(3)炎は蘇らず
小惑星パンドラのレストスペース――特務執行官たちが集う場に、ソルドはいた。
椅子に腰掛け、ただ呆然と一点だけを見つめる姿は、心ここにあらずといった雰囲気だ。
その表情は普段の彼と比較しても、影が差している。
「兄様……どうぞ」
そんな彼の元に、妹であるルナルがいつものように茶を持ってやってくる。
湯気の立つ湯呑みを眼前に置かれるも、今の青年はそれに対して反応することはなかった。
心配そうな表情を浮かべたルナルが傍らで見守っていると、やがて小さな声で彼は告げた。
「ルナル……言ったはずだ。私に関わるなと」
それは極めて感情のない声だった。
愛情も苛立ちもなく、ただ無機質で抑揚にも欠けている。
ノーザンライト・アカデミアでの任務から一週間――身体的なダメージは回復したものの、ソルドの特務執行官としての力はいまだ戻らずにいた。
原因不明のまま、ただ時間だけが流れていく日々の中で、彼の心もまた光を失っていた。
「私に関わった者は、皆不幸になる。もう、放っておいてもらって構わない……」
「そんなこと……できるわけないじゃない!」
それまで堪えるように黙っていたルナルは、震える声で叫んだ。
まるで凍り付いたような兄の横顔を、揺れる銀の瞳で覗き込む。
「兄様、いったいどうしてしまったの? いくら力が戻らないからって、こんなの……兄様らしくない!」
「……っ!? 私に触るなっっ!!」
ただ、その手が伸ばされようとした時だった。
音を立てて立ち上がったソルドが大きく目を見開き、ルナルの手を跳ね除けたのである。
湯呑みが倒れ、溢れた茶の表面に二人の動揺した姿がおぼろげに映し出される。
「にい、さま……」
ルナルは、ただ呆然と兄を見つめた。
彼女にとってそれは、あまりに衝撃的な事実だった。ソルドが自分との接触をここまで激しく拒否したことは今までなかったからだ。
ソルド自身もそれは理解していたようで、やや申し訳なさそうな表情を見せつつ顔を背ける。
「す、すまん……だが、本当にもう関わるな。私はお前まで、不幸にしたくはない……!」
「に、兄様っっ!!」
逃げ出すように走り去った彼を、ルナルはしばらくの間、見ていることしかできなかった。
その銀の瞳からは、一筋の涙が伝い落ちていた。
「あ~あ……結構手間取っちまったな。ま、久々に本気の戦いができたのは面白かったけどよ」
無機質な通路を歩きながら、その男は首をコキコキと鳴らしてつぶやいた。
やや筋肉質な身体、吊り上がった目にボサボサの紺の髪を持つ男は、その言動も相まってか少し粗野な印象を受ける。
男の名はロウガ=アームドフォースという。特務執行官の一人であり、【アレス】のコードネームを持つ者だ。
「想像以上に厄介でしたね。新種のカオスレイダーは……私もビックリしました」
そんな彼のつぶやきに応じたのは、栗色の長髪が印象的な女性だ。
落ち着きのあるゆったりした口調と温厚な見た目は、ロウガと対照的に上品な印象を周囲に抱かせる。
彼女は【デメテル】のコードネームを持つ特務執行官であり、その名をメルトメイア=ランドフォースという。
名前自体が長めなので、普段は愛称のメルで呼ばれることが多い。
「あんなのが頻繁に現れるようになったら、おちおち休んでもいられなくなりそうだな」
そんな二人と並ぶように歩くのは、金髪碧眼の青年――特務執行官【ヘルメス】ことシュメイス=ストームフォースだ。
彼らは先ほど任務を終え、パンドラに帰還したばかりである。
「それでなくても、特務執行官は激務だってのにな……普通の人間なら、過労死間違いなしだな」
「二十四時間三百六十五日、戦えますか?って感じですからね……」
「どんなブラック企業の謳い文句だよ。笑えねぇぞ。メル……」
冗談めいた会話を交わす三名だが、実際は消耗している様子だった。
月面の採掘プラント――セレスト・ワンを巡る戦いは激戦であったものの、それ自体は特に厳しいものでなかった。
しかし、新種と呼ばれるカオスレイダーとの戦いは彼らも初めてであり、その圧倒的な力の前には苦戦を余儀なくされてしまったのだ。
今回は仲間同士のフォローがあったものの、そうでなければこうして無事にいられたかも怪しいものだ。
身をもって体感した衝撃的な現実に、今後のことをあれこれ思いながら歩む三名の行く手から姿を現したのは赤い髪の青年である。
「あら? ソルドじゃないですか。身体の調子はいかがです?」
メルトメイアが笑顔を浮かべて挨拶するが、それに対する青年――ソルドの反応はない。
「フン……相変わらず腑抜けたツラしてんなぁ。まだ力が戻らねぇのかよ」
どこか虚ろな表情の彼を見て、ロウガが鼻を鳴らす。
まるで三人の姿が見えていないかのようにすれ違おうとする青年に、紺髪の男は手を伸ばそうとした。
「おいおい、シカトしてんなよ……」
「……私に触るなっ!」
その瞬間、ソルドは目を見開いてその手を振り払う。
思わず驚きの表情を浮かべたロウガだが、すぐにその目に鋭い輝きが閃いた。
「なんだぁ? お前、俺にケンカ売ってんのか……? 面白ぇじゃねぇか!」
言うが早いか、彼はその拳でソルドの頬を殴り飛ばす。
音を立てて床に転げた青年に詰め寄りながら、ロウガはその襟首を掴んで声を荒げた。
「なにが私に触るなだ。偉そうにほざいてんじゃねぇぞ! この腑抜け野郎が!!」
再び、鈍い打撃音が響き渡る。
ほぼ同じタイミングで通路の曲がり角から姿を見せたルナルは、なす術もなく床を舐めた兄の姿を見て叫んだ。
「ロウガ! 兄様になにしてるの!!」
「フン。ルナルか……見てわかんねぇか? 腑抜け野郎に喝を入れてんだよ」
ロウガは非難の声を上げる彼女に対し、悪びれもせずに言い放つ。
ソルドはそんな二人のやり取りを気にすることもなく立ち上がり、再びその場を離れようとする。
「待てよ……逃げてんじゃねぇぞ! ソルド!」
しかし、ロウガは彼を逃がすつもりはないようだった。
三度目になる拳を受け、赤髪の青年はまたしても無様に床に倒れる。
走り寄ってきたルナルは、詰め寄ろうとするロウガの目の前に立ち、大きく両腕を広げた。
「やめて、ロウガ! どうしてそんなひどいことをするの!!」
「ひどいだぁ? 笑わせるぜ! なにがあったか知らねぇが、俺たちに腑抜けてる暇なんてあんのかよ!?」
拳を握り締め、ロウガが吼える。
口調こそ荒々しかったが、そこにはただの苛立ちだけでなく、強い使命感を持つ男の姿があった。
「一人の特務執行官が動けないってだけで、どれだけの人間が死ぬことになると思ってんだ! お前もそれはわかってんだろうが!」
「だからって、そんな暴力振るうようなやり方が正しいことなの!?」
「お前みてぇに甘やかしても、奴は立ち直らねぇ! だったら拳で言い聞かせるしかねぇだろうが!」
強い視線をぶつけ合って睨み合う二人。
その間にすっと割り込んできたのは、メルトメイアだった。
「はいはい。二人共、その辺にしておいてくださいね。こんなところで仲間割れしても、なにも変わらないですよ」
穏やかな表情を浮かべつつ、彼女は激高する二人に語り掛ける。
【オリンポス最大の良心】の異名を持つ彼女は、この手の厄介事の仲裁をすることが多い。
「いろいろ不安なことがあるからこそ、今は助け合わないといけない時です。ソルドにしても、ずっとこのままってことはありませんよ。もっと信じてあげたらどうですか?」
言いながら彼女は、二人の顔を交互に見つめた。
諭すようなその言葉にロウガは舌打ちし、ルナルは押し黙る。
わずかに場が落ち着きを見せたところで、口元の血を拭いながら立ち上がったソルドに、シュメイスが歩み寄った。
「ソルド……いつまで引きずってるつもりだよ? お前はそんな男じゃなかったはずだろ?」
「シュメイス……買い被り過ぎだ。私は、そんな大層な男では……ない……」
その顔に変わらぬ暗い表情を湛えたまま、赤髪の青年は振り向くこともなく歩み去る。
力のないその背を見送りながら、金髪の青年はため息をつきつつ頭を掻いた。
「やれやれ……こいつは相当、重症だな……」
特務執行官それぞれが複雑な思いを抱く中、遠ざかる靴音だけがわずかに響き渡るのだった。




