「輝きの鏡」(8)
リグは信じたくない気持ちを抑えながらもエラルに叫んだ。
「エラル! 魔気に、魔気にやられているんだな!?」
エラルは無言だった。それだけですべてが理解できた。
「……どうしてもっと早く言わなかったんだ!!」
リグはエラルを抱きかかえると近くにあったかつての宿屋に飛び込んだ。ベッドはまだかろうじて使える。リグは静かにエラルをベッドに寝かせた。
「エラル……どうして……、今からでも村に帰れ! 引き返そう!!」
「ごめん……、リグ。でも、もう引き返すことはできないよ。」
辛そうに顔を歪めるエラルは苦しい息の中からきっぱりと言った。
「……駄目だ! お前までいなくなったら、俺は……!!」
すでに正気でいられないほど動揺するリグをエラルは優しく見つめ続けた。
「……ありがとう、リグ。僕のためにそんなに一生懸命になってくれて……。
でも世界を救うにはもう……進むしかないんだ。時間がないんだ……。
リグ、君だってそれはわかっているはずだ……。」
沈黙が二人の間を流れていく。
リグは唇を噛み締め、横たわったエラルにすがりついた。
「……っ。何で、お前はいつもそんなに……正しく、いられるんだ……?」
リグ自身もわかっていた。もうこの世界にはエラルを村に帰す時間などないことを。
エラルはゆっくり起き上がると、幼子を慰めるようにリグの頭をなでた。
「僕は、君が傍にいてくれるだけで、いい……。」
そして立ち上がり、リグを促した。
「……行こう。永遠の穴はもうすぐだよ。」
嘆きの塔……。永遠の穴へと続く最後の砦。
リグはエラルを気遣いながらシスターフィアネの忘れ形見である小さな黒い鍵を塔の鍵穴に差し込んだ。その重厚さとは裏腹に扉は音もなく開き、二人を迎え入れた。
塔は果てしなく続く階段と小部屋の集まりであった。ゆっくりと、しかし確実に上っていきながら、リグはエラルを何度も見やる。エラルはその度に微笑を見せた。塔を上る足取りがだんだんと重くなっていく。かなりの高さなのだろう。空気が薄い。それでも二人は無言で上り続けた。その先にある光を信じて。
やがて階段は小さな扉で終わりを告げた。扉を開く。その先は限りなく長い回廊だった。その脇には戦士の石像が延々と並んでいる。修行中の聖術士を見守り、また戒めるために。
二人は静かに歩いていった。かつん、かつんと二人の足音だけが回廊に響く。
かつん、かつん……。
かつん、かつん……。
かつん……。
ふいに足音はひとつになった。
リグは数歩先に進んでいた。
エラルは中空を見つめ、立ち止まっていた。
数瞬の沈黙。
次の瞬間、心臓に激しい痛みをエラルは感じ、屈みこんだ。その痛みは胸から腕、足、頭と広がり、だんだんと痺れていく。がらんと錫杖が地面に落ちた。
「……エラル!?」
不安そうにリグが近寄る。エラルは近づくリグを制するように右手を上げると、距離をとろうと後ずさりをした。
「……来る、な……。来ちゃ、駄目だ……。」
頭を必死に抑えるエラル。その口から激しい嗚咽が洩れた。
「グ……ガッ……!」
「エラル!!」
走り寄るリグをエラルは突き飛ばし、力の限り叫んだ。
「リグ……! 僕を、殺して……くれ……!!」
「何を……言ってるんだ? しっかりしてくれ、エラル!」
リグは乾いた笑いを顔に貼りつけていた。これは現実ではないというように。
「……早く……でないと、僕は、リグを……!! ガ、アアアァッ!!」
「エラル―――ッ!!!」
リグの叫びをかき消すようにエラルの咆哮が回廊に轟いた。だがしかし、それはもはや人の声ではなかった。
ただれていく皮膚。剥き出しになる筋繊維。髪は抜け落ち、左の目玉がぎょろりと飛び出ていく。口元には唇を引き裂き牙が生え、爪も同じように鋭さを増していた。
首をがくんがくんと数回揺らすと、『エラルであったもの』は、残った右目を血走らせ、リグを睨んだ。
「グ……ガッ……!」
リグは立ち尽くしていた。
心の中でこれは嘘だ、夢だと何度も繰り返した。
そんな無抵抗のリグに『エラルであったもの』は襲いかかってきた。
ざくりとリグの首筋に『彼』は喰らいついてきた。背の肉に爪を突き立てた。ほとばしる鮮血。その血の温かさにリグははっとした。そして無言のまま、涙を頬が伝った。その間にも『彼』はリグの血肉をしゃぶっていた。
リグは静かに目を閉じると、背から刀をゆっくりと抜き、呪文を詠唱しはじめた。
「我が、古の、守り神よ……。
この……哀れな、魂に、救いを……与え、たまえ。
魔に……囚われた、心、を、開放……したまえ……!」
白く光る聖なる刃を、リグは『エラル』を抱きしめるように背から胸へと貫いた。己の心臓まで突いてしまいそうなほどに。
そして刀の柄から手を離すと『彼』を強く抱きしめた。
これでエラルは戻る、またあの優しい瞳で俺を見つめてくれる……そう信じて。
『エラル』の身体のところどころから光が漏れ出す。苦しそうに悶える『彼』は、やがて静かになると、リグから牙を抜き、小さな『音』を囁いた。
「ア、リ……ガ、ト……、ゥ……。」
リグの腕からざあっと砂塵が抜け落ちていった。後から血に染まった草色の法衣がパサリと落ちる。カランカランと刀が石畳を転がっていった。
音が消える。
何ももう、聞こえない。
赤黒い砂がある。血に染まった草色の法衣がある。刀が落ちている。
何も、変わらない……。
「……エラル?」
リグは己の声を確かめるように呟くと、がくんと床に膝を折った。そして砂の上に手をついた。
何も、変わらなかった。
「うああああああああっ!!」
リグの嗚咽が回廊にこだまする。彼は何度も石畳を拳で叩いた。何度も何度も。拳が割れ、血が『エラルであったもの』に吸い込まれていく。
頭の中では何度も何度もぐるぐると後悔の言葉が回っていた。
どうして俺はエラルを旅に連れてきたんだ……?
どうして、あの時エラルを村に帰さなかったんだ?
どうして俺はエラルの様子に気づいてやれなかったんだ!!
お前はいつも正しくて……! 俺は自分のことしか考えなくて……!!
どれほどの時がたったのだろう。やがてリグは静かになった。頬を伝う涙ももはや枯れていた。呟くようにリグは『彼』に問いかけた。
「……本当にこれで、良かったのか? ……エラル……。」
ふと刀を見る。エラルを殺めた己の武器を。何かが絡みついていた。刀を取り上げ、それを確かめる。
……エラルのロザリオだった。親友の言葉が思い起こされる。
リグは何のために永遠の穴に行くの?
忘れたのか? 君だって聖術士なんだ……!
世界を救うにはもう……、時間がないんだ……。
「……進むしか、ない、か……。そう言いたいんだろ、エラル……。」
リグはおもむろに刀を鞘に収め、エラルのロザリオを首にかけた。ゆっくりと立ち上がると、少しふらついた。かなりの血が彼の外に出ていた。
しかしもう、そんなことはどうでもよかった。
かつん……。
ひとつしか響かなくなった足音。リグは現実を噛み締めるように己の足音に耳を傾けると、回廊の闇に消えていった。
どれくらい歩いたのだろう。歩いても歩いても回廊の終わりは見えなかった。体が左右に揺れてくる。目がかすむ。すでに歩く体力は尽き果て、今は己の心との戦いであった。
「エラル……。」
ふと親友の名前を呟く。すると、ロザリオがそれに応えるように、ちりんと鳴った。その音にあたりを見渡す。何かあるのだろうか。永遠に続く回廊に、それらしきものは見当たらない。
リグはふと、壁の石像に目をやった。軽く壁を叩く。ごん、と鈍い音が返る。隣の石像を叩く。こん……向こう側に空洞があるような音がした。
まさか……その石像を丹念に調べてみる。
すると鍵穴のようなものが石像の隙間に感じられた。手探りで塔の鍵を差し込んでみる。像はギギイと鈍い音を立てて隠し扉を開いていった。
「ありがとう、エラル……。」
リグはロザリオを握りしめた。
その先は細い廊下になっていた。やがて塔の入口と同じ重厚な扉が見える。リグはためらうことなくその扉を押し開けた。
ごおっと強く冷たい風が吹き荒れる。嘆きの塔の山頂にリグはいた。ぐるりとあたりを一望すると、西に淡く光る世界樹。東にかすかに見える水晶石の鉱山。南には黄色く霞む砂漠。あの砂漠のどこかにグレダリオはあるのだろう。
そして南西の方角には、ここからでも高く、頂きを雲に隠す山があった。
あの山の向こうにアインの村がある……。
「エラル、あそこに俺たちの故郷があるんだ……。」
リグはロザリオに囁いた。
「必ず、帰ろう。……お前と、義父さんと一緒に……。」
山の頂きには僅かに泉が湧いていた。ここも聖水が湧いていたのだろう。今は薄墨の沼と化し、もはや口にできるものではない。
そして永遠の穴へと続くであろう祠が見えた。
リグは静かに、ゆっくりと祠へと歩を進める。石造りの小さな扉を開けると、強い魔気の風が吹いた。中は深遠の闇であり、外からの僅かな光を受けて苔むした階段が見える。そこには義父ゴアのものだろう、足跡が確かにはっきりと残っていた。
リグは白焔の呪文を唱え、穴の中を照らした。穴の底は闇に姿を隠している。その周りに小さな、とても小さな螺旋階段が張りつくように段を成していた。リグは義父ゴアの足跡をたどるようにゆっくりとその階段を降りていく。
長い長い階段。一体どこまで降りていくのだろう。
地獄の底まで続いているのかと感じながら、リグは降りていった。
「ごほっ……!」
突然、胸に激しい痛みを感じた。
魔気の禍々しい空気が魔幻士であるリグをも蝕みはじめていた。息を荒げ、ずるりと階段に座り込む。背には硬い石の壁、手にはじわりと湿った冷たい苔の感触を感じる。
「……くっ……ここまで来て、魔気なんかに、やられてたまるか……!!」
自分を奮い立たせるようにリグは再び歩き出す。
魔気はますますその濃密さを増し、憔悴しきったリグにつきまとう。咳き込みはますます激しくなり、頭の芯が痺れていくようであった。
リグはエラルのロザリオを掴み、祈るように額に押し当てた。
「……エラル、力を貸してくれ。俺にはもう、進むしか道はないんだ……!」