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「君の『大丈夫』は、少しだけ変だった。」

「大丈夫」――それは、私たちが日常的に使う、とても便利な魔法の言葉です。

相手を安心させ、自分を奮い立たせ、そして時には……自分の本当の心を隠すための、分厚い盾にもなります。

明日も当たり前のように続くと思っていた日常。

いつでも言えると思っていた「ごめん」と「ありがとう」。

これは、SOSに気づけなかった愚かさと、取り返しのつかない喪失の物語です。

読んでいて少し息苦しくなるかもしれませんが、どうか彼の抱えた後悔と絶望を、最後まで見届けてやってください。

晩秋の西日が、ファミレスのガラス窓をすり抜けて、空のグラスと皿が散乱するプラスチックのテーブルを照らしていた。アップテンポなJ-POPがうっすらと流れる店内は、放課後の陣取り合戦に勝利した高校生たちの喧騒にかき消されている。

「おい、なんでここのガパオライスにはインゲンが入ってんだよ……!」

あさひ 悠真ゆうまは文句を垂れながら、フォークでサイコロ状に切られた緑色の物体を忌々しそうな顔で皿の端に避けた。「ガパオにインゲンを入れるなんてどこの店が教えたんだ。食文化の根底を揺るがす大罪だぞ、完全な邪道だ」

白井しらい ひかりはケラケラと笑った。その笑い声は、夏の風鈴のように——澄んでいて、明るくて、いつもみんなの視線を惹きつけた。彼女は悪びれもせず自分のフォークを伸ばし、悠真が避けたインゲンをひょいっと口に運ぶ。

「大丈夫だよ、悠真。食べなよ、インゲンだって栄養あるんだから。あんたはホント文句多いなぁ」

彼女は目を細めて無邪気に笑う。それは、一瞬で世界全体を明るく照らすような、そんな笑顔だった。

「文句じゃない、これは食事の美学における死活問題なんだよ」

悠真はそう言い返しつつも、再びスプーンでご飯を口に運び始めた。

「放っておけよ光。こいつは息をするように文句を言う生き物なんだから」

もう一人の親友、黒瀬くろせ れんは無表情のまま、テーブルに広げた物理の参考書から目を離さずに言った。そして、ちらりと光を一瞥する。「それより、今日の数学の課題は終わったのか? 今朝、職員室に呼び出されて怒られてただろ」

光はペロッと舌を出し、頭をかいた。

「あはは……ちょっと絞られちゃった。でも、大丈夫! 今夜、蓮のノートを写させてもらえばいいんだもんね?」

「写させない」

蓮は冷たく言い放つ。

「冷たい! 悠真くぅーん、助けてぇー」

光はうるうるとした瞳で悠真に擦り寄る。

「自業自得だろ。夜更かししてゲームばっかやってるからそうなるんだよ」

悠真は鼻で笑った。

白井光の口癖である『大丈夫』。

それは、悠真にとって耳にタコができるほど聞き慣れた呪文だった。

教科書を忘れても——「大丈夫、見せて見せて!」

転んで膝をすりむいても——「大丈夫、こんなの擦り傷だよ。心臓からは遠いし!」

間違えて違う味のジュースを買ってきても——「大丈夫、これも美味しいから!」

悠真にとって、光は『陽だまり』の象徴だった。性格が正反対の悠真と蓮を繋ぎ止める、引力の中心。彼女の「大丈夫」は楽観主義のシンボルであり、高校生活を笑い声で満たしてくれるストレスからの防護壁だった。

悠真はこの時間が好きだった。この素晴らしくも平凡な日常が、ずっと続くと思っていた。明日も、明後日も、来年も。彼らはこのテーブルに座り、ご飯の文句を言い、宿題を写し、一緒に笑い合うのだと。

しかし、悠真は気づいていなかった。

——小さな亀裂は、いつだって『目に見えない場所』から始まるということを。

秋が深まり、空気が冷え込んで上着が必要になる季節。

すべてはいつも通りに進んでいるように見えた。光は相変わらず笑い、相変わらず明るく、相変わらず「大丈夫」と言っていた。

しかし、悠真は違和感を覚え始めていた。

それはほんの僅かな——注意しなければ見逃してしまうほどの、些細なノイズ。

11月のある曇りの日。悠真はいつも通り光と一緒に帰路についていた。途中、光は歩きながら自分のスマホの画面を見つめていた。液晶の青白い光が彼女の顔を照らす。ふと視線を向けた悠真は、今まで見たことのないものを見てしまった。

光の瞳は、空虚に濁っていた。

いつも上がっている口角は、糸が切れたように下がりきっている。

それは、今にも粉々に崩れ落ちてしまいそうな、ひどく疲弊した顔だった。

しかし、悠真が見ていることに気づいた瞬間。彼女は慌てて画面をロックし、スマホをスカートのポケットにねじ込むと、すぐさま満面の笑みを彼に向けた。

「なによー、私の顔に何か付いてる?」

いつも通りの、明るい声。

「いや……なんか疲れた顔してるなと思って。何かあったのか?」

悠真は尋ねた。

光は、ほんの一瞬だけ硬直した。いつもよりコンマ数秒だけ遅い反応。笑顔は顔に張り付いているのに、瞳の奥だけが全く笑っていなかった。

「ううん、何でもないよ……大丈夫」

少しだけトーンの落ちた声でそう答えると、彼女は一歩前に出て悠真を追い越した。「早く帰ろ! 雨降ってきそうだし」

前を歩く彼女の背中が、ひどく小さく見えた。

悠真はその『異常』を確かに見た。彼女の全身から滲み出る息苦しさを感じ取っていた。しかし、深く考えるのが苦手な彼は、それを見て見ぬふりをした。

「親とでも喧嘩したんだろ」「どうせすぐいつものアホに戻るさ」

彼女の沈黙に対して自分勝手な理由をこじつけ、踏み込むことを避け、ただ静かに彼女の背中を追いかけた。

その日を境に、光の行動は少しずつおかしさを増していった。

昼食の時、悠真と蓮が言い争っていても、彼女は何も言わず窓の外をぼんやり見つめている日があった。

昼休みに教室から姿を消し、少し目を赤くして戻ってくる日もあった。

けれど、悠真や蓮が理由を尋ねるたび、彼女は決まって同じ言葉を返した。

「目にゴミが入っちゃって。大丈夫だよ」

「昨日、深夜ドラマ見すぎちゃってさ。大丈夫、大丈夫!」

彼女の口から出る「大丈夫」は、もう以前のそれとは違っていた。世界を明るくする呪文などではなく——これ以上誰も踏み込ませないための『絶対防壁』だった。

悠真は感じていた。その冷たい壁の存在に。

それでも彼は、壁を乗り越える勇気を持てなかった。距離を保ち、彼女自身に解決させるのが最善だと思い込もうとした。「いつもの日常」が自然と戻ってくるのを、ただ待つことしかできなかった。

そして、その日はやってきた。

12月の木曜日の朝。凍てつくような冷気の中、悠真は教室に入り、自分の机に鞄を放り投げた。蓮はいつも通り本を読んでいる。クラスメイトたちは新作ゲームの話で盛り上がり、椅子を引きずる音や笑い声が響く。すべてが正常だった。

ただ一つ——悠真の隣の席が空っぽであることを除いて。

光は学校に来ていなかった。

「あいつ、また寝坊かよ」

悠真はぼやきながらスマホを開き、メッセージアプリを確認した。彼女からの連絡はない。

ホームルームのチャイムが鳴り、担任が教室に入ってきた。その顔はいつもより酷くこわばっていた。喧騒が嘘のように静まり返る。

教壇に立った担任は、持っていた書類を置き、教室を見渡した。そして、その視線は『空っぽの席』で止まった。

次の瞬間、担任の口から発せられた言葉が——悠真の人生の時計の針を、永遠に止めた。

明確な理由の説明はなかった。詳細も語られなかった。

ただ、白井 光が二度とあの席に座ることはないという、脳天をカチ割るような残酷な事実だけが告げられた。

悠真の耳はキーンと鳴り、何も聞こえなくなった。

女子生徒たちの悲鳴のような泣き声も、担任の震えるような溜息も。目の前の席で、蓮が関節が白くなるほど強く拳を握りしめていることすら、目に入らなかった。

その時、悠真にとって一番恐ろしかったのは、光の死そのものではない。

『この世界の正常さ』だった。

パニックと泣き声が収まった後、何事もなかったかのように物理の授業が始まった。

教師が教壇に立ち、黒板に電力と抵抗の計算式を書き殴る。

P = I²R

チョークが黒板を叩く音が、規則正しく響く。コツ……コツ……。

窓からはいつもと同じように冬の陽射しが差し込み、校舎の横の木に止まった鳥が鳴いている。

白井 光がこの世界から消え去ったというのに、世界はほんの少しの関心も示さず、ただ無情に回り続けている。

悠真は石像のように固まり、何も認識できないまま黒板を見つめていた。

世界は正常だ。——壊れてしまったのは、自分だけだった。

葬儀は、まるでピントの合わない悪夢のように一瞬で過ぎ去った。

悠真は自室に引きこもっていた。もう三日も学校に行っていない。

真っ暗な部屋の中、スマホの薄暗いバックライトだけが、ゲッソリと痩せこけ、腫れ上がった彼の顔を照らしている。

親指を震わせながら、彼は光とのLINEのトーク履歴を……ゆっくりと上にスクロールしていた。

何度も、何度も読み返した。

『理由』を見つけるために。

このデジタルな海にわずかに残された、彼女の『欠片』を探すために。

数ヶ月前のメッセージは、どうでもいい日常で溢れていた。

[光]:今日アイス食べ行こ! 駅前の店、割引やってるんだって!

[悠真]:だるい。歩きたくない。

[光]:じゃあ買ってきてあげるから、代わりに数学のノート写させて!笑

[悠真]:このバカ、食い意地張ってんなぁ

しかし、現在に近づくにつれ、光からのメッセージは極端に短くなっていった。連発されていたスタンプは姿を消した。

会話と会話の間に、不自然なほど長い空白が生まれるようになった。

やがて、悠真の指は『水曜日の夜』の最後のメッセージで止まった。

彼女が永遠に消えてしまう、その前夜。

時刻は、23時45分。

[光]:明日、私の物理のノート、蓮に渡しといてくれない?

[悠真]:あれ、明日来ないの?

[光]:うん、ちょっと休むね。

[悠真]:何かあった?

[光]:今日は少し疲れちゃった。でも、大丈夫だよ :)

悠真は、文末に添えられたマヌケな笑顔の顔文字 :) を凝視した。

枯れ果てたはずの涙が、再び視界を歪ませる。

あの夜の記憶が、巨大な津波となって『自己欺瞞』の壁を粉砕した。

悠真ははっきりと覚えていた。あのメッセージを見た瞬間、「疲れた」という言葉に隠された強烈なSOSのサインに、本当は気づいていたことを。

あの時、彼の指は確かにこう打ち込んでいた。

『何に疲れたんだよ? 家に行こうか? 話なら聞くぞ』

打ち終えて……送信ボタンの上に指を乗せていたのだ。

だが、彼の臆病さ、事勿れ主義、そして「まあいいか、明日になれば元に戻るだろう」という浅はかな思い込みが、その文字を一つずつ消去させた。

彼女を気遣う言葉を。彼女を暗闇から引き戻す、最後のチャンスを。

そして、代わりにこう送ったのだ。

[悠真]:そっか、ゆっくり休めよ

……そのメッセージに、既読がつくことは二度となかった。

悠真は手が白くなるほどスマホを握りしめ、もう片方の手で自身の髪を乱暴に掻き毟った。

雨の日に前を歩いていた小さな背中。焦点の合わない瞳。目の奥が死んでいたあの笑顔。すべてのピースが繋がり、最も明確で、最も残酷な答えを突きつけてくる。

光の「大丈夫」は……他人を安心させるための言葉ではなかった。

彼女の強さの証明でもなんでもなかった。

それは『声帯を潰された、絶望の悲鳴』だった。

これ以上話せば誰にも理解されないかもしれない。迷惑をかけるかもしれない。そんな恐怖からの『打ち切り線』だった。

彼女は「大丈夫」という分厚い壁を作り、そして心の底では……ずっと待っていたのだ。

誰かが——親友である自分が、その壁を力任せにぶち壊し、底知れぬ暗闇から自分を引っ張り出してくれることを。泣きながら祈っていたのだ。

なのに、悠真は愚かにもその「大丈夫」を鵜呑みにし、彼女が目の前で溺死していくのを、ただ岸辺に突っ立って眺めていた。

「ああああああああああああああああっ!!!」

喉の奥に押し殺していた嗚咽が、耐えきれずに獣のような慟哭となって部屋に響き渡った。悠真は枕に顔を押し当てて泣き叫んだ。生暖かい涙がシーツに染み込んでいく。

どうしようもない罪悪感。一生消えない後悔。そして、決してやり直すことのできない絶望的な痛みが、彼の心臓を原型を留めないほどに食い破っていく。

彼には「ごめん」と言う機会すら残されていない。

あの夜のメッセージを打ち直すチャンスは、もう二度と巡ってこない。

時間を戻す魔法もない。現実に都合のいい奇跡など起こらない。

残されたのは、彼自身が、彼女の救いの手を振り払ったという真実だけだった。

【エピローグ】

一年後。

再び春が巡り、歩道には桜の花びらが舞い散っていた。

三年生になり、制服の着こなしも少し変わった悠真は、コンビニから出てきた。彼の手には、イチゴ味の紙パック牛乳が握られている。——もうこの世界にいない誰かが、一番好きだった味。

彼は、かつて三人で並んで歩いた通学路を、ゆっくりと歩いていた。

「悠真! 遅えよ、何やってたんだよ!」

向かいの書店の前から、蓮が声を上げた。悠真が顔を上げると、大学受験用の参考書を小脇に抱えた親友が立っていた。

「ごめんごめん、レジが混んでてさ」

悠真は小走りで道路を渡り、蓮に駆け寄る。

蓮は目を細め、悠真の顔をジッと見つめた。

「……お前、顔色悪いぞ。最近、受験勉強で寝てないんじゃないのか? 無理してないか? キツいなら休めよ、強がるな」

悠真は、コンマ数秒だけピタリと足を止めた。

蓮の問いかけが頭の中で反響する。しかし、記憶の底からフラッシュバックしてきたのは、一人の少女の澄んだ笑い声だった。

彼の中で一番明るく、そして、最も深く抉られた『決して治らない傷』。

悠真はゆっくりと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

そして目を開けた時——彼は満面の笑みを浮かべていた。

完璧で、自然で、底抜けに明るくて、何の悩みもなさそうな笑顔。

それは、あの日の光からそっくりそのまま引き継いだ笑顔だった。内側にある完全な崩壊を徹底的に隠し通し、親友の蓮でさえ、その瞳の奥にある果てしない空虚に気づけないほどの——完璧な嘘。

「うん……大丈夫だよ」

悠真は、どこまでも明るい声で答えた。

そして彼は蓮に背を向け、一歩前へと歩き出す。彼をすり抜けるように、桜の花びらが春の風にさらわれていった。

……だって、僕のこの『大丈夫』も。

君がそれを言わなくなったあの日から——ずっと、壊れてしまっているのだから。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。Bagsenseiです。

胸をえぐるような、重く苦しい読後感が残ったでしょうか。

もし皆さんの心に、どうしようもないモヤモヤと痛みを残すことができたのなら、作者としてこれ以上ないほど本望です。

現実の残酷なところは、「気づいた時にはもう遅い」ということです。

ライトノベルなら、ここでタイムリープして彼女を救い出す展開になるかもしれません。しかし、悠真の生きる世界には、そんな都合のいい奇跡は起こりません。

悠真はこれから先、一生涯、光から受け継いだ「完璧な笑顔」と「大丈夫」という呪いを自らに科し、中身が完全に壊れたまま生きていくことになります。

誰にも助けを求めず、ただ独りで孤独に。

それが、光の手を手放してしまった彼に与えられた、一生終わらない罰だからです。

皆さんの周りにも、いつも笑顔で「大丈夫」と言っている人はいませんか?

その言葉の裏側で、声にならない悲鳴を上げているのかもしれません。

もし、あなたの大切な人の「大丈夫」が少しだけ変だと感じたら……その時はどうか、悠真のように手を引っ込めるのではなく、その壁を力任せにぶち壊してあげてください。

それでは、また次の物語でお会いしましょう。

――Bagsensei

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