係があるのでしょうか?』
「……それはまだわからん。ひとまず調査を進めておけ」
『はっ……』
口慣れた味に苛立ちを静めながら、男は静かな口調で命じた。
そのまま、相手の返答を聞いたか聞かないかのタイミングで、スクリーンを閉じる。
部屋唯一の照明となっていた光が消え、辺りの闇が色濃くなった。
外から入り込む無数の光だけが、男の横顔を照らしている。
(人智を超えた破壊の跡か。だが、例の研究が順調なら……人を超えた生物を作り出すことも不可能ではない)
内心でつぶやきながら、彼は窓の外に目を向ける。
眼前に広がる光の森は彩りに満ち、時に瞬き、時に煌めく。
見る者に溜め息をつかせる夜景とは、こういうものをいうのだろう。
しかし今、彼の心がそれで穏やかになるわけではなかった。
(いずれにせよ、掴まえねばならんな……研究の内容が漏れる前に)
タバコを灰皿でもみ消すと、男はパッドを再び起動させる。
浮かび上がったスクリーンに、今度は異なる人物の顔が映し出された。
オールバックに頬骨の張った、無骨な印象の男である。
『お呼びでしょうか?』
「うむ……スーパーバイオセクションのアイダス=キルト博士が逃走した。奴の向かう先は不明だが、身内に連絡を取る可能性はある」
部屋の男は応答しながらも、手元のスクリーンに浮かんだキーボードを叩いている。
いくつかの人物データを検索していた彼は、やがて一人の人物に辿り着いた。
転送のキーを叩き、低い口調でオールバックの男に命令を下す。
「早急にこの娘を確保し、博士の情報を吐かせろ。そのための手段は任せる」
『かしこまりました』
男の辿り着いたデータ――そこには、まだあどけなさを残した少女の姿が映っていた。




