「輝きの鏡」(5)
町の外には死臭を帯びた生臭い、それでいてぞっとする冷たさの風が吹いていた。
リグはその風にしばし身を預けると、己の心臓の鼓動を聞きながら呪文を紡いだ。
「……我が魂よ、古の血束により汝の力を行使する。
我が身に千里の路を越えて駆け抜ける力を与えよ……!」
リグの詠唱と共に風がざあっと彼の周りに集まる。風の翼を得たリグは、まさに飛ぶように地を蹴りアインの村へと急いだ。
闇夜を蠢く魔物たちは人間の匂いを嗅いだ。心なしか自分たちに似ているような気がするが、間違いなく人間……リグの匂いである。人肉をはむ好機に魔物たちはリグに次々と襲いかかってきた。
魔物の急襲に眉一つ動かさず、彼は背中から白刃を抜くと風と共に魔物を切り裂いていく。今は魔物を倒すことが目的ではない。一刻も早くアインの村に戻り、聖水をグレダリオに持ち帰ることである。しかし彼の通った跡の魔物は微塵となり、小さなつむじ風と舞っていた……。
闇が血の赤ささえ覆い隠す頃、リグはアインの村に着いた。心臓がじくじくと傷む。それは闇の眷属との契約が行われている証だ。魂をじりじりと蝕まれていく感覚に、リグは己が最も相応しくないところに足を運んでいることを自嘲しながら聖堂への道を駆け抜けていった。
聖堂へ着いたリグは、何とはなしに礼拝堂に足を運んだ。
そこにはもはや鏡はない。
鏡が失われたのは、聖堂に魔幻士をのさばらせていたからだという者もいた。
そうなのかもしれない、リグはそう思いながら鏡があった場所を見つめる。
いくら見ても鏡はない。それが現実だ。
ただ、鏡が失われた時のあの不思議な甘い香りの風だけが残っていた。
彼は聖堂の片隅にある聖水の湧く泉へと急ぐ。丸底フラスコのような形に切子の入った硝子瓶を聖水に浸す。瓶の中からこぽこぽと空気が抜け、聖水が瓶の中に入っていく。聖なる潤いで満たされた瓶を、リグは大事そうに布にくるみ、赤子のように優しく懐に抱きかかえると、再び闇の中に身を投じた。
リグが去った後、エラルはリグがいるはずだった空のベッドに目を落とし、彼の無事を祈り天を仰いだ。そしてふとリグと出会った頃を思い出していた。
あれはもう……、十年も前のことである。
エラルは当時八才の幼子だった。ちょうど大聖士ゴアに弟子入りし、各地の村を転々とする巡礼の旅に出ていた頃だ。
巡礼と講話を終え、アインの村へと帰る途中だった。もう東の空は薄闇に包まれ、西日は赤みが消えていく。エラルは宵の闇が怖くてゴアにすがりつくように歩いていた。
そんな中ゴアが足を止めた。道からやや外れた森の茂みに人影を見つけたのだ。
ゴアはエラルに優しく告げた。
「……あんなところに人がいる。ただ事ではないのだろう。
エラルはここで待っていなさい。」
ひとりでいるのが怖かったエラルはゴアの法衣の袖を掴み、こわごわと言った。
「……僕も連れて行ってください、ゴア様。」
「そうか……。ではついて来なさい。」
エラルの心情をくんでくれたのか、ゴアは彼を法衣で包み込むように左肩に手をかけ、右手に錫杖を構えて、二人で茂みへと入っていった。
……エラルはついてきた事を後悔した。そこには枝に紐をかけ、首をくくって死んでいる長い髪の女がぶら下がっていた。エラルはゴアにすりより法衣の中に顔をうずめた。
ゴアはそんなエラルを強く抱きしめるとおもむろに身体を離し、彼の両肩に手をかけ静かに告げた。
「エラル、そんなに怖がってはいけないよ。
事情はどうであれ、この女性は悲しくも自分の命を絶ってしまったのだ。
せめて天で優しく輝くことのできるよう祈ってあげなければ。」
「……申し訳ありません。ゴア様。」
自らの聖術士としての資質を問われてしまったエラルは俯き、涙をこぼした。
そんな彼の頭をゴアは優しくなでた。わかってくれればいい、幼い道士には辛い試練だ。
ふと、俯いたまま涙を拭いたエラルの目に小さな手が見えた。もうひとり、誰かが地面に倒れている……。まだ誰かが死んでいるのだろうか、彼は恐ろしいのを我慢しながら、ゴアの言葉を繰り返し頭の中で呟き、祈りを捧げなければとその小さな手の主を見た。
そこには自分より小さな子供が傷だらけで倒れていた。顔を見ると近くの枯葉が小さく揺れている。息をしているのだ。エラルは慌ててゴアに叫んだ。
「ゴア様、ここに子供が倒れています! まだ息をしています!!」
「何だと?」
女性の供養を済ませたゴアは急いでエラルのところへやって来た。
全身あざや切り傷だらけの子供が気を失っていた。衣服はほとんど引き裂かれ、裸同然だ。そんな中、ゴアは子供の胸に赤黒い刺青を認めた。
心臓を中心に古代文字でつづられた呪いの魔法陣……、魔幻士の契約の証だ。
「この子は……魔幻士だ。」
詳細はわからないが、死んでいた女性はおそらくこの子供の母親だろう。何か揉め事があって村を追われ、その恨みを自分の子に託して自らは命を絶ったのではないか。自ら魔幻士とならなかったのは、やはり自分の魂が惜しかったのか。自らの命を絶つ者でさえ二の足を踏むこの魂の契約は、それほどまでに邪悪で底知れぬ恐怖なのだ。
「エラル……、この子をどうする?」
魔幻士、と聞いてエラルは恐ろしさを覚えた。幼い頃から魔神や鬼神と共に教えられてきた邪悪な存在なのだ。しかし、今目の前にいる〝魔幻士〟は、そんな伝承とは裏腹に、悲しく哀れな存在だった。
この子は魔幻士だ。恐ろしい存在のはずだ。
でもこの子は、とても小さくて、とても可哀想に見える。
助けてあげたい……。
「ゴア様。村に連れ帰っては……駄目でしょうか?」
「なぜそう聞く?」
問いかけるゴアにエラルは震えながら、しかしはっきりと答えた。
「この子は確かに魔幻士です。
……でもきっと自分で魔幻士になりたかったんじゃない。
今僕たちが見捨てたら、心まで魔物に食い尽くされてしまいます……。
助けたいんです。この子を。」
ゴアは目を細め、優しく微笑んだ。
「よく言ったね、エラル。その心を忘れてはいけないよ。
憐憫と尊敬の情……、人も物も目に見えるものがすべてではないのだ。
この子も辛い運命に立ち向かわなくてはならないだろう。
そんな時はエラル、お前が守っておやり。……今のようにね。」
「はい。ゴア様……。」
暗闇の中風を切るように走るリグも、ちょうどエラルたちと出会った頃のことを何とはなしに思い出していた。そして義父であるゴアの言葉を。
アインの村ではリグを村に入れることについて、当然のごとく抗議と非難が相次いだ。いくら大聖士でも魔幻士を聖堂に、しかも弟子にするなど前代未聞である。
しかしゴアは村人に強く発した。
「……この子には何も罪はないのです。
ただ魔幻士だというだけで蔑み、追い払うのですか?
ならば私はこの子の父となる。
あなたたちは心ならずも己の子が魔幻士となってしまった時、追い払うのですか?」
村人たちはこの大聖士の言葉に、誰も反論できなかった。
ゴアはリグを聖堂に住まわせ、優しい言葉をかけ、誰よりも慈しんだ。
リグははじめは部屋の隅でうずくまり、何も話さなかった。
闇色の瞳を床に落とし、なぜ自分はここにいるのかを問うているようだった。おそらく誰も彼を救ってくれたことなどなかったのであろう。
そんな彼にゴアは目の前にしゃがみこみ、優しく頭をなでた。
「リグ……、私に父親をさせてくれないか?」
黙ったままのリグにゴアは続けた。
「ここにはお前の兄となるエラルもいる。
一緒に食事をしよう。勉強もしよう。互いに笑い、泣こう。
お前は自由にしていいんだ。何も心配しなくていい。
私とエラルはいつでもお前を見守っているよ。」
リグの目からぽろぽろと涙がこぼれた。
何故かはわからない、ただ彼は初めて『温かさ』を知ったのだ。
やがて時が過ぎ、リグは聖堂から出られるようになるといつも村で喧嘩をして帰ってきた。魔幻士というレッテルが大勢から標的にされ、ぼろぼろにされ、それをエラルが止めに入る。そんな毎日の繰り返しだった。
そんな時、いつもゴアはリグの手当てをしながら優しく諭した。
「お前は自分を魔幻士だから蔑まされると思っているね。
でもそうじゃない。憐憫と尊敬の情があれば、いつか皆もわかってくれる時が来る。
辛い運命になるだろうが、負けてはいけないよ。
お前にはいつも私たちがついているのだから……。」
リグは思っていた。現在が、『その時』なのだと。負けてはいけない。己の幻魔の力が役に立つ時なのだから。