(5)異変と不信
古びた建物が、燃えていた。
竜巻のように巻き上がる炎が、視界を朱に染めていく。
熱風が吹き荒れ、周囲が地獄のような暑さを帯びている。
その中に長い髪をなびかせてたたずみながら、ルナルはただ呆然と目の前の光景を見つめている。
「これは……なに……?」
その瞳に映ったのは、虐殺の光景。
弾ける血飛沫と共に、小さな骸が地に倒れていく。
幼い子供たちを追い回し、死の洗礼を与える者――それは人型の怪物だった。
女の首を引っさげ、悪魔のような黒い姿をしていた。
そして耳障りの悪い笑い声を上げ、殺しを楽しむ魔物の前には、血を流して横たわる青年の姿がある。
「にい……さま……」
それはルナル自身が、兄と慕う人間だった。
しかし、彼女は男の元へ駆け出そうともせず、小さくつぶやくのみだ。
ぐるぐると回る様々な感情が、彼女の思考を停止させる。
やがて目に見えるすべてが赤く染まる中で、その感情はどす黒い憎悪に塗り潰されていく。
『……抹殺せよ……』
頭の中に、声が響く。
自分のものではない声――しかし、それは確かにルナル自身の声でもあった。
『抹殺……すべてを抹殺せよ……それがお前の存在意義……』
脅え立ち竦んでいた身体に、力が戻ろうとしていた。
自身の傍らに転がっていた歪んだ鉄パイプを拾い上げ、彼女は惨劇を生み出す怪物を見据える。
「殺す……抹殺する……すべて……すべてを……」
謎の声に導かれるように、ルナルは無機質で冷たい声を放つ。
そして次の瞬間、彼女は目の前の敵に向かって疾駆した――。
「殺す……抹殺……すべて……っっ!?」
はっとしたようにホテルの一室で目を覚ましたルナルは、全身に浮かんだ冷たい汗と共に身を震わせた。
呼吸が荒く、どこか息苦しい。
身を起こし、朝に変わり始めた光が差し込む室内で、彼女は今見たばかりの夢を思う。
「い、今のは……なんで……? なんで今になって……?」
胸を抑えつつ、彼女は誰もいない空間に問い掛ける。
それは他でもない生前の記憶――正確には、彼女が生命を失う直前の記憶だった。
同時にそれは、彼女にとって忌まわしき記憶でもあった。
「もう……思い出したくもなかったことなのに……」
ベッドから降り、ふらふらと洗面台に向かう。
鏡の前に立ち大きく息をついたルナルだが、ふと視線を上げた時、そこにあり得ないものを見た。
「っ!? そんな!!」
そこに、もう一人の自分の姿が映っていた。
まるで仮面のような無表情を張り付けた、自分と瓜二つの女の姿だ。
驚いて辺りを見回すものの、しかしそこに自分以外の者の姿はない。
『抹殺しなければならない……』
次の瞬間、ルナルの脳裏に響く声があった。
それは夢の出来事で聞いた、自分ならざる者の声だった。
『抹殺……すべてを抹殺しなければならない……』
「うぅっ……や、やめてっっ!!」
その声を振り払うように絶叫した彼女の頭に、凄まじい痛みが走った。
頭を抑え、膝から崩れるように倒れたルナルは、その場で激しく咳き込む。
「こ、これ、は……そんな……そん、な……!」
特務執行官にあり得ないはずの病に似た苦しみに苛まれながら、彼女は愕然とつぶやく。
その表情は、女神の美しさすら歪める苦悩に満ちていた。
硬質な光の満ちる狭い空間に、微かな音だけが聞こえる。
天井付近に点滅する光が、数字の上を移動していく。
やがてそれが止まり、同時に体感としてあった動いているという感覚もなくなる。
扉が横にスライドし、目の前に青白い光が広がると同時に、男はそこに一人の女の姿を認めた。
「お疲れ様です。代表……」
赤毛のショートヘアを持った美しい容姿の女は、エレベーターを降りた男に丁寧な仕草で挨拶をする。
それに対し男は片手を上げて挨拶を返すと、女を伴うようにして歩き始めた。
「昨晩はずいぶん長いことお話されていたようですね」
「そうだな。久々の旧友との語らいは、なかなか盛り上がった。学生の頃を思い出したよ」
「そうですか。それはなによりです」
床に整然と並ぶ青色灯の間を進みつつ、その男――SSS代表取締役のイーゲル=ライオットは静かに微笑む。
ただ、そこに見える感情が言葉通りのものかどうかは、あいにくそれ以上察することはできない。
冷たい通路に響く足音が、規則正しい音色を刻む。
「ところでフェリア君。例の計画の進捗状況だが……」
やがてイーゲルは、やや実務的な口調で問いを発した。
それに対しフェリアと呼ばれた女は、手元のタブレットを操作しながら淡々とした様子で返答する。
「はい。今のところ五十パーセントといったところでしょうか」
「そうか……あまり良くはないな。実戦での実用化にはまだ遠いか……」
「例の細胞には、ムラカミ博士も手を焼いているようですので。さすがは稀代の天才と呼ばれたアイダス=キルトの遺産ですね……」
光と影が交互に訪れる中、二人は視線を交わし合うこともなく進んでいく。
「ちなみに、もうひとつのほうはどうだ?」
「あの謎めいた種子の進捗は更に良くないようです。そもそもどこから来たのかさえわからない謎の生命体ということですので……」
「うむ……仕方がないな。近々実行されるという【宵の明星】の作戦には、またダイゴの力を借りることになるだろう」
報告を聞き終えたイーゲルは、わずかに息をつき中空を睨んだ。
物事が思い通りに進まないのは仕方のない部分もあるが、それでも不満は募る。今後のSSSの在り方を左右する計画だけに、無理もないところだろう。
そんな上司の様子を茶色の瞳で見つめながら、フェリアは少し控え目な口調で問い掛けた。
「代表……ひとつよろしいでしょうか?」
「なにかね?」
「かつてのご友人のことを悪く言うわけではないのですが……オザキ氏のことを信用し過ぎではありませんか?」
言葉こそ丁寧であったが、そこには彼女自身が抱く不信感も覗いているようだった。
もちろんその不信とは、イーゲルではなくダイゴという男に対してのものだ。
苦言めいたその言葉に、男の視線が鋭くなる。
「そう見えるかね? 私はそこまでお人好しではないつもりだが……?」
「申し訳ありません……出過ぎたことを申しました」
「いや……気にしなくて良い。君のそういうところは、私も高く評価しているからね」
やや恐縮した様子のフェリアに、イーゲルはふっと笑みを浮かべた。
そこには偽りのない女への信頼が窺える。
「確かに今のダイゴは得体が知れない。昔から油断ならない男だったが、今は特にだ。奴がSPSや謎の怪物を使役できる理由も定かではないからな……」
言いながら彼は、昨晩のダイゴとの会食を思い出す。
職務や時間の経過を忘れるほど話に盛り上がったのは事実だったが、同時にダイゴという男が時折見せた異質な雰囲気が、彼の警戒心を煽っていた。
自殺を装ってアマンド・バイオテックを離れた理由も、今の段階では不明のままだ。
その後、イーゲルの元へ来るまでなにをしていたのかも――。
「恐らく奴にもなんらかの目的があるのだろうが、利害の一致する間はうまく利用するだけだよ」
ただ、それに対し過剰な反応をする必要はないとイーゲルは思っている。
欺瞞と裏切りの渦巻く裏社会で、昨日の友が今日の敵になることなど日常茶飯事だ。不測の事態に対する備えさえ怠らなければ、そこまで恐れることはない。
改めてフェリアに笑みを向けたイーゲルは、努めて穏やかな口調で語り掛ける。
「それよりもフェリア君、今晩は空いているかね? たまには二人で食事でもどうだ?」
「光栄です。代表……ぜひお供致しますわ」
その誘いに対し、わずかに笑顔を取り戻しながらフェリアは返答した。




