(18)朝焼けに思う
限りなく続く青い闇の中で、それは怨嗟の声を上げていた。
「アァシェリィィィ……!」
声としては聞こえない声だった。
しかしそれは圧倒的な憎悪をもって、清浄な世界を邪悪に染め上げていく。
「アアァシェリィィィィ……!!」
その声を放つのは、異形の首であった。
紅き瞳と裂けた口を持つ復讐鬼の女の首であった。
「ちからを……! もっと、ちからをおぉぉぉ……!!」
そして、首は猛る。
宿敵に対する力を求めて、首は猛る。
静かなる水底に放たれる黒い願望――それに応えるものはいないように思われた。
しかし神か、もしくは悪魔は、首を見捨ててはいなかった。
『混沌の種子を呑み込むほどの憎悪……』
それは物理的な存在感すら感じさせる声だった。
大きく響くようで、耳元で囁かれるような不思議な声だった。
その主が何者なのかはわからない。
姿は見えず、ただ声だけが存在していた。
『これも人間の可能性か……実に面白い……』
「だれ、だあぁぁぁ……?」
紅い視線を巡らせて、首は問う。
しかしやはり、相手の姿は見えない。
『力が欲しいか……? アレクシア=ステイシス……』
やがて声は、首に向けて語り掛ける。
かつて呼ばれた己の名を知る得体の知れない声に対し、首は再度叫ぶ。
己をこのような姿にした敵に対する憎しみを滾らせて、呪うように叫ぶ。
「ちからをおぉぉ……! もっと、ちからをぉぉぉ……!!」
その叫びに対し、謎の声は笑ったようだった。
次いで首の放つ憎悪を取り込むかのように濃い闇が広がり、そのすべてを包み込んでいく。
やがて深淵の青を塗りつぶす黒が、首にとって唯一の世界となった。
『ならば、誓え。私のものとなることを……』
その闇の中、目のように見える輝きが復讐鬼の首を捉える。
慈愛と憎悪――相反するものを内包したような異質な輝きだった。
そして紅き瞳はその輝きを、どこか食い入るように見つめる。
『さすれば、お前は蘇る。宿敵と、お前を陥れた者たちを屠る力を得て……』
「ほしい……ちからを……ちからをおぉぉぉ……!!」
その誘いに対し、首は同じ言葉をもって叫ぶのみだったが、そこには謎の声に応じる意思が存在していた――。
戦いから一夜が明けた翌日、ソルドたちはイサキらに別れを告げていた。
アレクシアやカオスレイダーとの戦いで想像以上に消耗した二人はライザスより半日ほどの猶予をもらっていたが、特務執行官である彼らに許された休息はそこまでであり、また次なる任務が二人を待ち受けているのだ。
「おにいちゃんたち、いっちゃうの……?」
朝焼けの中、目の前に立つイサキは普段の明るさもなく、しょんぼりと肩を落としている。
共に過ごした時間は一日にも満たなかったが、少女の中でソルドたちの存在は大きなものへと変わっていた。
少女を癒すアオメクジラたちもいなくなってしまった今、別れに際し抱く寂しさもひとしおなのだ。
「イサキ……そんなに悲しい顔をするな。笑顔でいれば幸せが来るって、くじらさんに教わったんだろう?」
「でも……」
「心配しなくても、ずっとお別れってわけじゃない」
ソルドはそんな少女の頭を撫でて、力強く告げる。
忘れかけていた気持ちを自分に思い出させてくれた少女は、彼にとっても大切な存在となっていた。
また新たな戦いへと赴く彼であるが、イサキのことを忘れるつもりはない。
だから彼は、笑顔と共に約束する。
「また会いに来る。シェリーと一緒に必ずな」
「そうですよ。イサキちゃん……お姉ちゃんも約束します」
そして、その言葉を受けたアーシェリーもまた笑顔を見せる。
イサキの肩に優しく手を置き、彼女は温かな眼差しで少女の瞳を見つめた。
「ほんとだよ? やくそくしたからね! きっとまた……きてね!」
いまだ涙の止まらないイサキだったが、二人の言葉にごしごしと目元をこする。
幼いながらもその思いを察した少女は、その顔に再び笑顔を浮かべるのだった。
「若造……」
「ムラカミ博士?」
そんな彼らの様子を見守っていたダイモンは、ゆっくりとソルドの傍らに立つ。
その表情は今までの仏頂面と異なり、どこか柔和なものに見えた。
「お前の覚悟、見せてもらったぞ。まだまだヒヨッコじゃが……お前になら人の未来、任せても良さそうじゃな」
これまでの人生で見てきた闇――特に語られることはなかった老人の過去。
それゆえにやや厭世的になっていた彼だが、戦いの中で見たソルドの思いには感ずるものがあったようだ。
不思議そうな表情を見せる青年の肩を叩き、老人は力強い口調で一言を告げる。
「頼んだぞ……ソルド=レイフォース」
それは他でもないソルドを、一人の男として認めた言葉であった。
わずかに目を見開きつつも、その真意を汲み取った青年は、ダイモンの目を見据えて力強く頷く。
「それでは、私たちはこれで失礼します。皆さんもお元気で……」
やがて集落の人間たちに向けて、アーシェリーが告げた。
残念ながら、すべての物事が円満に解決したわけではない。アオメクジラたちがいなくなった今、かつてのように有害な海洋生物の襲撃に遭うことは増えてしまうだろう。
それでも人は、生きていかなければならない。共に力を合わせ、困難に立ち向かいながら歩み続けなければならない。
そして、そんな人間たちを恐るべき混沌から守ることが、特務執行官の使命でもあるのだ。
名残惜しさを残しつつ集落をあとにしながら、二人は見送り続けるイサキたちに最後大きく手を振った。
「ソルド……もし……」
やがてイサキたちの姿が見えなくなった頃、アーシェリーは静かにつぶやいた。
どこか寂しげな笑顔を浮かべた彼女に、ソルドはやや訝しげな視線を向ける。
「もし、私たちが……」
「どうした? シェリー?」
「いえ……なんでもありません……」
なにかを言いかけたアーシェリーだったが、そこで思い直したかのように首を振った。
それは口にしても、意味のないことであるかのように――。
「そうか……」
彼女の顔を見つめたソルドは、薄々ではあったがその思いがなんであるかに気付いていた。
それはソルド自身も、ふと思ったことだ。
もし、特務執行官ではなく人として彼らが出会っていたならば、もっと違った未来が見えたのではないか。
イサキと過ごしたような温かな時を、夢見ることができたのではないかと――。
「守らないといけないな。私たちは……未来を……」
ややあって、彼はつぶやくようにアーシェリーに告げる。
残念ながら現実は非情だ。二人は特務執行官としての宿命を背負い、その中で心を交わした。
人としての心を持ちつつも、人と同じ時は歩めない。人と同じ幸せを得ることはできない。
そんな彼らができることは、苦悩を抱えながらも人の築く温かな未来を守っていくことだけだ。
「そうですね。ええ……その通りです」
彼の言葉に、アーシェリーは静かに頷く。
その顔にあった寂しさは消えてなくなり、代わって新たな決意と隣に立つ青年への想いだけが浮かんでいた。
世界を混乱に導くカオスレイダーとの戦いは、いまだ続く。
そして戦局は大きく変化を見せ始めており、今後、激化の一途を辿っていくだろう。
しかし、変化する物事があるのと同時に、変わらない想いもまた存在する。
それを心に刻みつつ、二人の特務執行官は光となって朝焼けの空に飛び立つのであった――。
FILE 6 ― MISSION COMPLETE ―




