参百肆拾弐.ファントムペイン
俺『もう、返事はいいからとにかく聞いて。帝に明子の入内を諦めさせたいんだけど、その説得を手伝って欲しいんだ』
天照『帝って前に姫ちゃんを襲おうとした変態でしょ』
俺『そうだよ、って、天照の眷属でしょ。それも血のつながりもある。なんでそんなうろ覚えなの?』
天照『変態にはそのくらいの扱いがちょうどいいの。で、入内を諦めさせるって、ちょっとひねってあれを潰しちゃえばいいだけじゃないの?』
そう言いながら、天照は親指と人差し指を使ってくいっと何かをひねりあげるジェスチャーをした。
それを見て、俺は思わず股間に薄ら寒いものを感じる。ファントムペインというやつだが。
俺『それは俺も考えたよ。でも、さすがにそれは最終手段ってことにしたいな』
天照『なんで?』
俺『いや、俺も一応男だし』
天照『姫ちゃんは女の子だよ』
俺『心は男なのっ』
天照『じゃあ、いっそのこと帝を女の子にしちゃおう』
俺『日本史が変わっちゃうしっ!』
俺が帰る前に日本史を変えるとかやめてください。今までの日本史の勉強がパーになっちゃうじゃん!!
天照『えー、でも、記憶を残さないで説得するって難しいよ』
俺『前、帝にあった時には記憶が残ってたじゃんか』
天照『ちゃんと記憶は消したよ。でも、暗示みたいな形で残っちゃうのは仕方がないんだよ』
俺『じゃあ、暗示が残るくらいまでやっちゃえばいいんだね』
天照『簡単に言うけど暗示の内容をコントロールするのって難しいんだから』
天照はぶつくさ言っているが、記憶は消すくせにあれを潰しても知らん顔というのがどういうバランス感覚なのかいまいち分からない。
俺『明子の入内を取りやめるように暗示をかけるのってそんなに難しいの?』
天照『暗示ってのは夢の残滓みたいなものだからね。すごくシンプルなイメージしか残せないんだよ。幼稚園児が書いた絵一枚で説明できるくらい』
俺『あー、俺の場合は、黄櫨染の衣を着て三種の神器を操る天照と黄丹の衣を着た俺が並んで立ってたイメージが暗示になったのか』
天照『多分ね。今回も、そんな感じのイメージが作れれば上手くいくんじゃないかと思うけど』
そう考えてみると、「入内を取りやめる」っていうのを絵にするのはかなり難しいな。なんか別のアプローチを考えてみないと。
そもそも「取りやめる」みたいな否定概念の入ったものを絵にするのが難しい気がする。肯定的な内容にして同じ効果を持たせるにはどうしたらいいだろう?
一夫一婦制なら別の人を好きにしちゃえば重婚できないから取りやめるということになるんだろうけど、この時代は一夫一婦制じゃないし、そもそも明子は側室候補だしな。
男しか愛せないとかそんな感じにしちゃう? いやいや、失敗して両刀使いになるかもしれないし、形式的に入内してしまって性生活はなしってこともありえるし。
……ちょっと待てよ。今は俺が帝になるかもって話があって、明子の入内は立ち消えになりかけてたんだよな。それは、次期天皇が俺に確定したら、今の帝に嫁ぐ意味がなくなるからだったはず……
何か大事なことを思いつきそうなんだけど……
次期天皇が確定すれば、入内する意味はなくなる……
次期天皇……
ジブリのかぐや姫の物語を見ました。
竹取物語をベースにした物語を書いているということもあっていろいろ興味深くて多面的に楽しめたのですが、ネットの評判を見てみると案外原作がどういうものだか知っているようで知らない人が多いみたいだということにちょっとびっくりしました。
ジブリのと原作の違いはいろいろあるのですが、一番大きな違いはかぐや姫そのものにあると思います。
原作では、徹頭徹尾かぐや姫は人間を超越した天女として描かれています。月に帰る時になって、ごく身近な人に情を移した様子は見せたものの、地上の世界そのものに未練があるとは述べられていません。
それに対してジブリ版では、かぐや姫はより人間的に描かれていて、月の世界よりも地上の世界のほうが素晴らしいと考えている様子が描写されています。
この違いは決定的で物語全体に大きな影響をもたらしています。
原作の世界観を理解するには、月の世界と地上の世界が文字通り天と地ほどの差があるということを考慮する必要があります。例えて言えば、かぐや姫というのは人間世界から未開の地に島流しにされて、行きついてみたらそこにニホンザルの王国があったというようなものだと思ってみればいいと思います。
そこで姫は猿たちに美貌を絶賛されて猿の貴族から執拗な求婚を受けるのです。人柄云々よりも何よりも生理的に無理、という状況ではないかと想像できます。石上中納言が燕の子安貝を取ろうとして死んだときも、「ちょっとかわいそう」程度にしか思わなかったのも納得です。
原作は徹底して高貴な人のことを笑い者にする風刺的な物語で、その手段として超越者であるかぐや姫がそれらの人々に向けるゴミを見るような視線を利用しているのです。
月に帰る直前、帝に対してだけはかぐや姫が実は好意を持っていたという描写がありますが、あからさまに蛇足なので、物語が長い年月掛けて伝承される間に書き加えられたか、あるいは原作者がさすがに恐れ多いと日和っただけなのではないかと思います。
ジブリ版はそういう原作の風刺的な側面を完全に消し去り、代わりに人間性をテーマにした物語にしたため、かぐや姫の位置づけも全く異なるものになり、物語のあらゆる面で意味づけの変更が行われています。
例えば、かぐや姫が貴族や帝の求婚を拒絶するところでは、原作では「猿みたいできもい」の一言で理由付けが済んでいるところを、都の文化になじめず現実逃避を繰り返す心理描写を重ね、それに説得力を持たせるために、たった3か月で成人したはずのかぐや姫の幼少期を丁寧に描写して「捨丸」というオリキャラを導入する必要が生まれたのです。
とまあ、こんな感じでかぐや姫の物語は竹取物語とは似ても似つかないものになっているのですが、世間の評論であんまりそのことに言及がないみたいで不思議に思って驚いたのでした。