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ごめんって言わないで

作者: 織こういち

 あのとき俺は七歳だったけど、昨日のことのように鮮明に覚えてる。

 目に染みた夕焼けも、汗の匂いも、父さんの言葉も、絶対に忘れない。

「可南子と母さんは俺が守る。だから北真は、自分が守れる人を探せ。そして守れるように強くなれ」

 父さんは、笑顔を絶やさなかった。

 話せるようになったばかりの可南子が「パパ嫌い!」と言っても、ほんの少し悲しい顔をするだけで、すぐに笑顔に戻ってた。

 そんな父さんが大好きだった。

 俺は父さんのようになりたかった。

 だけど父さんは、あっさり死んだ。

 サッカーも辞めて、猛勉強して、バイトして、父さんの代わりに可南子と母さんを守れるように頑張ってきた。でも、俺には無理かもしれない。

 最近、とくにそう思う。



 玄関を開けると、可南子が仁王立ちで待ち構えていた。堂々と腕組みをしたまま、帰ってきたばかりの俺をにらみつけている。

「お兄ちゃん、こんな遅くまでドコ行ってたの?」

 父さん譲りの黒髪を染めてしまった可南子には、幼い頃の面影は残ってない。十年前に父さんが死んでから、何もかもが変わってしまった気がする。

「その荷物は?」

 可南子は怪訝な顔で、俺が持つビニール袋を指差した。

「押し花キットだよ」

「ハァ?」

 可南子は片眉をあげた。

「変な趣味にでも目覚めたの?」

「いや、たまたま四つ葉のクローバーを見つけたから、押し花にでもしようかと思って」

 四つ葉のクローバーは幸運の象徴だ。せっかく見つけたんだから、なるべく残しておきたい。

「……たまたま、ねぇ」

 可南子は、俺をバカにするような言い方をした。

「どうせ彼女にでも頼まれたんでしょ。私のために四つ葉のクローバーを探してきて、とか何とか」

「安西はそんなこと……」

「お兄ちゃんは、彼女に頼まれたら何でもするよね。死ねって言われたら死ぬの?」

「死ね、って言わないよ」

「そうだろうさ。でも、そういうコトじゃないじゃん!」

 可南子も生意気になったもんだ。昔は、いつも俺のうしろをヒョコヒョコついてきていたのに。

 もう二度と、夏休みの宿題をいっしょにやったり、なわとびを教えてやったりすることはないんだろう。

 三歳という年齢差は、一年経つごとに重みが薄れていて、代わりにどんどん嫌われていく。

「ちゃんと勉強してるか?」

「してるよ。この前のテスト、総得点で学年一位になったって、聞いてない?」

「初めて聞いたよ、すごいじゃないか」

 去年、可南子は走り高跳びで県大会二位の成績を残している。まさに文武両道だ。

 遊んでいる風な見た目だけど、可南子は真面目だし努力家だ。背が高くないのに好成績を残せているのは、跳躍力と運動センスのおかげだけじゃない。

「つい、このあいだまで自転車に乗れないって、泥だらけで泣いてたと思ったのにな」

「ウルサイわね!」

 可南子は、怒鳴りながら耳を赤くした。彼氏がいても変じゃない年頃になったけど、まだまだ子供だ。

 いや、泣かなくなっただけ成長したと言えるかもしれない。

「泥だらけなのは、今のお兄ちゃんでしょ!」

「泥だらけ?」

 ズボンを見てみると、確かに土がついていた。四つ葉のクローバーを探しているときについたんだろう。

 さっき可南子が、たまたまという言葉に引っかかったのは、この土で、俺が必死に四つ葉のクローバーを探していたと気づいたからか。

 よく見ると、手にも土がついている。もしかしたら顔にも土がついているかもしれない。

「さっさと風呂に入るか」

 可南子は、部屋へ戻ろうとする俺の行く手をふさいだ。

「お兄ちゃんって、いいように利用されてるだけじゃない?」

「……安西に?」

「彼女だけじゃなくてさ。たとえば友達に頼まれたことでも絶対服従じゃん」

 いつも可南子の言い方にはトゲがある。俺は絶対服従なんかじゃない。

 でも挑発的な言い方をしたわりに、可南子の顔は、俺を心配しているみたいだった。

 頑張りすぎなくらい頑張ってる可南子からみれば、俺は頼りない兄貴なのかもしれない。

「心配かけてごめんな」

「ごめんな、じゃないでしょ?」

 可南子は、不満そうに俺を見上げている。だけど俺には、その意味がわからなかった。

 言葉が通じてないと察したのか。可南子は諦めたように「おやすみ」と言って部屋に戻ってしまった。



 本当は、すぐにでも風呂に入りたかったけど、その前にかけたい電話があった。

 電話帳も開かずに、番号を打ち込んで電話をかける。何も見ずに打てるのは、家の番号と、彼女の携帯だけだ。

 十五回目のベルが鳴った後、安西の声が聞こえてきた。

「北真くんから連絡くれるなんて珍しいね」

 電話から聞こえてくる声は、まるで耳元でささやいてくれてるようだった。

「何かあったの?」

「いや、たいした用じゃないんだけど、そのっ、明日のことでさ」

「明日?」

 電話越しだけど、安西が首をかしげた気がした。

「いっしょに映画を見に行――」

「あー!」

 安西が大きな声を出した。それから、今にも泣き出しそうな声が聞こえてくる。

「ごめんなさいっ。私……すっかり忘れてて……」

 安西は、物忘れがヒドい子だから、しかたがない。前日の夜じゃなくて、もっと早くに連絡しておくべきだった。

「明日は……ちょっと……」

「いいんだ。気にしないで」

「……ごめんなさい」

 消え入りそうな声が聞こえてきて、こっちまで悲しい気持ちになってきた。

 安西に告白されて付き合うことになったのに、今では俺の方が惚れていた。それなのに俺は、安西に謝らせてばかりいる。安西には、できるだけ笑顔でいてほしいのに、ぜんぜんダメだ。

 最近、安西が笑ってくれたのは、僕がツーリングに連れて行ったときだ。一緒にバイクにまたがって、海からの風を切る気分は最高だった。

「またツーリングに行こうか」

「ツーリング?」

 泣きそうな声が、急に明るくなった。

「今度は、山がいいわ」

「山か……」

 バイクで勾配のある道を走るのは楽しい。

 晴れていれば、休憩のときの木漏れ日も気持ちがいいはずだ。

「じゃあツーリングに向いてそうな山を調べておくよ」

「ありがと。次は絶対に忘れないようにするから」

「期待しておくよ」

 じゃあね、と電話を切る。すると、いきなり一人ぼっちになった気がした。

 部屋は、とても静かなのに、時計の音がうるさく感じられる。

 時計の音が、一秒ずつの時間の経過を教えてくれてるはずだけど、同じ一秒を繰り返してるような虚しさが胸を締めつける。

 こんなとき、いつも父さんの言葉を思い出す。

「約束を守れる男になれ……」

 でも先に約束を破ったのは、父さんだ。

 母さんと可南子を守るって言ったのに。



 雨の日は、身体が重くなる。今日は、大型デパートの一階で、着ぐるみキャラクターになるバイトだ。

 ツンとする臭いが染み込んだ着ぐるみだけど、先立つものがないとデートもできない。せっかく次のデートの日時が決まったのに、ガソリン代や食事代が払えないなんて最悪だ。安西に、ダサいところは見せたくない。

 それに、このバイトは好きな部類だった。いくつもバイトを掛け持ちしてるけど、このバイトはやりがいがある。というか着ぐるみに喜んでくれる子どもを見て、嫌な気持ちになる人はいないと思う。

 中高生に、離れた場所からスマホで撮影されるのは、嫌だけど。

「ん?」

 目の前を、見覚えのある誰かが通った。

 着ぐるみの視界が狭すぎて、瞬時に人を見分けるなんて無理だ。でも、彼女だけは見間違わない自信があった。

 飾らない服装に、漆黒の長髪。まっすぐな背筋と品のある歩き方は、間違いなく安西だった。

 安西は、女友達とふたりで来てるらしい。

 女友達の方は、俺が知らない子だ。

 安西たちは、楽しそうに話しながらアイスを買って、俺から近い位置の席に座った。

 着ぐるみの中身が俺だとは、夢にも思ってないはずだ。

「それ何番目の彼氏の話?」

 女友達の質問に、安西は肩をすくめた。

「あんなの彼氏じゃないわよ。ただの移動手段」

 ひっどーい、と言いながら、女友達は楽しそうに笑っていた。

 これは誰の話だろう。

 何番目の彼氏って言ったけど、安西には俺以外の彼氏がいるのか?

 盗み聞きはよくないけど、この話は聞き逃せない。

「だけど、いい人なんでしょ?」

「悪い人じゃないわね。言うことは何でも聞いてくれるし……人を疑わないっていうか、すごく純真なのよ」

「いい人ってより、頭が悪い人っぽいわね。ってか頭の悪い移動手段?」

 女友達は、明らかにバカにするような言い方をしていた。

「でも性悪の彼氏よりは、純真な彼氏のほうが素敵よ」

「程度によるわよ。この前なんて、四つ葉のクローバーをプレゼントしてきたのよ」

「なにそれー?」

 女友達は、チンパンジーのように手を叩いて笑った。

「そりゃ純真を通り越して病気でしょー」

 なにが面白いのか、女友達は大声を出して笑っている。

 四つ葉のクローバーって、まさか。

「病気は言いすぎだけど、近いものはあるかもしれないわね。変わった人だから」

「変わった人……つまり変人?」

「そんな言い方やめてよ」

「ごめんごめん。けど、おかしくてさ」

 女友達は、苦しそうに見えるほど笑っていた。

「安西ったら、ダサい格好で処女のフリまでしてるのに、いい男に恵まれないわねー」

「うるさいわね。だからこそ、いろいろ工夫してるのよ。この男運で彼氏がひとりだけだったら、目も当てられないわ」

「そりゃそーだ」

 大きくうなずく女友達に、安西は嫌悪感を隠すことをしなかった。

「彼氏ひとりもいないくせに」

 安西が吐き捨てると、女友達は一瞬だけ驚いた顔をした。しかし、なぜか嬉しそうな顔をする。

「ちょっとー、それは言わない約束でしょー!」

 女友達は、わざとらしくほっぺをふくらませた。

 もう意味がわからない。

 まったく意味がわからなかった。

 とにかく、この場を離れよう。

 今の俺はバイト中だ。着ぐるみのキャラクターになりきらなきゃいけない。

 俺は俺だけど、俺じゃない。

 そう思わなければ、心の洞窟が崩落して、生き埋めになってしまいそうだった。



 教えてもらった住所に行くと、体操服姿の可南子がいた。腕組みをして、不機嫌そうな顔をしている。

「こんなトコで何してんの?」

 可南子はいつものように、背伸びした化粧をしていた。安っぽいピアスや彩ったネイルも、中学生らしい体操服姿には似つかわしくない。

「可南子の方こそ、こんな寂びれたところで、何してるんだ?」

 聞き返すと、可南子は「失礼ね」と片眉を吊り上げた。

「ここはウチの学校の備品倉庫なの。寂れたとか言わないで」

 可南子が指さした方を見ると、確かに見覚えのある学校名が書かれていた。スマホのナビに従って来ただけだったから、ぜんぜん気がつかなかった。

「悪かったよ。それにしても学校外に倉庫があるなんて、ずいぶんリッチだな」

「とんでもないわ。学校の土地が狭すぎるのよ。グラウンドすら併設してないんだから」

「あれ、広いグラウンドが売りの学校じゃなかったか?」

 突然、可南子は大げさに溜め息を吐いた。やれやれ、といった表情をしている。

「広さと設備は文句ナシよ。ただ、それが別々にあるだけ」

 この大きな倉庫は、そういう事情であるのか。もしかしたら学校創設当時は、ここまで運動部が強くなるとは予想していなかったのかもしれない。

 寂びれた場所にあるけど、なかなか立派な倉庫だ。

 その倉庫から、黒髪の女の子が顔を出した。

「中は意外と綺麗だよカナちゃん!」

 女の子は倉庫から出て、可南子に駆け寄った。

 可南子とお揃いの体操服を着てるけど、髪も染めていないし、メイクもしていないみたいだ。見た目はぜんぜん違うけど、たぶん可南子と同級生だろう。

「こんにちは」

「ひっ!」

 挨拶しただけなのに、驚かせてしまった。

 女の子は、可南子に身を寄せ、怯えた目でこっちを見ている。

「どなた……ですか?」

「あたしの兄で、今は迷子」

「えっ。カナちゃんってお兄さんいたのっ?」

 可南子のぶっきらぼうな言い方に、女の子は真偽を疑っているようだった。女の子は、困ったような顔で俺と可南子を交互に見ている。

「そういえば、似てるね」

 女の子は納得したような顔に変わった。逆に可南子は、まったく納得がいっていない顔をしてる。

「ぜんぜん似てないでしょ。失礼なこと言わないでよ!」

「失礼なのは可南子の方だろ。そもそも俺は迷子じゃない。俺は、手伝ってほしいことがあるからってここに呼ばれたんだ」

「呼ばれたぁ?」

 可南子は訝しげな目をする。兄の発言を心の底から疑っている目だ。昔はあんなに可愛かったのに、今じゃもう可愛げのカケラもない。かろうじて可愛いのは外見だけだった。

「誰に呼ばれたのよ?」

「隣のクラスの天野って子だよ」

「あっ!」

 天野という名前に、可南子と女の子が同時に反応した。

「もしかしてお兄さんは……えっと、北真さんですか?」

「そうだけど……」

「は、初めまして。私は天野一花って言います。今日はよろしくお願いします!」

 天野さんは丁寧に、深々と頭を下げてくれた。その隣で、可南子が不満そうにほっぺをふくらませている。

「どういうことよ一花。説明して」

「怒らないでよカナちゃん」

「怒ってないわよ!」

 いや怒ってるだろ。と思いつつも声には出さず、二人を見守る。ここで口出ししても、たぶん誰も得をしない。

 それに一花ちゃんは、可南子に怒鳴られてもニコニコしたままだった。

 二人の関係は、一見すると可南子が優先権を持っているようで、実は一花ちゃんがリードしてるのかもしれない。

「あのね。今日のこと先生は『みんなで』って言ってたでしょ」

「たしかに『みんなで』って言ってたわね。誰も来てないけど」

 可南子がわざとらしく周囲を見回すが、俺たち三人以外は誰も来ていなかった。

「悲しいけど、想定の範囲内よね」

「だからお姉ちゃんに相談したの。そしたらお姉ちゃんは来られないけど、助っ人なら用意できるかもしれないって」

「ナルホド……助っ人ね……」

 可南子は、なぜか俺を強く睨みつけてきた。

 人手が足りないところに来たんだから歓迎されてることはあっても、睨まれることはないと思うんだけど。

「すみません。姉はちょっと別の用事で来られなくて……」

「いいよ別に。ところで俺は何をすればいいの?」

「何って……姉から何も聞いてませんか?」

 うん、とうなずくと、一花ちゃんが不思議そうな顔をして可南子の方を見た。

 たぶん「可南子からは何も言ってないのかな」と思ったんだろう。でも可南子は、俺がここに来ることも知らなかったし、俺も可南子のことは知らなかった。家を出るときのようすから、なんとなく部活に行くんだろうとは思ったけど、具体的な内容なんて知るわけない。

「お姉さんからも可南子からも聞いてないよ」

「よくもまぁ、そんな偉そうに言えるわね」

 何が癇に障ったのか。可南子は憤りを感じているようだった。

「のこのこ来たと思えば、アホ面で何を聞いてんのよ。どうせアレでしょ。一花のお姉さんに言われたときも、何も考えずに二つ返事でオーケーしたんでしょ」

「二つ返事だったのは認めるけど、何も考えずに答えたわけじゃないぞ」

「どーだか!」

 可南子は話を打ち切るように、音を立てて倉庫の扉を開けた。

 倉庫の中には、よくわからないものがたくさん置かれている。

「とりあえず、この中にあるものを全部運び出してちょうだい」

「ひとつ残らず?」

「そうよ。文句を言う時間も惜しいわ」

 可南子は、一番手前にあった棒状のものを運び始めた。たぶん走り高跳びで使うバーだ。

 この倉庫には、陸上に関する備品が詰めこまれてるらしい。短距離走で使うスターティングブロックやライン引きなどが乱雑に置かれている。

 重そうな物には背が低いものが多く、運びだすのに苦労するものは多くなさそうだった。

「見てないで、さっさと運びなさいよ」

「ちょっとカナちゃん。手伝ってもらうのに、そんな言い方しちゃダメだよ」

「いいのよ別に」

 今日の可南子は、いつになく機嫌が悪い。

 生理でも来てるんだろうか。と思ったけど、そんな無駄口を叩いている暇はない。とにかく備品を運び出そう。

 ぱっと見で、重そうな物から手をつけるか。



 深い息を吐いてうつむくと、顔から汗が垂れた。アスファルトが打ち付けられた地面に、黒い跡が残る。

 こんなに身体を動かしたのは久しぶりだ。服が、汗で身体に張りつく感触が懐かしい。汗をかいて、それを気持ちいいなんて思うのは中学生までだと思っていたけど、あの頃と俺と、今の俺には、少しの違いもない。

 悩みやストレスといった灰色の気持ちが、汗といっしょに身体から溶け出している。

 倉庫が半分ほど空になると、可南子と一花ちゃんは倉庫に入ってこなくなった。どうやら外で、備品の状態を確認しているみたいだ。

 詳しくは聞かなかったけど、この倉庫の中にある備品の状態を確認するのが、今日の仕事なんだろうな。

「それにしても多いな」

 倉庫の外に、備品を広げすぎていて、このままのペースで備品を運び出しても邪魔になりそうだった。

 とりあえず、この倉庫の中を整理しよう。引き続き備品を運び出すにしても、外に置いてる備品を倉庫に戻すにしても、倉庫の中が片付いていたほうが効率がいいはずだ。運ぶのが面倒そうなものを入口の近くに運び、倉庫の奥のスペースを確保するか。こうしておけば簡単に、使わない備品を奥に整理できる。

 この倉庫の中には、スターティングブロックの代替パーツや、走り幅跳びなどで見るファール判定用の粘土板や巻き尺など、地味に重い備品が並んでいる。

 倉庫の入口付近まで運ぶと、外から一花ちゃんの声が聞こえてきた。

「カナちゃんのお兄さんって、かっこいいよね」

「っ!」

 不意に褒められて、転びそうになってしまった。

 今持っている箱には、変わったかたちのネジが詰まっている。これをぶちまけたら、今日中には帰れない。

「一花って目悪いよね」

「またまたぁ!」

 可南子の冷たい返事にも、一花ちゃんの声色は変わらなかった。

「照れ隠しすることないってば」

「ハァ? あたしは本音を言ってるだけなんですけど!」

「服もオシャレだし、顔も整ってるし、今日みたいに人助けで来てくれるところもポイント大きいよ」

「そのポイントにゼロを掛け算しておかないと後悔するよ」

「きっと後悔しないよ。カナちゃんのお兄さんだもん。しっかりしてそうだし、頼れるお兄さんって感じだよ!」

 一花ちゃんが嬉しいことを言ってくれる。しかし可南子は低い声で反応した。

「あんなのに頼ったらオシマイよ!」

 なぜか可南子は、怒りに満ちた反応をしていた。

「頼まれたら断れない優柔不断男だから今日も来てんの。あんなの絶対に誰も幸せにできないって!」

 ひどい言われようだ。男として根本的な部分を否定されているような感じがする。

「家の中でも、いっつも同じジャージなのよ、そのジャージもボロボロ。外に着ていく服だって三パターンくらいで、カバンだって靴だっていつも…………なに笑ってるの?」

「いや、すっごく詳しいなって思って」

「詳しくなんかないわよ。一緒に暮らしていればそれくらいわかるでしょ!」

「わかんないと思う。私はお姉ちゃんの服のパターンなんて知らないよ」

 俺も可南子の服のパターンは知らないな。いつも派手な格好してるって印象はあるけど、そんなに真面目には見ていない。

「カナちゃんは、お兄さんのことが好きなんだね!」

「どうしてそうなるのよっ!」

「じゃあ嫌いなの?」

「嫌いっ……じゃない、けど……」

 可南子は、急に小声になってしまった。倉庫の中からじゃ聞き取れない。

 それにしても年下の女の子同士の会話は面白い。年下といっても三歳しか違わないし、片方は妹だから、ちょっと違うかもしれないけど。

 ただ面白く感じられたのは、一花ちゃんのせいかもしれなかった。お兄ちゃんが好きな妹なんて存在しない。可南子だって俺のことが好きどころか、大嫌いだろう。それなのに服を見てるから好きって発想は、かなり変わってる。

「いいからやるわよ!」

 可南子は、不自然なほど元気いっぱいの声を出していた。

「もぉ、カナちゃんったら素直じゃないんだから」

「全て運び出したら、倉庫内の掃除もしなきゃいけないんだから、のんびりしてる時間はないわ!」

 掃除までするのか!

 これは大仕事になる。そして全てを運び出してから掃除するのは現実的じゃないから、やっぱり倉庫内を整理して、三分の一ずつくらい掃除していくほうがいいと思う。

 まず動かすのは、ハードルが大量に載せられた専用の台車だろう。

 この台車は重い上に、それ自体が古くなってた。力任せに押して、他の備品にぶつけないように気をつけないとたいへんなことになりそうだ。万が一、この台車でネジなどが入った箱を轢いてしまったら目も当てられない。

「北真さん。すみませんが倉庫の中の整理を――わぁ!」

 倉庫に入ってきた一花ちゃんは、両目を大きく開けて驚いていた。目が点になるというのは、こういうことを言うんだろうか。

「すごい力持ちですね!」

 一花ちゃんは、まるで世界が救われたかのような言い方をしていた。古い台車を動かしただけで、こんなに喜んでもらえるとは思わなかった。今までの疲れも飛んで消える気がする。

「その台車、コーチでも動かすの大変なんですよ!」

 満面の笑みを向けられて、少し恥ずかしい気持ちになってきた。頭皮から、つつーっと汗が垂れてくる。

「北真さんが来てくださらなかったら、もっと何倍も苦労したと思います。本当にありがとうございます」

 一花ちゃんは、元気にぺこりとお辞儀をした。

 顔を上げてから、優しく微笑む一花ちゃんを見ていると、胸の中が暖かくなった気がした。

 そこに可南子が不快そうな顔で倉庫に入ってきた。

「なに喜んでるのよ。気色悪いわね」

 どうやら可南子には、俺が喜んでいるように見えているらしい。

 でも言われてみれば確かに、俺は喜んでいるのかもしれない。

 誰かのために行動して、それを感謝されるってことが、こんなにも俺を満たしてくれるなんて思わなかった。

「カナちゃん。こんなに良いお兄さんに、キショいなんて言っちゃダメだよ」

 注意された可南子は、眉間にしわを寄せた。それからなぜか俺に、敵意あるまなざしを向けてきた。

 いや、俺のせいじゃないだろ。



 初夏を思わせる日差しが、肌を刺すように降り注いでいた。二人でバイクにまたがり、風をきると気持ちがいい。

 だけど日陰を通るときは寒いくらいだった。

 休憩がてら、小さな公園にバイクを止めた。ヘルメットを脱ぐと、日差しが一層強く感じられる。

「安西は何がいい?」

 自動販売機の前で、小銭入れを開くと、安西が笑った。

「いいよ。自分の分は自分で出すから」

 その爽やかな笑顔に、俺の心は揺れてしまった。何回見ても可愛いと思ってしまう。一緒にいられてよかったと思う。

 どうあがいても、俺は安西を嫌いになれないみたいだ。

 彼氏だと思われてないと知った今でも、俺は安西が好きだった。

「晴れてよかった」

「本当にいい天気だわ。日焼けしちゃうくらい」

 自動販売機から飲み物を取り出した安西は、まぶしそうに空を見上げた。

 日焼けしちゃうくらい、と言ったけど、安西は日焼けを気にしていないようだった。日焼け止めは塗ってるかもしれないけど、日差しを嫌うようすはない。

 そういうところも、俺は好きだった。

「見てよ北真。とっても綺麗だよ」

 安西の視線の先には、果てしなく緑が広がっていた。

 視力がよくなりそうな景色だ。

「そういえば、このあたりに友達の別荘があったような……」

 安西はつぶやいてから、冷えたカフェオレを傾けた。

「別荘?」

「うん。前に一回だけ呼んでもらったの。ログハウス風の素敵な別荘だったわ」

 別荘を持っている友達って、誰だろう。

 安西には、俺が知らない友達がたくさんいるような気がする。

「たぶん今は留守だから、行ってみましょう?」

「留守なのに?」

 聞き返すと、安西はニヤリと口角をあげた。

「留守だから行くのよ」



 真っ先に頭に浮かんだのは、やらしい発想だった。

 空いている別荘で、男女が二人きり。

 その状況で、やることなんて決まってる。

 安西は、友達に「処女のフリをしてるのに」なんて言われていた。だからたぶん、もう経験済みなんだろう。

 俺はまだ。

 もしかしたら、やらしい発想だと思ってしまった自分が間違ってるのかもしれない。

 若い男女が揃ってるんだから、ある意味で健全な行為と言ってもいい。

 だけど、それについて頭がいっぱいになるのが嫌だった。

「いつもより速いね!」

 後ろから、安西の声が聞こえてくる。

 知らないあいだに、速度を出し過ぎてたらしい。安西が、僕に抱きつく力も、いつもより強く感じられる。

「次を左に曲がったらすぐよ!」

 安西は精一杯、大きな声を出しているようだった。でも風にかき消されて、かろうじて聞こえる程度になってる。

 意識的に減速してから、ゆっくりと左折する。

 曲がり終わってアクセルを開けようとしたとき、思わずブレーキを引いた。

「なんだこれ……」

 目の前にはログハウス風の家と、ひとだかりがあった。

「誕生日パーティみたいね」

 安西が腕を伸ばして、何かを指さした。

 そこには大弾幕が掲げられ「お誕生日おめでとう」と書いてある。

 どうやら誰かの誕生日パーティをしてるらしい。

 周囲を見渡してみても、他にログハウス風の家は見当たらない。

「もしかして安西が言ってた別荘って、あの別荘?」

 振り返ると、安西は複雑そうな顔をしていた。

「そのつもりだったんだけど……ごめん」

「いいよ別に」と言いながら、前に向き直る。別荘が空いていないなら、ここに用はない。Uターンして帰ろう。

 ペタペタと足をついて旋回していると、大きな声がした。

「おーっ。安西じゃねえか!」

「アズマ!」

 安西は、バイクから飛び降りた。そしてアズマと呼んだ男に駆け寄った。

「久しぶりね!」

「ずいぶん遅かったじゃねえか」

「あれ、私誘われてた?」

「忘れてんなよな!」

 アズマは明るく言ったが、安西は気にしたようすで「ごめんね……」とつぶやいた。

「ヘコむなよ。せっかく盛り上がってんだからさ。一緒に楽しもうぜ!」

 アズマは、安西の肩を抱いた。

 どうやら、アズマは少し酔ってるらしい。まったく顔は赤くなってないけど、息からは濃いアルコールの匂いがしていた。

「そっちは彼氏?」

 アズマは、安西の肩を抱いたまま、俺の方に近づいてきた。

 肩を抱かれた安西は、少し複雑そうな顔をしていた。少なくとも、俺にはそう見えた。けど、その意味まではわからない。

 アズマに肩を抱かれているからそんな顔になっているんだろうか。それとも俺に見られていることが表情を暗くしているんだろうか。

「どうよ一緒に」

 アズマは握手を求めるように、俺に手を差し出した。

「……やめとくよ。どうせ知り合いもいないだろうし」

 俺はペタペタとバイクを足で漕いだ。

 安西と違って、俺は招待された身でもない。もし一緒にいても迷惑なだけだろう。

「待って」

 安西は、申し訳なさそうな表情で、俺に駆け寄ってきた。

 安西の髪が風に揺れ、汗ばんだほっぺに張り付いている。

「北真くんって、今日の夜……時間あるかな?」

 上目遣いで言われて、俺は生つばを飲み込んでしまった。

「もし良かったら、ここに迎えに来て欲しいの」

「えっ?」

「この辺りって外灯も少ないでしょ。夜になると真っ暗で……怖くて……」

 安西は、顔の前で手を合わせて、祈るようにしていた。

 もし安西が「送ってほしい」と言えば、この場にいる誰かが送ってくれるに違いない。別に彼氏じゃなくても、きっと安全に送り届けてくれると思う。

 でも、たぶんバイクじゃない。車でもないと思う。

 そういう意味で、やっぱり僕は彼氏じゃなくて、移動手段なのかもしれない。

「ごめん。今夜はちょっと」

「えっ!」

 安西は、目を見開いて驚いた。そしてすぐに心配そうな顔になる。

「もしかして体調が悪かったの? 大丈夫? ごめんね北真。私ぜんぜん気づかなくて……」

「いや、いいんだ」

 安西の言葉に、胸が痛くなる。

 別に体調は悪くないし、予定があるわけでもない。ただ、もう一度ここへ来る気分になれなかった。

「それじゃあ、俺は帰るよ」

「無理しないで、ゆっくり休んでね」

 安西が、優しい笑顔で見送ってくれる。

 この笑顔が、偽りの笑顔なのか、優しい心から生まれたものなのか。俺には判断できなかった。

 きっと今日も安西は、このまま俺が見えなくなるまで、手を振ってくれるに違いない。



 いつの間にか、空は夜色に染まっていた。でも家に帰りたくなかった。公園で黙って座って、それを誰にも邪魔されたくなかった。

 誰かのためにと思えば思うほど、独りになりたくなる。

 どうして、こんな風になっちゃったのかな。父さんが生きていた頃は、毎日が楽しみであふれてたのに。

 サッカー選手に憧れて、毎日練習して、父さんと一対一の勝負をした。

 この公園でも、たくさん練習した。

 でも結局、父さんには勝てなかった。

 そして、もう二度と、父さんを超えるチャンスはない。

 父さんが死んだ日をさかいに、俺の人生から目標が消えてしまったみたいだ。

「どうしたら父さんより強い男になれるんだろう……」

 このままのやりかたで、本当に俺は父さんを超えられるんだろうか。

 俺は全く無駄なことをしてるんじゃないだろうか。

 そんな不安が、頭から離れない。

「なーんだ。そんなコトだったのね」

 振り返ると、仁王立ちした可南子がいた。

「可南子……どうしてここに……」

「お兄ちゃんを探してたからに決まってんじゃん!」

 可南子は、俺を威圧するように足音を立てながら近づいてきた。それから、少し驚いた顔をした。

「お兄ちゃん、泣いてんの?」

「……みたいだな」

 今まで気付かなかった。というフリをして涙をぬぐう。

「バッカじゃないの!」

 可南子は、顔を赤くして怒鳴った。

 妹の前ですら、自分の弱さを認められない。

 バカだ。

 本当に、俺はバカだ。

「死んだ人のために頑張るなんて、おかしいよ!」

「可南子は覚えてないだろうけど、父さんは立派な人だったんだ」

「だけど死んじゃってるじゃん!」

 可南子は、俺を睨みつけていた。でも心なしか、可南子の視線からは不安が感じられる。

「俺は、父さんみたいな男になりたかったんだ。誰にでも優しくて、いつも笑っていて――」

「でも、お兄ちゃんは笑わないよね」

 可南子は、じっと目をそらさずに言った。

「あたし、お兄ちゃんが笑った顔なんて、ほとんど見たことないよ」

「そんなことないだろ」

 と言おうとしたけど、言えなかった。

 記憶をさかのぼっても、可南子と笑いあった光景が浮かばない。

 そもそも心から笑った記憶が、父さんとサッカーをした頃までさかのぼらなければいけなかった。

「お兄ちゃんは、いっつもツラそうだよ。彼女とデートして帰ってきた日も、一花が笑いかけてくれたときも、あたしといるときだって!」

 可南子が、そんな風に俺を見てたなんて気づかなかった。

 俺を見るたびにイラついていたのは、俺がツラそうにしていたからだったのか。

 でも、俺はツラいわけじゃない。全くツラくないわけでもないけど、人並みのツラさだ。俺は、俺が世界で一番不幸だなんて思っちゃいない。

 ただ泣きそうな可南子の顔を見ると、申し訳なくなる。

 みんなに笑っていて欲しいのに、妹にすら心配をかけてる。本当は、可南子に頼ってもらえるような兄にならなきゃダメなのに、これじゃ誰にも頼ってもらえない。

「もしお兄ちゃんが笑えないのがお父さんのせいなら、あたしはお父さんなんて、大ッ嫌い!」

 可南子は、いつのまにか目に涙をためていた。

 俺は最低だ。

 可南子に、こんなことを言わせるなんて、父さんに申し訳が立たない。

「それもこれも全部、お父さんが望んだことなの?」

「父さんが望んでいたこと?」

 そんなこと考えたこともなかった。

 ただ俺は、父さんに少しでも近づきたくて……でも、具体的な目的もなかった。

「もしかしたら、俺が人生をかけようと思っていたことは結局、全て戯れ言だったのかもしれないな」

 誰かのため。という頑張りは結局、誰からも感謝されなくて、誰にも理解されない。

 そんな頑張りでは、誰も救えない。

 自分自身だって救われない。

 自分自身の救いにすらならない頑張りなんて、本当に無意味だ。

「戯れ言なんかじゃない……」

 可南子は、言葉を絞り出すように言った。

「お兄ちゃんの気持ちは、戯れ言なんかじゃないよ……! お兄ちゃんは、誰よりも頑張ってたじゃん!」

 言葉を生み出すたびに、可南子の瞳からは涙の粒がこぼれていた。

「だから、あたしも追いつこうと思って…………」

 なんだって?

 可南子は、俺のことが嫌いだったんじゃないのか。

「もとをたどればお兄ちゃんが悪いのよ!」

 涙をぬぐって、いつものトゲトゲしい口調に戻った。でも、まだ可南子の目は赤いままだ。その赤い目で、俺を睨みつける。

「私が何も思ってないと思ってたの? お兄ちゃんが必死にあたしやみんなのためにやってくれてること。当たり前に感じてるって思ってた? 感謝してないって? んなワケないじゃん! お兄ちゃんはいつもそう。全部ひとりでやろうとしてさ。無理に決まってんじゃん。ひとりでできることなんて、たかがしれてるよ。

 だから、もっとあたしを頼ってよ!」

「可南子、お前……」

「お父さんを超えたいなら、あたしと一緒に頑張ればいいじゃない!」

 可南子は、胸が触れるほど近くに体を寄せてきた。そして、自分の頭に手を乗せた。

「ほらっ、こんなに背も伸びたんだよ。お兄ちゃんがいなきゃ何もできない妹じゃないよ。料理だって掃除だってできるし。勉強だって、もうすぐお兄ちゃんに追いつくんだから!」

 可南子は、悔しそうな顔をしていた。

「お兄ちゃんはズルいよ! あたしがこんなに頑張ってるのに無視ばっかりして! どうしてあたしが走り高跳びで県大会二位になったことも、テストで学年一位になったことも知らないの? あたしってそんなに存在感ない? お兄ちゃんにとってのあたしって何なのよ。あたしはまだ泣き虫のままなの? そんなに頼りにならない? あたしがどれだけお兄ちゃんに……」

 可南子は急に背中を向けた。うつむいて顔をこすっている。

 話しているうちに、また涙がこみ上げてきたのかもしれない。

 見た目こそ変わってしまったけど、可南子の中身は変わっていない。それがなぜか嬉しく思える。

「今まで気づかなくて、ごめんな」

「ごめんな、じゃないよ」

 可南子は、振り返ってから、俺を睨みつけた。だけど敵意のある視線じゃない。ずっと今までも、可南子はこんなに寂しそうな目で、俺を睨んでいたのかもしれない。

 俺が気づかなかっただけで、十年間そうだったとしたら。

「あたしが謝らせてみたいじゃん。ごめんって言わないで」

「そうだな」

 この気持ちを言葉にするなら。


「ありがとう」

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