(20)深き闇に堕つ
そこはただ漆黒で塗り固められたような空間だった。
時も場所も、高さも奥行きも定かではなく、無限に広がる闇のみがある。
この世のものとも思えないような空間――その中に一人横たわっていたルナルは、身じろぎしながら目を覚ました。
「こ、ここは……?」
身を起こして立ち上がり、彼女は周囲の状況と自分の状態を確認する。
【ハイペリオン】にやられ、ズタボロになっていたはずの肉体は元の姿に戻っていた。
ただ、衣服は着ておらず裸のままだ。肌寒さを感じることこそなかったものの、ルナルは思わず身を抱きすくめる。
原子変換システムで衣服を生成しようと試みるも、なぜかそれは不可能だった。
ひどく不安な気持ちと訝しさとを覚える彼女に、いずこからか声が聞こえてくる。
『目覚めたか。特務執行官【アルテミス】……いや、ルナルよ』
「だ、誰っ!?」
羞恥に顔を染め、とっさに胸元などを手で隠しながら彼女は問い掛ける。
ただ、それに対する声の返答は端的だった。
『私が誰か……それはさほど問題ではない』
そこには特になんの感情も感じられはしなかった。
男なのか女なのか、それすらもわからない中性的な声だった。
『お前はあの時、【ハイペリオン】の手によって死の淵に沈んだ。私はそんなお前を、元の姿へ再生した』
「ど、どういうこと!? ぐっ……!?」
【統括者】の名を知る声は、ただ淡々と事実のみを語る。
思わず身を乗り出すように訊き返したルナルだが、次の瞬間その表情が苦悶に歪んだ。
呼吸が苦しく、視界が暗くなり始める。
無限稼働炉のある胸を抑え、彼女はその場に膝をつく。
『だが……このままでは、お前はやはり死ぬことになる。なぜなら【秩序の光】が、お前を拒絶しているからだ』
次いで聞こえてきた声は、彼女に驚愕の事実を突き付ける。
【ハイペリオン】に言われたことと同じ言葉に、ルナルは動揺を隠せなかった。
『お前が生き残る道は、ひとつしかない。【秩序の光】を……特務執行官であることを捨て、私のものとなることだ』
「バ、バカなこと言わないで……!! 私は……私は兄様と共に生きると決めたのよ……!!」
声の提案に激しく反発しつつも、その身に宿る力は抜けてゆく。
倒れてしまいそうになる身体を必死に支える彼女に、声は静かに告げた。
『兄様……お前はいつまで、あの男を追うつもりなのだ?』
それは先ほどまでと違い、諭すようでありどこか呆れているような声でもあった。
『報われぬ想いを背負い、お前はいつまで、あの男の影でいるつもりなのだ?』
「な……なにを……?」
『見るがいい。お前が兄と慕う男の姿を……』
そこで顔を上げたルナルに対し、声は光を投げかける。
その光の向こうに、なにかの光景が浮かび上がった。
「あれは……兄様とアーシェリー……?」
それは赤い夕陽の光が降り注ぐ海岸であった。
幻想的であり血の色にも似た輝きの中で、二人の男女が向かい合っている。
それは彼女が知る兄と仲間――ソルドとアーシェリーの姿だった。
「な……なにをしているの? なにしてるの……! 二人共……!」
目を見開くルナルは、そこで衝撃的な光景を見る。
互いを見つめた二人が唇を重ね、幸せそうに抱き合う姿を――。
言葉を失うルナルに、光は次いで異なる光景を映し出す。
それはログハウスのような家の中での出来事だった。
ソルドが、一人の少女と遊んでいる。まだ五歳くらいの子供だろうか。
青年の頬をつねったり、その背に馬乗りになったり、彼に宙に抱き上げられてはしゃいだりしている。
そんな少女を見つめるソルドの瞳は限りなく優しく、それを近くで眺めるアーシェリーの表情も笑顔に溢れていた。
「なんで……? なんで兄様……あんな楽しそうに……」
それは、最近見たことのない兄の姿だった。
正確には特務執行官になって以降、一度も見ていない姿――生前の彼が時折見せていた、今はルナルしか知らないはずの兄の姿だった。
そんな兄とアーシェリーが共にいるという事実に、彼女は心にどす黒い渦が巻くのを感じていた。
光が次いで映し出した光景――それは星の光が降る海辺だった。
立ち並ぶ木々を背に、ソルドとアーシェリーが寄り添っている。
静かに語り合っているように見えた二人は、やがて再び抱き合い、唇を重ねた。
そしてゆっくりと、身を地に横たえていく。
「やめて……! なにしてるの……? 兄様……こんな……こんな!!」
無数の輝きが照らす中で、お互いに肌を晒した二人が重なり合う。
青年の手や頭が女の身体の上を動き、それに合わせて嬌声が漏れる。
やがてしっかりと抱き合った二人はその身を繋げ、激しく動き始める。
飛び散る汗が無数に煌めき、互いに相手の熱を求め合っているかのようだ。
それは動物の本能に基づいた行為――愛という名の下に人が行う原始的で感情的な交わりであった。
そしてそれは今までルナルが決して見たことのない兄の姿であり、見たくもなかった兄の姿でもあった。
「いやああああぁぁぁぁあぁぁぁぁっっ!!」
光が消え失せた時、ルナルは絶叫していた。
それは驚愕に加え絶望を感じさせる狂乱の叫びでもあった。
『どうだ。今見たのが、あの男……ソルドの本性だ……』
「嘘よ……嘘よ!!」
『嘘ではない。あの男は、仲間であるアーシェリーと心を交わした』
激しく首を振る彼女に対して、声は無慈悲に語る。
そこには、どこか楽しんでいるような響きが感じられなくもなかった。
『お前が苦しんでいる間、あの男は砂糖菓子のような甘い一時を過ごし、獣のように愛する女と求め合っていたのだ』
「そんなこと……あるはずない!!」
『哀れなものよ。ならばお前にもうひとつの真実を伝えよう……』
これはまやかしだと言い聞かせているようなルナルに、声は更なる光を投げかける。
そこに浮かび上がった光景は先ほどまでのものと異なり、どこか象徴的なものであった。
『闇を照らす月は……太陽がなければ輝かぬ』
宇宙に浮かぶ太陽が、月に光を投げかける。
それに合わせるように映像が転じ、赤く強い光が結晶に吸い込まれ、それに合わせて結晶が青い光を放つ。
『お前の持つ【秩序の光】は、他の光から力を借りることで、初めて輝く特殊なものなのだ』
「なんですって……?」
『お前は不思議に思わなかったか? なぜすべての特務執行官の中で、お前だけがその身を光に変えられたのか……』
声は光子変換のことに言及した。
それによればルナルのコスモスティアは自力で力を発揮できない代わりに、他のコスモスティアから得たエネルギーに自身のデータを乗せて一時返還しバックアップとすることで、分解後の再構成を可能にするということだった。
なぜ、声の主がそんなことまで知っているのか――いつものルナルならそこに疑問を抱いたはずだろう。しかし、動揺の中にある彼女にはそこまで思い至る余裕がなかった。
『その力の源となっているのは、心の絆……しかしお前は、ソルド以外の者と強い絆を交わそうとはしなかった』
複数の輝きを持つ結晶体の映像が浮かび、円状に並んだ中央に唯一、自力で光を放たない青の結晶があった。
しかし声の言葉と同時に、赤と青の結晶以外は姿を消す。
続いて唯一残った赤い結晶も離れ始め、それに伴い青の結晶は光を弱めていく。
『だがお前は、そのソルドにすら疑いを抱いてしまった。自分を見捨てて離れていくのではないかという疑いをな……それが唯一の絆を薄れさせ、お前の力を低下させた』
「そ、そんなこと……ない!!」
『ではなぜ、お前は【ハイペリオン】に……いや、奴の下僕にすら負けたのだ? お前がいくら否定しようとも、その現実が物語っているではないか?』
愕然とするルナルに、声は追い打ちをかける。
仲間として接してはいても、ルナルは他の特務執行官に強く心を許してはいなかった。彼女にとっては兄だけがすべてであり、任務以外で自ら関わることはほとんどなかった。
そしてソルドとの絆に、彼女が疑いを持ち始めていたことも事実だ。
苦悩の中にあったソルドは本心でなかったとはいえ、ルナルを遠ざけてしまった。そして強い因縁のあったアーシェリーが、代わりに傍に寄り添った。
命令とはいえ、その事実がルナルの不安を煽り、心を蝕んでいったことは確かなのだ。
『それにルナルよ……わかっているはずだ。お前の本質は闇なのだということに……』
沈黙した彼女に対し、声は更なる非情の事実を告げる。
その言葉を聞いた瞬間、彼女の頭に響き渡る声があった。
『抹殺せよ』
「あ、あ……!」
『すべてを抹殺するのだ。それがお前の存在意義……』
人の頃から抱えていた闇が、再び浮かび上がろうとしていた。
彼女の意思の中に冷たい殺意として潜んでいたそれは、今や二重人格にも似た変化を生み出すに至っている。
そしてコスモスティアは、その殺意にこそ反発していた。
『お前は、人の闇に生まれ落ちた者だ。そんなお前が光を求めるなど、愚かでしかない』
「ち、ちが……!」
『自らの心を偽るな。お前は、すべてに死をもたらすために存在する』
「く、う……わ、わたし、は……う、あっ!?」
ここぞとばかりにたたみかけてくる声に、ルナルは抵抗することができなかった。
黒く渦巻いた感情と潜んでいた殺意とが、ひとつとなり膨れ上がる。
同時に彼女は、自身の生命を支える無限稼働炉が動きを止めてしまったことに気付く。
『【秩序の光】が、お前を完全に拒絶したか。さぁ、選べ。ルナルよ……このまま死ぬのか、それともすべてに死をもたらす存在となるか……』
『抹殺せよ……敵となる者はすべて……それがお前の存在意義……』
消えかけていく意識の中で、謎の声と内なる声が無慈悲に告げる。
先に見た衝撃的な映像が、再びその脳裏を駆け巡った。
ガラスのように、彼女の中にあった温かな想いが砕け散っていく。
そして心の拠り所を失ったルナルは、己が闇を静かに受け入れる。
「ゆるさ……ない……許さない! 裏切り者……! 兄様! アーシェリー! みんな……みんな!!」
強く慕っていた兄への愛情は憎悪に転じ、そして彼女の知るすべての者への憎悪へと変わった。
その叫びが放たれた瞬間を狙ったかのように、虚無の空間から刃のような手が現れる。
それはルナルの胸を貫き、奥にあった無限稼働炉を強引に引きずり出した。
激しいスパークを見せながら機械の心臓は闇に消え失せ、代わって胸元に吸い込まれていったのは闇を濃縮したような結晶である。
それは胸の空洞を瞬時に修復し、何事もなかったかのようにルナルを元の姿に戻した。
『これで【秩序の光】のひとつが消えた。そして【虚無の深闇】がここに……ようこそ我が下へ。愛しきルナルよ……』
やがて謎の声は、満足げに言った。
その声に応えるかのように、ルナルは自らの姿を変じていく。
かつてと同じ特務執行官の服に身を覆いつつも、その色は闇よりも深い漆黒となった。
彼女の特徴とも言えた鮮やかな青髪も漆黒へと変わり、銀色の瞳は一切の温かみを消した金属のような輝きだけを放つ。
「我は新月……静寂の使者。深闇より来たりて、あまねくすべてに死と破壊の安息をもたらす者……」
そして彼女は、名乗りの文言をつぶやく。
それは特務執行官【アルテミス】のものではない、憎悪と殺意とに溢れたものであった。
「我が名は、虚無の殺戮者……【ヘカテイア】」
暗き月の女神を名乗ったルナルは、そこで口元に冷たい微笑を浮かべるのだった――。




