「輝きの鏡」(3)
アインの村は北を高き山に、南を海のように広い湖に囲まれていた。この湖を迂回して東に向かえばその湖の源流そばにグレダリオという町がある。順調に行けば夕闇を迎える頃その町に着くことができるはずだった。
枯れている草原に哀れに転がる旅人の亡骸。そのしゃれこうべにむしゃぶりつくかのように赤き異形の粘液が張りついていた。スライムだ。リグはその物体を面倒くさそうに蹴り上げると背の白刃を抜き、音もなく断ち切った。
その横でエラルは旅の途中で散った哀しい亡骸に安息の祈りを捧げていた。しかしスライムは再びひとつになり今度はエラルに襲いかかってきた。それを見やったリグは不快そうに右手をスライムに向け、闇の眷属との契約を静かに詠唱した。
「我が魂よ、古の血束により汝の力を行使する。
我が敵を獄焔の底に叩き落せ……!」
リグの手のひらから赤黒き炎がほとばしり、スライムを包む。物体は叫ぶまもなく砂塵と化した。
「ありがとう、リグ。」
祈りを終えたエラルはすまなそうに感謝の意を示した。リグは仏頂面で吐き捨てる。
「……お前は優しすぎる。ここはもうかつての大地じゃないんだ。
のんきに弔いなんかするな。」
その言葉にエラルは強く彼を諭した。
「リグは聖術士の心を忘れたの?
どんな時も憐憫と尊敬の心を忘れるなと……ゴア様がいつも言ってたじゃないか。」
兄弟子の言葉にリグは素直に反省した。
「……そうだった。すまない。」
リグはいつもそうだった。聖術士としての自分を忘れてしまう。聖術士の心を持てば村の人々とももっと丸く付き合うことができたかもしれない。しかし彼は目に見えるものしか映らない一本気なところが強くあった。
しかも戦えば魔幻士としての闇の部分を隠しきれない。心からたぎる闇の眷属の殺意の呪縛。それを誰にも知られたくなかった。特に心優しい兄弟子には。
だから余計に戦いを約束されるこの旅にエラルを巻き込みたくなかったのだ。
しばらく歩くと薄闇の中に僅かに光る太陽が南天を指した。その頃には彼らは旅の分岐点にさしかかっていた。東にはどこまでも続く砂漠が広がっている。湖の源流があるはずの光景ではなかった。
傍らにある砂に埋もれ傾きかけている道標の砂を払い、文字を読む。
『ここより南東 水清き町グレダリオ』
「……行ってみよう。町はまだ、あるかもしれない。」
エラルの言葉にリグは黙って頷いた。
かつては川だったのであろう。砂がすじ状にへこんでいるその際に沿って歩いていく。程なく行くと目の前に砂丘ができていた。先ほどまでは視界になかったはずだが。
「リグ! 危ない!!」
エラルの叫びと共に砂丘はさらに盛り上がり、砂人形のような乾いた魔物が姿を現した。リグは刀を抜き、砂漠の魔物と対峙する。砂では刀も炎も効かないだろう。少々てこずるが氷の幻魔術で砂ごと固めてしまおうかとリグは考えた。
そんな中、エラルは砂の化物のいでたちに違和感を覚えていた。砂除けのフード付のマントに短刀……およそ魔物の持つべきものではない。
まさかこの魔物は……。
倒す策を練っていたリグにエラルが叫ぶ。
「リグ! 時間を少し稼いでくれ!! 僕が解呪をする!!」
「解呪!?」
エラルの言葉に戸惑いを覚えたリグだったが、彼は指示通り砂の魔物に刀で向かっていった。
予想通り砂の身体に刀は通じない。ただすり抜けてしまうだけだ。下手をすると砂の中で固められ、折られてしまう危険性もはらんでいた。
エラルは急いで精神統一をし、魂魄昇天の祈りを捧げる。
「我が古の守り神よ、この哀れな魂に救いを与えたまえ。
魔に囚われた心を開放したまえ……!」
エラルは光に包まれた錫杖の先端を魔物の胸に突き刺した。砂のところどころからあふれる光。
「ウ……オォ!!」
魔物は一声吼えると、心なしか救われたような空洞の瞳を見せ、砂へと還っていった。
魔物の絶命を確認し、リグはエラルに駆け寄る。
「エラル、今のは何だったんだ?」
エラルは淋しそうな微笑みを浮かべると、静かに告げた。
「……今のは、人間だった、ものだよ。」
「何?」
風がひと吹き、さあっと流れていった。その『人間であったもの』を弔うように。
この世界に影響する魔気は様々な滅びを生み出していた。
草木は枯れ、水は澱み、空は昼間でも薄闇の中にある。それは海や河、山や畑の幸も取れなくなっていくことを示していた。
この災厄から逃れようと勇気を振り絞って旅に出た者は魔物と化した獣たちに殺されてしまう。また、そのまま町に残った者は魔気を吸い込み病に倒れていた。しかしそれらはまだ幸せなのかもしれなかった。
人々がもっとも恐れたこと。それは魔気に侵され自らの意思を失い魔物となってしまうことだった……。