百拾肆.テレコン
春日神社滞在中の俺の生活の拠点は、天児屋に最初に通された建物になった。ここは今のところ誰も使っているものがいないので建物全体が貸切状態だ。ちなみに寝殿造りとは違って全室畳敷きで、かつ障子で部屋を区切ることができるので、随分住み心地がいい。俺は適当に部屋の仕切りを入れ替えて居住環境を整えた。
そうこうしているうちにあっという間に日が暮れた。神さまの世界の夜は幻想的だった。見渡す限り様々なものが燐光を発していて、足を踏みしめたり手を触れたりするたびに、光の粒子が宙を舞って消えていくのだ。思わず声を失って夜の庭に見入ってしまうほどだった。
(おっと、呆けてる場合じゃなかった)
出かける前、雪に毎日連絡を入れると言っていたのだ。初日から連絡を忘れるわけにはいかない。俺は数少ない持ち物の中から小型化した石版を取り出して元のサイズに戻した。
俺『もしもし』
俺が石版に向かって合言葉を言うと、石版の表面が淡い光を発し始めてやがてどこかの部屋の光景を映しだした。
俺「雪、いる?」
雪「あっ、か、かぐや姫さまっ」
石版は遠見の鏡と呼ぶ魔法具で雪の部屋に置いた対になる遠見の鏡と映像や音声をつなげるものだった。
雪はお風呂上りで、長い髪にドライヤーを当てて櫛で梳かしているところだった。女の子が髪をいじるところっていいよなーと、俺は自分の髪を棚に上げてそんなことを考える。
俺「あ、今、忙しい? かけ直そうか?」
雪「大丈夫です。それより、ご無事でしたか?」
俺「うん。この通り」
雪「それは何よりです。今日はどちらにお泊りなんですか?」
俺「あ、えっと、春日神社なんだけどね」
(天児屋に連れられて神さまの世界にいるという話を伝えたものか……)
雪「もうお着きになったんですか?」
俺「ん? あ、空、飛んだから」
何気なく言った俺を、雪が唖然とした顔で見つめてきた。空に飛び立つところは見ていたはずだけれど、まだ雪は魔法のことがピンときていないようだ。この調子だと、今いるところが神さまの世界だといっても混乱するだけかもな。
ところで、さっきから神さまの世界、神さまの世界と繰り返しているが、ここは神さまの世界であっても葦原中国であることに変わりはない。葦原中国の中に人間が知覚できる世界と神さましか知覚することも出入りすることもできない世界があるということだ。そういう神さまの世界は神社のような特別なところにしか存在しないが、その中は高天原とよく似た法則が支配する特別な場所なのだ。
という話を、食事の時に天児屋が偉そうに自慢していた。ちなみに飯は美味かった。
俺「式神はまじめにやってる?」
雪「はい。式神さまは立派にかぐや姫さまの代理をなさっておいでですよ。今日も積極的に和歌の返信をお書きになっていましたし」
俺「あ、式神、もう返歌を書いたんだ。雪、中身はちゃんと確認した?」
雪「いえ。でも、お相手のことも考えて1通1通心を込めて書いていらっしゃるようでしたよ」
俺の頭に裳着の祝宴の時の惨事が蘇る。式神の和歌は読む者の心を1撃で粉砕する力を持っているのだ。式神が一生懸命になるのは相手の心の弱点をより効果的に突こうとしているからに過ぎない。偉い人には手加減するというのは、相手を敬っているというのではなく、相手次第でどこまで壊していいか見極めているだけなのだ。
俺「雪、これからは必ず式神が書いた返歌には目を通して、中身があまりにひどいときは式神に書き直させてちょうだいね」
雪「申し訳ありません。これからはそういたします」
俺「ううん、これは私がお願いし忘れてたことだから仕方ないわ」
雪は素直に謝ったが、これはむしろ俺が悪い。今日、返歌を受け取った貴族たちには悪いことをしたな。
かぐや姫は古語で話している時だけ丁寧な女性言葉になります(雪と話す時は多少くだけてはいますが)。これは古語を覚えるときにそういう言葉として覚えたのでそうなっているわけで、本人は女っぽい自覚はあるものの、特別ことさらに女っぽく話しているつもりはありません。ということを第弐話でさらっと書いています。
また、1人称の語り口からは読み取りにくいですが、かぐや姫は振る舞いも上品で優雅です。これは身体に染み付いた癖に加えて極限まで上げられたステータスが可能にしていることです。