「輝きの鏡」(1)
世界を魔気から護る神の遺産……
それは〝輝きの鏡〟と呼ばれていました
この鏡の恩恵を受けて
世界は平和な時を過ごしていたのです
しかしある時
〝永遠の穴〟と呼ばれる闇深き穴より一陣の風が吹き荒れ
その風に鏡を奪われてしまったのです
魔気から身を護る術を失った人々は
次第に魔気に侵されていきました
枯れ果てていく大地。暗雲重なる鈍色の重い空。闇より深い荒れ狂う海原。
輝きの鏡を失い、三ヶ月……。魔気はますますひどくなり、世界は緩やかに滅びつつあった。
ここは世界の南西、頂きが見えぬほど高き山の南のふもとにあるアインの村。
村の外れには古の神アインを奉る大きな聖堂があった。その中のとある私室の中で、壁にもたれかかり、窓の外を虚ろな瞳で眺めるひとりの少年の姿があった。
年の頃は十五、六といったところだろうか、端正な顔立ちを引き立たせる、ぬばたまのごとく黒く濡れた髪に深き瞳。額には短いながらうるさい前髪をおさめるかのように白い布が幾重にも巻かれ、その端を無造作に肩に落としている。聖職者が集う聖堂に似つかわしくない黒づくめの衣服の少年は、三ヶ月前のことを暗い空に映し出すかのように思い起こしていた。
聖堂の一室。暖炉に入った炎が赤々と燃え、薄暗いあたりを丸く映し出す。その暖かさを遮るように伸びる黒い人影は三つあった。
「……二人とも、後のことは頼んだぞ。」
声の主はこの聖堂の主、ゴアだ。
年の頃は五十といったぐらいであろうか、口元に白髪交じりのひげを蓄え、聖術士の最高位である紫の法衣に銀の錫杖を旅支度と共に身につけていた。首からはアインの神殿の護り手であることを示す古いながらも丁寧に磨かれた銀の十字架が鈍く光っている。
「義父さん、俺も一緒に行くよ!」
情景と同時によみがえるのは己の悲痛な叫び。道端に捨て子同然に倒れていた自分を拾い上げ、育ててくれたゴアを、少年は実の父のように慕っていた。
「駄目だ。鏡は永遠の穴の中に消えたのだ。リグ、お前には危険すぎる。」
ゴアが厳しく制する。
「でも、そんなところにひとりで義父さんを……!」
「……鏡を奪われたのは、神殿の大聖士である、私の責任だ。
それにお前たちがいなくなったら、誰がこの神殿を護るのだ。
……わかってくれ。」
言葉を遮るように諭すゴアをこれ以上攻め立てることは彼にはできなかった。俯き唇を噛み締める。
鏡が失われたことを知ったのは数時間前のことだった。
薄紫の風が、永遠の穴がある北の山から吹き出てきたのを、アインの村へ来る途中の旅人が偶然見かけた。その男は妙な胸騒ぎがして急いでゴアに告げに来たのだ。しかしその頃には風は村の聖堂に入り、その速さとは裏腹に音も立てず鏡を奪い去っていった。
ゴアが鏡の祀ってある礼拝堂に入った時にはすでに遅く鏡は失われており、代わりに心なしか風の甘い残り香が漂よっているだけであった。
彼の横に静かに佇んでいたもうひとりの少年にゴアは顔を向けた。やや肩にかかるほどの金色の髪に静かな湖のような水色の瞳、リグと呼ばれた少年よりも大人びた顔つきの彼は修行中の聖術士であることを示す深い草色の法衣を羽織っていた。
「……エラルも、わかってくれるな?」
エラルと呼ばれたその少年は淋しげな瞳を潤ませると小さく頷いた。
「……ゴア様、必ず無事に帰ってきてください……。」
ゴアは二人の顔を心に刻みつけるように優しく見つめると、静かに部屋を後にした。
パタンと乾いた音をして扉が閉まる。
「義父さん……!」
リグは今、悔やんでいた。
その場から動くことすらできず、追いすがるような瞳を向けることしかできなかった自分を……。