ただそこにある現実
*ゲームを始める前*
また、同じ夢を見た。見たくもない悪夢を見た。いわゆるトラウマに近い、心因性の代物だ。それでも、目を覚まして汗だくな上に倦怠感、合わせて憂鬱な感情ぐらいで済んでいるのは、これまでの歳月の賜物だろう。以前はこれほど冷静では無かった。
だからこの歳に至るまで、友達と呼べる者が限られている。小学校と中学校では好奇の目で見られて、碌に友達は出来なかった。
けれど、それが逆に心を強くするための理由になった。
とは言え、未来の展望なんて誰も分からないし、後遺症だって酷くなるのかそれとも良くなるのかなんて人それぞれだ。逆に悪くなるという傾向があるのなら、良くなる傾向だっていつかは訪れるかも知れない。そんな風に心療内科の先生に諭されて、薬を飲んで中学を卒業する頃には様々なことを乗り越えた。喪った小指も、限りなく元の指と変わらない色合いをした義指を付け、機械工学の発展に伴い、小指程度の大きさであってもほんの僅かな筋肉の動きから違和感の無いレベルまで曲げ伸ばしが可能だった。ただし精密機器であることには変わらず、耐水性や耐久力にはまだ難が残るために水に関わること、そして睡眠時には外すことが徹底された。
そのおかげか、それとも好奇の視線は未だやむことを知らないのか、高校に入ってから、どうにかこうにかこんな俺を認めてくれる友達と出会うことが出来た。火傷の痕は確かにあるが、それでも義指がもたらした外面的特徴の欠如による、自分自身への強いコンプレックスから解放されたのは大きい。
それでも、記憶が見せる夢ばかりはどうしようもない。乗り越えなければならないのか、向き合い続けなければならないのか、はたまたそれに対して絶望感を抱かなければならないのか。俺には色んな選択肢が与えられているが、ともかく生きたいという一番大事な部分の舵取りだけは、間違えないように心掛けなければならない。ネガティブになろうとポジティブになろうと、とにかく生きる方向性での考え方を捨てるのは良くない。生かされたのだから、俺には生きなければならない理由があるのだろう。ここまで生きているのだから、生きて良い理由になっているのだろう。たとえ、いつかなにかしらの事故が俺に訪れるのだとしても、それで命を落とさない限りは、俺には生きる資格が常に、恒久的に与え続けられている。
だったら、こんなことでウジウジしていたって仕方が無い。確かに気分は落ち込むのだが、命の火を消す選択肢は俺には無い。
支度を済ませて、マンションの一室――自宅をあとにする。
高校生活を送る前から、基本的には一人暮らしだった。過去に色々ある人というのは視野を世界的に広めてみれば幾らでも居てさほど珍しいわけでもないのだが、俺も取り敢えずはその中の一人に含まれる。訳あって、今は一人での生活ということだ。生活面では幾らでもサポートをしてくれる人が居てくれるおかげで慎ましくはあれど平凡な暮らしが出来ている。なんなら娯楽にゲームをしても良いとまで言われているが、課金制の高い物だけはこの身の上では控えなければならないので、スマホゲーは必然的にNGとなる。最近じゃスマホも進化していて、沢山のゲーム性のある作品が生まれているらしいが、ゲーム内課金がある限りは俺はその手のアプリには手を出せないということだ。
まぁ、当然と言えば当然である。だからやることが出来るゲームというのは、課金制が高くない年間料金形式のネットゲームか、買い切りのコンシューマーゲームと言ったところだろうか。だが、俺自身はそこまでゲームに興味は無く、それでいて娯楽として捉えているのはどちらかと言えば雑誌や小説を読むことなので、そっちにお金を割きたいと思っている。けれど、この趣味も出来るだけ慎ましく、さほどお金が掛からないようにと努めている。
そのせいか、或いはそのおかげか、支援してくれる方々からのお金は貯まる一方で、これではさすがに悪いと思って通帳の中身を公開したのだが、それでも「将来、なにに使うことになるかは分からないから」という理由で手元に置かれたままになっている。俺がそもそも、お金に執着心が無いということが伝わっているらしく、通帳の中身をなにやら碌でも無いことに浪費することは決して無いだろうという判断からなのだろうが、これだけ信頼されてしまっていると、余計に使い辛くなっているのが現状だ。
「おはよう」
登校途中に友人に声を掛けられ、「おはよう」と返す。
「今日の調子はどうだ?」
「ちょっと悪夢を見たかも知れない」
「動揺はしたか?」
「したけど、パニックにはならなかった」
「んなら、大丈夫か。顔色も悪くねぇし、まぁ、ちょっとでも優れなくなったら保健室に行きゃ良いしな」
「朝から悪い」
「いやいや、こっちは理解して友達やってんだ。都合が良いとか悪いで一緒には居ないっての。逆に親切が押し付けがましく思われていないかビビッてはいるけどな」
「自分では調子が良いと思っていても実は顔色が優れないなんてこともあるだろうし、そうやって外から気に掛けてくれると助かっているよ」
本当に、助かっている。偽善だろうと、本心の善意であろうと、なんにせよ親切心だけは大事にしなきゃならない。俺はそうやって、誰かに構われなきゃ不安定だと自覚している。乗り切るための精神統一も欠かさず行ってはいるが、来る時は唐突に来るのだ。そういう時、傍に誰か居てくれないと俺はどうしようもなくなる。
とは言え、妥協するような、利用するような理由で友人を作ってはいない。そんな非人道的な感情はどこにも持ち合わせてはいない。僅かながら、助けてくれるかもという期待感はあれど、ちゃんと友達になる相手は選んでいるし、自分自身の事情だって明かしている。それで離れないでいてくれているのだから、ありがたい限りだ。
「そいや、隣のクラスの小山って知っているか?」
「なるべく同学年の奴らの名前は憶えるようにしているけど……知らないな。女子?」
「女子、っつうか女? まぁどっちでも良いけど」
「なら憶えてないな」
「風上って女受けが良いのにか?」
「話すのは良いけど、自分の境界線に踏み込まれるのは嫌だから」
「そういうとこマジで損してんよな、風上」
友達からは女受けが良いとよく言われる。要するに俺が居ると女子から話し掛けられる率が上がるってことなのだろうけど、異性と話すのはどうにも苦手だ。別に話すぐらいならどうだってなるんだけど、不得意なんだ。合わせる感じとか、向こうの笑顔に無理して応えなきゃならない雰囲気とか。
逆に言うと、俺の友達であれば女子と話す機会が多くなるということで、そこのところを俺は利用されているのかもと思ったり思わなかったりもする。
「なんか今、ものすっごい馬鹿なこと考えていただろ? さっき言っただろ。都合が良いとか悪いでお前と一緒に居るわけじゃないから」
「……悪いな、どうにもそういうことを考えてしまう」
「ま、風上が元気になって、女とも気さくに話すようになったりしたら俺もちょっとは考えるかもな。要は元気になってくれなきゃ、俺は気が気で無いってこった」
「克服するようには努力する」
「無茶はするなよ。なんにだって時間は必要だからな」
「さっきから割と真面目なことを言うな」
「まるでいつも俺が真面目なことを言っていないみたいな言い方をするなよな」
滑らかな皮肉が飛んで来るが、これが嫌というような気持ちにはならない。むしろ自分から口論になりそうなことを言っておきながら、サラッと流してくれた友達に感謝しなければならないんじゃなかろうか。
「話を逸らしてしまったな。その隣のクラスの小山がどうしたって?」
女子を前にすれば基本的に『さん』付けはするのだが、男同士の会話でわざわざ『さん』付けしたってなんの意味を持たない。あと、呼び捨てにすることで女子に慣れる練習みたいなものだ。同い年の相手を異性だからという理由だけで敬称を付けていたら、疲れるし。
「実はかなりの廃ゲーマーらしい」
「……へぇ」
「スマホゲーをやってた男連中に『時間じゃなくお金を掛けるだけの実力を伴わないスマホゲームのなにが良いの?』って言ったらしく、ちょっと騒ぎになった」
「黙っていた方が良いだろ。今後の高校生活も考えると」
「ま、そういうお前もスマホゲーはやらないよな」
「家の都合で、趣味に費やすお金は控えめにしたいんだ。それに、俺はハマってしまったら絶対に使い込む」
生粋のゲーマーとして生きて来たわけじゃないけど、昔から興味はあったのだ。だから初めてが課金前提のゲームとなると、きっと俺は俺自身の興味を抑え込むことが出来ないと思う。となれば買い切りのゲームを始めれば、とも思うが、ネットの評判や自分がどういったジャンルのゲームを得意としているのかも気にして、ずっと手を出せていない。
「分かっているから抑えているのと、分かってんのに抑えられないってのは真逆だよな。俺も一時期、かなり小遣いを注ぎ込んでいたけど、他の買いたい物を買うのを我慢してまで課金して、それで目当ての物を手に入れても、結局、その欲しかった他の物への購買欲は消えないままなんだよな。それもそれでストレスっつーかさ」
「バイトして手にしたお金なら良いけど、親から出してもらっているお小遣いでそれはちょっとな」
一応の理解は示しつつも、自分で働いて得たお金じゃないのに課金するのは方向性としては少しズレているのではという気持ちも残しておく。嫌いじゃないが――むしろ、手軽にスマホにダウンロード出来てしまうから、常にその欲望から必死に逃れている。
友達と二人で登校し、教室に入ったらなにやら男子グループが騒がしい。
「なにかあったのか?」
興味があることならなにかしら声を掛けて確かめに行く。高校では特別、大人しかったり物静かだったりするわけでもなく、どこのグループにも所属はしていないが、どのグループともタイミングさえ合えば話をする。流浪人みたいなことをしているが、これで邪険に扱われたことはほとんど無い。広く浅い付き合いってやつだろうか。顔が広いと言えるほど相手に踏み込んでいるわけでもないので、卒業したら自然消滅するような友好関係なのは気掛かりではあるが。
「また小山が来てな」
「さっき聞いた。スマホゲーにキレるんだって?」
「ま、しゃーない。女には分かんないスマホゲーも結構あるからな。たとえば、これとか」
男子がスマホのアプリを起動し、タップしてスタートする。画面には恐らくはガチャで手に入れたのであろう美麗なイラストが映し出され、なんとも蠱惑的というか、どうにも露出度が高い格好をしている。
「これ、イラストがフワフワ浮いているように見えるけど」
「だろだろ。なんかイラストをこうやって動かせるソフトを使っているんだとか。特に胸、あと尻が揺れる」
これは、スマホゲームもなかなか馬鹿に出来ないな。
「馬鹿じゃないの?」
女子の声がしたので、無意識に視線をそちらに向ける。
スラリとした体躯。左に纏めた長い髪――サイドテール、って言うんだっけ? それと、高校生相応の胸……いや、ガン見するのもおかしいからすぐに逸らしたけど。
「また小山か……なに、なんの用? わざわざ文句を言うために来ているのか?」
男子が心底、ウザそうに小山に訊ねる。
「あたしがわざわざ来ているのは、そこの……風上君に言いたいことがあるから。文句を言うのはそのついで。さっきは教室に居なかったから、少し時間を置いただけ」
これはなんとも、容姿の割に性格がキツそうだ。花よ蝶よと育てられ、愛でられていそうなのに、心が狭そうに見えて仕方が無い。
「俺に? なんの用?」
「あなた、本当にずっとこのままで良いと思っているの?」
「……どういう意味かは、これから考えるけどさ。あんまり高校生活で敵を作るのはやめた方が良い。息がし辛くなる」
「日和見に生きるよりはずっとマシ」
口論したいわけでも論破したいわけでもないので、彼女の意見については尊重はしておこう。迎合はしないが。
「俺は小山と話した記憶が皆無なんだが、昔どこかで話でもしたことがあったか?」
問い掛けると、小山はなにやらバツの悪そうな表情を浮かべる。
「無いんだったら、もう少し控えめに声を掛けて来てくれ。それに、クラスメイトの多い中で、よく分からない話をされるのは好きじゃない」
こんなクラスメイトの視線を気にしながら言葉を選んで話すなんてしたくない。
「……なら、放課後。あたしのクラスの教室に来て」
「何組?」
「八組。それと」
小山がスマホの画面を指差す。
「こんな風に胸が揺れるなんて、あり得ないから」
それだけ言い残して、小山は立ち去って行った。
……まぁ、ゲームはゲームだ。女性のイラストの胸やお尻を強調させるのはその方が売れ行きが良くなるから。これが男のイラストなら強健且つ、イケメンに描かれるはずだ。それにまで彼女は文句を言うのだろうか。
「あれってツンデレか?」
「ヤンデレじゃね?」
「いや、理不尽キャラってやつだろ。意味も無く殴って来たり喧嘩売って来るやつ。暴力系ヒロインみたいな」
現実の女子を二次元の女の子のイメージでどれに当てはまるか議論している辺り、小山の襲来も最早、ノーダメージらしい。そうやってすぐ気持ちを切り替えられるのは羨ましいと思うべきか、それとも反面教師として見るべきか。
「それにしても、あの小山がすぐに引き下がるなんて珍しいな。今日の一度目は追い返すのに結構な時間が掛かって大変だったんだぞ」
一度目、二度目って数え方はなにか違うような気もするが。
「俺のことが嫌いなんだろうな」
「よく女子に嫌われていると思いながら、そんなあっけらかんと出来るよな」
「んー、まぁ……理不尽に物凄く嫌われているんだとしても、もしかしたらなにかしら話さなきゃならなくなるかも知れない。そういう時に、以前は結構なことを言ったよな、って主導権を握って屈服させるのに使える」
うわぁ、と何故だか少し引かれる。
「マゾなのかサドなのか分かんねぇな」
「風上の歪んでいる部分が垣間見えたのは措いとくとして、まぁ、お前のおかげで小山がすぐに帰ってくれるならこっちも安心だな」
とは言え、放課後に八組に顔を出さなきゃならなくなったがな。なにを言われるんだろうな。面と向かって「死ね」って言われそうだな。
『本当にずっとこのままで良いと思っているの?』
頭の中で彼女の言葉が反芻される。
彼女はなにか、俺に期待でもしているんだろうか。それとも、俺の生き方に口を出せるような人生を歩んで来たのだろうか。
それすらも分からないのに、どうしてあんな言い方をされなきゃならないんだか。
「でも小山って胸、結構あるよな。スラッとしてんのに」
「まかり間違ってもあいつの前でそういうこと言うなよ? あれで体を鍛えているらしいから、殴られたらただじゃ済まない」
男子たちの会話が耳に入る。
「鍛えているってどのくらい?」
「女子から聞いた話じゃ、腹筋が割れているとかいないとか」
「マジで? それで帰宅部ってすっげぇ違和感だな」
「鍛えてんならあの胸も筋肉質で固くなるのか?」
「分かんねぇな。そんなもん、鍛えた女の胸を触った奴が居ない限りは」
「もう童貞を捨てた奴の中で、相手が体育会系女子だった奴は居ないのか?」
鍛えているとか腹筋が割れているとか、見てもいないのにそれだけで盛り上がれるのは、小山のルックスの良さも起因しているんだろう。俺もこうやって耳だけ傾けているんだから人のことは言えない。噂はどうあれ、女性の体について話しているのならもっと聞いていたい。
「碌でも無い話で盛り上がってるよな」
「とか言って、風上も止めようとしてないだろ」
「そりゃ止める理由なんてないだろ。面白いし」
友達とそんなやり取りをしつつ、女子が体を鍛えているのは有りか無しかというところまで議論が進んだところで予鈴が鳴ってタイムアップとなり、俺たちは各々の席へと散って行った。