(13)解き放たれる想い
潮騒の音が、耳を打つ。
闇の中、優しい風が頬を撫で、甘い香りが鼻をくすぐる。
死後の世界か――そう思えたのは一瞬のことで、青年は全身に蘇る温かさに生の感覚を取り戻す。
(私は……生きている、のか……? なぜ……?)
疑問を抱きつつ、彼はその目をゆっくりと開く。
まず瞳に映ったのは、雲を浮かべた広大な空だ。
そしてゆっくり視線を移すと、そこには彼を覗き込むようにしている緑髪の女性の顔があった。
「気が付きましたか? ソルド……」
「シェリー……」
「無事で良かった。本当に……」
眼鏡を外した姿の彼女は、涙ぐみながら語り掛けてくる。
そこで初めてソルドは自分が、彼女に膝枕されていることに気付いた。
全身を襲っていた痛みは、すでに消え失せている。ナノマシンヒーリングを駆使し、アーシェリーは彼と自身の傷とを治療したのだろう。
ソルドは意外さを隠せない表情で、彼女を見つめた。
「なぜ……私を助けたんだ……?」
「なぜって……当たり前じゃないですか。どうして、そんなことを聞くんです……?」
「君は……私が憎くないのか……?」
思わず彼は、ずっと抱えていた本音を漏らしていた。
深海で死にかけた時、必死の形相でやってきたアーシェリーの姿は今も目に焼き付いている。
しかしいくら仲間とはいえ、かつて彼女を守ることができなかった自分にそんな価値があるとはとても思えなかった。
「私が……ソルドを憎む……?」
ただ、その言葉に対して意外そうな表情をしたのはアーシェリーも同じだった。
ゆっくりと身を起こしたソルドは、彼女に背を向けつつ言葉を続ける。
「君と初めて会ったあの日……私が君を守れていれば、君は特務執行官になることはなかった……」
遠い目をして、彼は語る。
初めての任務で犯した過ちと、澱のように残る後悔の記憶を。
アーシェリーという人間の生命を失わせ、その運命を変えてしまった過去のことを――。
「君を死なせた上に、この戦いの地獄へ引き込んでしまったのは、紛れもなく私だ。私が不甲斐なかったばかりに君は……! 君には、私を憎む権利があるはずだ……!」
一度口にしてしまえば、背負い続けたその苦悩を吐き出すのは簡単だった。
叫びにも似た独白を黙って聞いていたアーシェリーだったが、やがてわずかな笑みを浮かべると、ソルドの両肩にそっと手を乗せる。
「ソルド……私は、あなたを憎んでなどいませんよ……」
その声は、いつになく優しい響きをもって青年の耳に届いた。
思わず驚きの表情を浮かべたソルドは、肩越しに振り返る。
「だって、知っていますから……あなたがどれだけ苦しんでいたか。そして、それを隠して強く振舞っていたか……」
「シェリー……?」
それは、意外な言葉だった。
深く静かに見つめてくる翡翠色の瞳を前に、彼は続ける言葉を失う。
「あなたと出会ったあの日……初めて言葉を交わした時から、私は……どこか惹かれていました」
そこでアーシェリーは、在りし日のことを最初から語り始める。
姉の結婚式の日、おぼつかない動きながらも必死に仕事をしていた彼に好感を抱いたこと。
そんな彼と話をする中で、どこか穏やかで優しい時を感じたことを――。
「そして、私が死に瀕したあの時……知ったんです。あなたが私を守れなかったことを、どれほど悔やんだのか……」
カオスレイダーに刺され、生命の鼓動を止めようとした時、不思議な輝きに包まれたことはうっすらと彼女も覚えていた。
その中で同時にアーシェリーは、深い悲しみと後悔の感情をも感じ取っていた。
人の思いを伝える意思の光――その悲しみがソルドの思いであったことを知ったのは、彼女がコスモスティアの意思と邂逅した時のことだった。
「単に資格者というだけだったら、私は特務執行官になることはなかったと思います。姉や私のような目に遭う人を増やしたくはなかったけれど、それだけで果てのない戦いを乗り切れる自信はありませんでしたから……」
淡い光の中で今後の生死を決める決断を迫られた時、アーシェリーの心には不安しかなかった。
特別な過去も経験もない普通の人間には、人を捨てて生きるという決断は重過ぎたのだ。
それでも彼女が特務執行官としての運命を受け入れたのは、自分の死を嘆き悲しみ後悔し、癒えない傷を負ってでも戦い続けようとする青年の存在があったからだ。
優しく強い意思で苦悩を隠そうとする不器用な男――そんな彼がたまらなく愛しく、手を差し伸べたいと思った。
その思いに、コスモスティアも応えてくれたのだ。
「私が特務執行官になったのは、あなたがいたからなんですよ。ソルド……他の誰でもない、あなたがいたから……」
「シェリー……」
アーシェリーはソルドの首元から腕を回し、その身体を後ろから強く抱き締めた。
優しい香りと温もりとが、青年の身体を包み込む。
「前にあなたは言いましたよね。私たちは同じ苦しみを共有する仲間だ。君がその罪と向き合うのが辛くなったなら、いつでも話を聞く、と……」
「それは……」
それはかつてアレクシアの婚約者であるロイスを葬った彼女に、ソルドが言った言葉だった。
あの時も、正解のない問いに必死に答えようとする彼の姿があったのを覚えている。
今も明確な回答は導き出せない問い――しかしアーシェリーにとって、それは紛れもない正解であったのだ。
「その言葉を今、あなたにお返しします。私たちは同じ苦しみを共有している……ですから、あなたが自分の罪に耐えられなくなったのなら……どうか、私を頼って下さい」
ゆえに彼女は、ソルドに告げる。
偽らざる自分の想いと、彼からもらった優しさとをひとつにして、願うように告げる。
「あなたの心は、私が支えます……だからもう、一人で苦しまないで……」
「……シェリー…………すま、ない……」
そんな一連の言葉を聞いたソルドの瞳から、止めどもない涙が溢れた。
震える声で答えながら、彼はアーシェリーの柔らかな温もりに身を委ねる。
ずっと抱えていた心の重荷が軽くなっていく感覚を、彼は感じていた。
もちろん、今までの戦いの中で負ったすべての罪が消えることはない。
しかし罪の発端となったアーシェリーに許され、彼女の深い想いを知ったことで、ソルドの心は再び光を取り戻そうとしていた。
「アーシェリー……そんなに、その男が大事なの?」
無言で寄り添っていた二人の耳に、苛立ちを含んだ声が響いたのは少ししてからのことだ。
気が付いたようにソルドたちが声の方向に視線を向けると、そこには悠然と滞空する緋色の女の姿があった。
「アレクシア……」
「反吐が出るわね。人を不幸に陥れたお前に、人を愛する資格があると思っているの!?」
すぐにソルドから身を離したアーシェリーは、立ち上がって前に進み出る。
いつになく強い憎悪の視線を向けてきたアレクシアに、彼女は静かな声で答えた。
「……そうですね。あなたの言う通りかもしれません……」
かつてアーシェリーは、カオスレイダーの寄生者という理由でアレクシアの婚約者を殺害した。
もちろんそれは任務のための決断であった。しかし理屈はともかく、感情的に納得のいかないものがあったことは確かだ。
恋人を殺されたアレクシアは当然として、アーシェリーもその理不尽さは痛感していた。
「人を捨て、人を守るために、人でなくなった者を葬り続ける……私たちの生は矛盾に満ちています」
言葉にしながら、彼女は改めて思う。
特務執行官はあまりにも罪深い存在であり、人の身では耐え難い苦悩を背負った存在であると――。
「ですが、私たちの心は……人です。強くも弱い人そのもの……だから、私はあえて言います」
それでも彼女は、自身の運命を不幸とは思わない。
強がることもなく、弱さを抱える人として、彼女はその運命と戦うと決めた。
同じ道を歩む者を支え、共にあり続けると――。
「私はソルドを守ります。それは使命感でも、同情でも……仲間だからという理由でもない……」
それはたったひとつの純粋な想い。
自身の胸に手を当てたアーシェリーは、それまで心に秘めていた想いを力強く解き放つ。
「私が彼のことを、愛しているからです!!」
「!? アーシェリー……ッ! お前はぁああああああぁぁああぁぁぁぁぁぁっっ!!」
その言葉に反発するように、アレクシアの怒声が響き渡る。
愛を告げる女と、憎悪をみなぎらせた女――その間に巻き起こった激情の嵐が、色の重なり合った空に再戦の鐘を打ち鳴らした。




