「輝きの鏡」(2)
もう、待つことはできなかった。
リグは異界のサムライのような黒い甲冑に身を包み、細身の刀を背に旅支度を整えると聖堂の中心にある礼拝堂に足を運んだ。彼の親友であり修行仲間でもあり、何より命の恩人であるエラルに黙って出て行くわけにはいかなかったからだ。
礼拝堂には立ったまま静かに祈りを捧げているエラルの姿があった。
「どうしたの、リグ?」
リグの気配を察し、エラルは振り向いた。
リグはしばしの間視線を床に落とし、心を落ち着かせると、エラルに告げた。
「……永遠の穴に行こうと思う。」
「リグ!?」
「義父さんが旅立って三ヶ月、魔気はもう世界中を狂わせている。
このアインの村にだって、魔気は影響しはじめている……。」
そんな彼の言葉にエラルは心配そうに、諭すように顔を覗きこんだ。
「でも、ゴア様は後を頼むと……。ゴア様を信じなくちゃいけないんじゃないの?」
心の鬱憤がはじけたかのようにリグは叫んだ。
「……駄目だよ。もう、待てないんだ!」
リグは親友の瞳を見つめ、別れの挨拶のように優しく告げた。
「エラル、後は頼む。お前は俺と違っていい聖術士になれるんだ。
だから……」
「僕も行くよ。」
エラルは静かな口調でリグの言葉を遮った。
その言葉にリグは狂ったように反論した。
「お前は駄目だ! お前までいなくなったら……!」
「僕だって、ただ待つだけなんて嫌なんだ!
それに、リグをひとりで行かせるわけにはいかない。
僕は君の兄弟子だ。弟をそんなところにひとりでやれない……!」
エラルの言葉にリグは反論する術を持っていなかった。
エラルは普段は物静かであるが、こうと言い出したら頑として聞かない。大切なものを失いたくないリグは心の中でエラルの申し出を拒絶していたが叶う願いではなかった。
「……わかったよ。エラル、一緒に行こう。」
しばしの沈黙の後、再びリグは口を開いた。
「……先に村の入口で待っているから、後から来てくれ。
お前には挨拶していかなきゃいけない人が多いだろう……?」
リグの言葉の後、再び沈黙が訪れた。それを振り払うようにリグは踵を返し聖堂を後にした。
この世界は〝聖術〟と呼ばれる神の遺産である祈りを使う〝聖術士〟が存在していた。特に資格はなく、修行しだいで怪我の治癒や妖しの退魔などが可能であった。
そしてもうひとつ……、魔物たちが操る〝幻魔術〟と呼ばれる禁呪を使う〝魔幻士〟と呼ばれるものも存在していた。これは自らの魂を幻魔たちとの契約の代価として交わし成り立つものであり、当然その呪縛の深さからもわかるとおり、人々の拒絶や蔑み、恐怖の対象となっていた。
ゴアはその聖術士たちの頂点に立つ〝大聖士〟であり、エラルは修行中の聖術士であった。そしてリグはそのエラルの弟弟子にあたるのだが、魔幻士でもあったのだ。そのためリグはこのアインの村でいい顔をされなかった。彼を受け入れてくれるのは義父であるゴアと兄弟子のエラルだけだったのである。
リグがエラルより先にこの村を後にしたい理由はここにあった。
エラルもゴアと同じ銀の錫杖と旅支度をし、聖堂を後にすると村人に挨拶を交わした。この村にもすでに魔気に侵され、咳き込んだり体の自由がきかなくなったりしている者たちがいた。人々は大聖士ゴアに続いてエラルまでこの村を離れてしまうということに不安を覚えていた。そんな人々にエラルは優しく応えていった。
「この村は古の神アイン様に護られています。
微力ではありますが大聖士様の助力になりたいのです。わかってください。」
そして村の薬屋そばにある一軒の家にエラルは足を運んだ。エラルの実家である。
父を早くに失い、女手ひとりでエラルを育ててくれた気丈な母に、早く一人前の聖術士になるのが親孝行だと彼は考えていただけに、この別れを告げるのは辛かった。扉を開けると暖炉の近くで編物をしている優しい上品な雰囲気の女性がいた。
エラルの母ダリアである。
「お帰り、エラル。どうしたんだいその格好は?」
突然の息子の来訪に母は嬉しそうに微笑んだが、エラルの旅支度の姿をみると覚悟を決めたように瞳を曇らせていた。
「とにかく少し休んでおいきよ。」
「ごめん、母さん。あまり時間はないんだ。……リグを外で待たせているから。」
リグ、という言葉にダリアは眉をひそめた。この優しい息子をあの憎々しい魔幻士がそそのかして旅に連れ出していくのではないかと思っていた。
彼女の気持ちを察したかのようにエラルは母に告げる。
「母さん、もうゴア様が旅立って三ヶ月もたつ。
聖堂をお護りするのが僕の使命だと思って今まで我慢していたけれど、
もう待てないんだ。
……このままでは世界はみな魔気に侵されてしまう。
少しでもゴア様の力になりたいんだ。」
母は小さく溜息をつくとエラルに近づき、すでに自分の背丈を越えた息子を優しく抱きしめた。
「……わかってるよ。でもあまり無茶はしないでおくれよ……。」
村の入口ではリグが村人から身を隠すように木々の間にもたれかかって待っていた。
「……いいのか?」
「うん、もう済んだ。……行こう、リグ。」
二人は並んでふっとアインの村を目に焼きつけるように目をやると、どちらからともなく踵を返し村を後にした。