4-2
ゆらゆら
誰かが近づいてくる気配がして、彼はうっすらと目を開けた。
わずかに開かれた目線のその先に、見えたのは汚れた小さな足。
少女は言う。
「ひとりでさびしくないの?」
答えないでいたら、答えられないでいたら、答えるための言葉を持っていなかったから。
少女は勝手に近づいてきて、そばに座って勝手に話を始めた。
危険だとか、何が起こるかなんて考えずに、ずっと、迎えが来るまで一人で話し続けていた。
それが、一番古い、一番最初の記憶。
□
ふと、ソラの意識がゆっくりと覚醒していく。
いつもと違う部屋の天井。
かぎ慣れない空気。
左隣にあるだれかの気配。
暖かい体温。
小さな寝息。
自分のものではない、やわらかい重み。
「ん……」
わずかな吐息が聞こえて、左腕にかかる力が少しだけ強くなったところで、ソラは昨日は丸一日リッカと過ごしていたことを思い出した。そして適当な宿を取ったのだった。
しばらく構っていなかったこともあわせて、しっかり相手をさせてもらったのだけど。
「リッカ……」
そっと呼びかけるものの、少女は目を覚ますことなく、ぐっすりと眠っている。
さてどうしたものか。
かすかに聞こえてくる人々の声から、すでに日は昇ってそれなりに時間がたっているものだということはわかる。
帝城にいた時は時計を見れば何時というものもすぐにはわかったけれど、そんなものこの下町には普及していない。
大体、日が出る前に動き出し、上りきったら昼で、暗くなったら家路について、あとは食べて寝る。そんな生活に戻ったのかと思うと、感慨深いものがないこともない。
まあそれより先に
「事務所に帰らないと」
□
荒い足音がして、彼は思わず『壁』をつくった。
貫けない、不可視の壁をたたく小さな手がある
――は言う。
「おまえ、いもうとになにをした!」
何を怒っているのか、何を叫んでいるのか、そもそも苛立つとは何なのか。
どう答えればいいのかわからなくて、『壁』をたたき続ける――を感じているだけだった。
やがて少女がやってきて、――に何事かを言って連れて行く。
去っていくときにちらちらと振り返り、ごめんねという気配だけがあった。
変わった気配が、気になった。――は……
これが、初めて感情というものを感じた記憶。
□
「どうしたの? ソラ」
日の高さはすでに昼を指していて、人々はまもなく昼休憩に入るかといった雰囲気を見せていた。
事務所に向かう道すがら、たまにすれ違う顔見知りが声をかけてきて、それにソラが適当に答えていたら、リッカが口を挟んできた。
「どうって」
「少し、肩がこわばってる」
リッカの指摘に、なんとなく両肩をまわしたソラは、ふと
「飛んでないからかもしれない」
違和感の原因らしきものを口にした。
「飛んでないって?」
「帝城にいる間はほとんど箱詰め状態だったから。運動することもあったけど、翼を全開にして飛ぶということも無かったし……」
「あー……それは……」
それは、飛行者にとって死ねといっているようなものだ。自由気質の高い彼らは、飛ぶことに命をかけているものも多い。中には数日雨が続いて飛べないだけで体調を崩すものもいるという。
「あとは周りのヤツラがうるさくて、なんか調子が狂った」
「……そういう割には、楽しそうだけど?」
「うん? あー、オヤジさん達とノリが似ていたからかも」
ノリというか、空気というか。
リッカにとっては、自分とソラを切り離した憎むべき相手かもしれないけれど、ソラにとっては自分に家族というものを教えてくれたという存在達だ。
案の定、その言葉を聞いたリッカは少し顔を歪ませて、空に向けていた目線を前に移す。
「あの筋肉ダルマたちのこと、ソラは信頼してるよね」
「少なくとも、力の使い方を教えてくれた人達だから。それに人と関わるということも」
「わたし達じゃだめだったわけ?」
「そうは言ってないけど……質が違うというか……」
リッカ達の関わり方はこちらが反応したときだけ連れまわす、傍にいるというもので、ハルフォード事務所の人達はいやでも構ってくるような人達だった。
何を子供が気取っているんだ、もっと大人に甘えろと。そういう割には、子供にやらせるようなものではないことをやらせていた。
それはそれで辟易していたのだけれど、いまとなっては悪くない思い出にもなっている。
「ソ~ラ~」
ふと、頭上から声が降ってくる。見上げると、いろいろとダイナミックな飛行者の女性がソラに抱きつくように飛び込んできた。
「え、ちょっと、マリア……」
「ひーさしぶりー。おねえさん寂しかったよ?」
引き剥がそうにも離れてくれそうになく、リッカを見ても頬を膨らませてソラを睨んでいる。
「えっと、リッカ?」
「いいよね。ソラは人気者で。わたしは先帰ってるからどうぞ」
正確にはマリアの体の一部を睨みながら言ったリッカは、そのままくるりと体を回転させて本当に帰りかけた。
「あー、ごめんごめん。デートの邪魔しちゃったかしら?」
マリアがソラから離れ、リッカの前に回りこんで両手をあわせてあやまる。
「いやほんとはさ? 昨日二人が『枝』でいちゃいちゃしてたのはみんな知ってたから、そっとしておこうかなと思ったんだけどね?」
リッカはその言葉に顔を赤くして、また別の意味でマリアを睨みつける。
「ほら、私としてはソラがしばらく事務所に戻れないっていう原因作っちゃった張本人みたいなものだしさ」
「別にそれはマリアさんが原因ってわけじゃないですけど……」
それも、伝えてあったのはソラはしばらく戻れない。いつになるかわからないという簡単なことで、どこにいるといったことは一切伝えてないのだけども。
「それでも、よ。大まかな経緯はリッカちゃん達から聞いて理解はしてるわ。納得はしてないけど」
改めて、ソラに向き直る。
「ありがとう。ソラ」
「いや、別に……」
「まあ、もうひとつは、われらが飛行仲間のソラ君のー、かわいい彼女ちゃんをみんなに広めようかなってね」
「ちょっと、さっきの一瞬の真顔はなんだったんですか!?」
「さーねー?」
おどける少女のようにマリアは言う。
「まさか孤児院のサイクロプスが本命だとはおねえさん知りませんでした。依頼に行った時はまさかのハーレム!? ておもったけど。」
「……なんですか? そのサイクロプスって」
「あ……」
立夏の低い声が聞こえて、しまったという顔をしてあわててマリアは飛び上がった。逃げるように屋根の上まで上昇し、言い忘れていたかのようにソラに向かって叫ぶ。
「そういやさ、そろそろレースの時期だけど、ソラはどうするの?」
「うん?」
「フライトマンズ・レース。なんかだーいぶ前に一、二度参加してそれきりじゃない」
「あー……」
「まあ、まだ参加募集してたはずだから、考えておいてね? それじゃ。止まり木にも顔出しなさいよ? みんな気にしてたから~」
言うだけいって、マリアは飛び去っていった。
彼女がいっていた言葉が気になったのか、リッカが聞く。
「フライトマンズ・レースって?」
「そのままの意味で、飛行者達が帝都を一周するレースの祭りみたいなもの。平行して機足者のレースもある」
「へえ?」
「事務所に入ったときと次の年は参加したけれど……」
「けれど、なに?」
「……」
「なに、言いかけてやめられると気になるんだけど?」
「……勝てないからやめた」
「勝てないって……え?」
たまらず顔をそむけ、誤魔化すように先に行こうとソラに一瞬置いていかれそうになり、リッカは慌ててその後を追う。
「なに、勝てないからやめたって……ソラでもそういうことするんだ。そういうことあるんだ。へ~?」
だから言いたくなかったんだと、いつもと変わらない顔が告げていて、リッカはどこか嬉しくなっている自分に気がつく。
不安にもなったけれど、こういう発見があるのなら、離れていたことも悪くは無かったかもしれない。
□
誰かが近づいてくる気配と足音がして、彼は目を上げた。
その目の先に映ったのは、使い込まれた一足のブーツ
男は言う。
「なあ、坊主。おまえか? ここんとこずっと人気なのは」
誰のことかわからなくて、答えていいのかわからなくて、敵か味方かもわからなくて。
ずっと黙っていたら無言でこっちを見ている気配だけがあった。
しっかりと、『場』に入らないぎりぎりの距離から。どれだけの時間か、ずっと。
やがて、溜息をつく音がして、男は
「また来る」
とだけいって去っていった。
これが三人目の記憶。
□
「で、結局クルルがこっそり旗をとりにいってて、それが見事にはまったってわけ。それでアンディチームが勝ったんだよ」
人の賑わいから離れて、もう少しで事務所というところ。
リッカはソラと共に歩きながらこの二週間の間にあったことを話していた。
雪合戦のこと。クロエの不思議、エリーがすこしおかしい。ジャックさんがこんなに長く居ついているのもめずらしい。
「あー、ユニ怒ってるかな?」
昨日は碌に会話もせず、置いてく形で事務所を出てきてしまったのだ。すねている姿が容易に思い浮かぶ。
「ご機嫌取り、か」
「がんばってねー?」
ソラのつぶやきに、まるで他人事のようにリッカは返す。
一度すねたユニは恐ろしい。孤児院の子供達のなかには一週間口を聞いてもらえず……というか反応をもらえず、とうとう泣き出したものもいたとかいなかったとか。
ユニの反応を想像して溜息をつくソラをみて、リッカは何がおかしいのかくすくすと笑う。
「ソラは帝城にいた間なにしてたの? ごはんおいしかった?」
「……あれならまだ自分で作ったほうが。味の種類は多かったけど」
「まずかったの?」
「まずいというか、アツヤの料理がうまかったというか」
「あー……」
確かにそうよねーとリッカはうなづき
「あれ?」
何かに気がつく。
「アツヤって、ソラと一緒じゃなかったの?」
「その様子だと、事務所にも戻ってないみたいだな」
少なくとも二週間。ヴィヴィがかけた捜索の網にもひっかからなかった。どこへ行ったというのか。
ソラの脳裏に、ヴィヴィの言った言葉がよみがえる。
『黒い男が、アイツにも手を貸していた』
「どうしたの?」
急に黙りこくったソラに、リッカが疑問をぶつけた。
「いや、なんでもない」
と返し、ソラは止まっていた足を進める。考えすぎかもしれない。気のせいかもしれない。ただ、『黒い男』の存在が体中に絡みついている気がして、思わず身震いをする。
ああ、やっと事務所が見えてきた。
□
かつん、かつんと、空間に響いた靴の音で、彼は顔をあげた。
薄暗がりでよく見えないものの、それでも目に映ったものは見慣れない靴。
その靴の持ち主は言う。
「……なにをしている」
その疑問の意味がわからなくて、その疑問がおかしくて、その疑問をした理由がわからなくて。
笑いをこらえきれずくすくすとにやにやとつい笑ってしまった。
見慣れぬ靴の持ち主は、それ以後言葉を発することなく、睨みつける視線をより強くして。
彼が笑い終わるまで、見慣れぬ靴の持ち主は動かなかった。
あらゆる感情を彼にぶつけながら、ただそこにいた。
これは、再会の記憶。
□
事務所に帰ってきた二人を出迎えたのは、クロエとジャックだった。ユニはソファに座ったまま頬を膨らませ、明後日の方向を向いてすねている。それでもチラチラとソラ達のほうをみて、気にしているようではあった。
「ん、ただいま」
「おかえリー」
クロエが抱きつき、ジャックがよってくる。少し前のソラでは、考えることができなかった光景。
本当に、そうだっただろうか。
「ん、どどどうしましたかかかか?」
ジャックがソラの様子に気がついて、カタカタとその首をかしげた。
「いや、なんでもない」
言葉少なげに顔をそらして、ソラはユニの前に立つ。
抱きかかえていた黒いタマゴをますます強く抱きしめ、ユニはこれ見よがしに首をそらして見せた。
「ごめん。ただいま、ユニ」
苦笑をひとつ。そしてその頭に手を乗せて撫でる。
たとえば、気にしていなかっただけで、だいぶ昔にもこういうことは無かっただろうか。
やがてユニが飛びついてきたときには、さりげなくその『角』が突き刺さりそうだったけれど仕方がないとして抱きしめる。
そのあとクロエが後ろから再び抱き着いてきたり、リッカがなんともいえない顔をしてみていたり、それを見たジャックがカタカタと笑っていたり。
やっとこの事務所に、本来あるべき空気が、昔とは違ったとしても戻ってきたような気がした。
「ただいま」
あらためて、こっそり聞かれないようにソラはつぶやく。
おかえりなさい
すらんぷ……スランプ……




