第32話 揺れる刃
第五話 揺れる刃
セラスさんが隠れ里に来たのは、翌日の夕刻だった。
地上への出入り口で、ナギさんが出迎えた。僕とカイさんも一緒にいた。灰原の夕日が赤く、地平線に沈みかけている。影が長く伸びて、灰色の大地が橙に染まっていた。
セラスさんは一人だった。白い装束の上に灰色の外套を羽織っている。聖騎士の紋章は隠されていた。腰に剣を佩いているが、柄に手はかけていない。
「……来たか」
ナギさんが短く言った。
「ナギ。久しぶりですね」
「知っていたか」
「あなたがここにいることは——以前から」
ナギさんが薄く笑った。
「見逃してもらっていたわけだ」
セラスさんは答えなかった。視線が僕に移った。
「ユーリ。話の続きを——いえ。その前に、あなたの仲間たちに会わせてもらえますか」
カイさんが腕を組んだまま、セラスさんを見ている。敵意はない。だが、警戒は解いていない。
「会うのは構わない。だが、一つ聞かせろ。お前、本気で俺たちに協力するのか。それとも、中に入って情報だけ持ち帰るつもりか」
「それを判断するために来ました」
セラスさんの答えは率直だった。
「まだ決めていません。あなたたちの話を聞いて——それから決めます」
カイさんが僕を見た。
「……正直なのは、嫌いじゃねえよ」
カイさんがぼそりと言って、踵を返した。
隠れ里の集会場で、全員が集まった。
僕、カイさん、ミラさん、ルークさん。そしてナギさん。セラスさんは卓の端に座った。隣にはミラさんがいた。
ミラさんはセラスさんを見て、少しだけ体を固くした。聖騎士という存在への緊張だろう。ミラさんは流浪の薬師だ。神聖国家の聖騎士とは、普通は敵対する関係にある。
「初めまして。ミラです。薬師をしています」
ミラさんが丁寧に名乗った。
「セラスです。……よろしくお願いします」
セラスさんも丁寧に返した。二人の間に、微かな緊張があった。お互いを測っているような空気。でも、敵意ではなかった。
「ルークだ。罠師。遺跡の構造を専門にしている」
「存じています。あなたの名前は、反宗教国家の遺跡探索記録に何度か出てきます」
「なるほど。監視されていたか。面白い」
ルークさんが淡々と言った。
それから、僕たちはセラスさんに全てを話した。
デルガの地下遺跡で見つけたノード。ネットワークの断片。透視の覚醒。ナギさんから聞いた灰原の地下遺跡の話。神罰が自動プログラムだという推測。そして——遺跡の中に、それを止める手がかりがあるかもしれないということ。
セラスさんは黙って聞いていた。表情はほとんど動かなかった。でも、時折——指先が膝の上で微かに震えていた。
「なるほど」
全員の説明が終わった後、セラスさんが静かに言った。
「あなたたちの目的は理解しました。遺跡に入り、神罰のメカニズムを解明し、止める方法を探す。そのために、私の権限で封印を解いてほしい」
「そうです」
「それは——世界を壊すことになりかねない行為です」
セラスさんの声が低くなった。
「封印は理由があって施されています。遺跡の内部に何があるのか、私も完全には知りません。しかし——安全のために封じられたものを開けるということは」
「安全のためだったのか、それとも隠すためだったのか。それを確かめたいんです」
僕の声が、自分でも驚くほどはっきりしていた。
セラスさんが僕を見た。淡い瞳が、揺れていた。
「今夜、二人で話をさせてください」
セラスさんがそう言ったのは、食事の後だった。
隠れ里の夕食は昨日と同じく質素だった。苔の薄餅に、干した小魚を砕いたものを乗せて食べる。キノコの汁物。そして今日は、ナギさんが特別に出してくれた地下水で漬けた漬物があった。灰原に自生していた頃の根菜の種を、地下で細々と栽培しているらしい。硬くて土の味がしたが、漬物にすると酸味があって悪くなかった。
ミラさんが漬物を口に入れて、目を丸くした。
「これ、薬草に近い成分が入ってるよ。消化を助ける効果がある。地下で暮らすなら、こういう食材は貴重だね」
セラスさんは食事にほとんど手をつけなかった。薄餅を一枚と、汁物を少しだけ。カイさんがそれを見て、
「食わないと体が持たんぞ。聖騎士だからって霞食って生きてるわけじゃないだろ」
と言った。セラスさんが一瞬、目を瞬かせた。
「……ありがとうございます。少し、胃が重くて」
「緊張してんだな」
カイさんがあっさり言った。セラスさんが何か言いかけて——やめた。黙って、もう一枚薄餅を取った。
食事の後、僕はセラスさんに連れられて基地の外に出た。
灰原の夜だった。
空には星が広がっていた。魔素がゼロの環境だから、空気が澄みきっている。樹海の近くでは魔素の粒が淡く光って星を曇らせるが、ここでは違った。星の光がまっすぐ降り注いでいて、灰色の大地に薄い銀色の影を落としていた。
きれいだった。
でも、寂しい光景だった。星の光以外に、何もない。魔素の光もなければ、虫の声もない。風の音だけが、低く、遠くで鳴っている。
隠れ里の出入り口から少し離れた場所に、崩れた石壁があった。かつての建物の基礎だろう。セラスさんはその石壁に腰を下ろした。僕も隣に座った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「ユーリ」
セラスさんが口を開いた。声が、室内で聞いたときよりも柔らかかった。
「あなたに話しておきたいことがあります。私が——どういう人間なのか」
「……はい」
「私はこれまで三つの集落を処理しました」
声が低く、重かった。夜の空気に溶けていくような声だった。
「禁忌に触れた人々を——排除しました。それが私の任務でした」
排除。
その言葉の意味を、僕は知っている。ナギさんから聞いた。禁忌に触れた者を——殺す。あるいは、集落ごと滅ぼす。神聖国家が「処理」と呼ぶものの実態。
「最初の集落は、山の中の小さな村でした。鍛冶師が遺跡から金属の道具を持ち帰り、複製しようとしていた。たった一人の鍛冶師の行為でしたが——集落全体が処理対象になりました」
セラスさんの手が膝の上で握られていた。白い指が、強く、震えながら。
「二つ目の集落は、交易路沿いの宿場町でした。旅人が遺物を売り買いする市が立っていた。規模が大きくなりすぎた。禁忌に触れる遺物が組織的に流通していると判断されました」
「三つ目は」
僕が聞くと、セラスさんの声が途切れた。数秒間の沈黙があった。
「三つ目は——辺境の、小さな集落でした」
声が震えていた。普段の冷静さが、音もなく崩れていく。
「住民の一人が、遺跡から遺物を持ち帰ったと報告されました。どのような遺物かは——詳細を知らされませんでした。ただ、処理せよと命じられた」
「……」
「子供もいました」
セラスさんの声が掠れた。
「何も知らない子供が。遺物のことなど何も知らない、普通の子供たちが——集落にいた」
石壁に座ったセラスさんの肩が、小さく震えていた。銀色の髪が夜風に揺れている。星明かりの下で、セラスさんの顔は白く、影が深かった。
「処理の方法は——魔法による浄化です。集落の魔素濃度を急激に上げ、環境を書き換える。人は——耐えられません。高濃度の魔素に晒された人間の体は」
「セラスさん」
「——ごめんなさい」
セラスさんが顔を伏せた。
「こんな話を、あなたにするべきではなかった」
「いいよ。聞きたい」
僕は自分の声が静かであることに気づいた。怒りでも悲しみでもない、もっと深い場所にある何かが、胸の中にあった。
「セラスさんが話したいなら、僕は聞く。全部聞く」
セラスさんが顔を上げた。淡い瞳に、星の光が映っていた。その瞳が、濡れていた。
「なん、で……」
セラスさんの声が崩れた。聖騎士の硬い言い回しが消えて、素の声が漏れていた。
「なんであなたは、こんなことを聞いて——平気でいられるの」
「平気じゃないよ」
僕は正直に言った。
「胸が痛い。すごく痛い。でも——セラスさんの方がもっと痛いと思うから。話してほしい」
セラスさんは、しばらく黙っていた。
風が吹いた。乾いた、冷たい風だった。灰原の夜の風は、何の匂いもしない。花の香りも、土の匂いも、草の青さもない。ただ冷たいだけの風。
「……私は神に仕えてきました」
セラスさんが、ゆっくりと話し始めた。
「幼い頃から。神の光が見えた。他の子供には見えないものが、私には見えた。だから選ばれた。聖騎士として訓練を受けて——神の意思を遂行する者になった」
「神の光」
「ええ。あなたが魔素の流れを見るように。私にも、光が見えます。神の光は——温かくて、安心できるものでした。その光に導かれていれば、間違いはないと信じていた」
セラスさんの声は、穏やかだった。過去を語る声。幼い頃の自分を振り返る声。
「でも、処理のたびに——光が遠くなりました。最初の集落のとき、光は変わらずそこにあった。私が正しいことをしていると、光が教えてくれていると信じていた。二つ目のときも、そう思おうとした」
「三つ目のとき」
「三つ目のとき——光は、ありました。でも、温かくなかった。ただ、そこにあるだけだった。私を導くのでも、励ますのでもなく——ただ、プログラムのように、淡々と、そこにあった」
プログラムのように。
ナギさんの言葉と重なった。神罰は自動プログラムだ。そして——神の光も、自動的にそこにあるだけなのか。
「それ以来、私は分からなくなりました。神が私を選んだのは——私を信じたからなのか。それとも、ただ適合度が高い駒を配置しただけなのか」
セラスさんが自分の手を見た。白い手。処理に使われた手。
「この手で三つの集落を滅ぼしました。何十人もの人間を——殺しました。子供も。老人も。それは世界を守るためだと信じていた。信じなければ、正気でいられなかった」
僕は、透視を使おうとした。
癖のようなものだ。目の前の人の魔素の流れを見ようとする。でも、灰原には魔素がない。何も見えない。
だから、代わりに——セラスさんの手に、自分の手を重ねた。
セラスさんがびくりと体を揺らした。
「な——」
「ごめん。でも、僕にはここで魔素が見えないから。だから——こうすることしかできない」
セラスさんの手は冷たかった。指先が凍えるように冷たくて、微かに震えていた。
でも、触れた瞬間——ほんのかすかに、何かを感じた。セラスさんの体の中に残っている魔素。ゼロではなかった。聖騎士の体内には、高い濃度の魔素が蓄えられている。外部の魔素がなくても、体内の魔素は残っている。
その魔素が——揺れていた。
嵐のように、激しく。
「セラスさん」
「……何」
「あなたの魔素が、すごく揺れてる。泣いてるみたいに、揺れてる」
セラスさんが息を呑んだ。
「見えるの? ここで? 魔素がないのに?」
「体の中の魔素が——ほんの少しだけ。触れていると、分かる」
セラスさんの手が、僕の手を握り返してきた。強く。指が食い込むほど強く。
「……一つだけ、条件があります」
セラスさんの声が、震えながらも、はっきりと聞こえた。
「遺跡の中で——世界を壊すものを見つけたら。止めてください」
「うん」
「約束して」
「約束する」
「もし——もし遺跡の中に、神罰を加速させるもの、世界を滅ぼしかねないものがあったら——それを使うのではなく、止めると。壊すのではなく、守ると」
「約束するよ、セラスさん」
僕はセラスさんの目を見て言った。
淡い瞳が揺れていた。涙の膜が光を反射して、星空が映り込んでいた。
「……分かりました」
セラスさんが、長い息を吐いた。全身の力が抜けていくような、深い息だった。
「封印を解きます。あなたたちと——一緒に、遺跡に入ります」
「本当に?」
「ええ。——ただし」
セラスさんが姿勢を正した。声に聖騎士の硬さが少しだけ戻った。
「一時的な同行です。遺跡の調査が終わるまで。それ以降のことは——その時に考えます」
「十分です。ありがとう、セラスさん」
「お礼は——まだ早いです」
セラスさんが立ち上がった。外套の裾が風に翻った。
「明日、正式にあなたの仲間たちに伝えます。今夜は——」
セラスさんが空を見上げた。星が降るような夜空だった。
「少し、ここにいてもいいですか」
「もちろん」
二人で、崩れた石壁の上に座って、しばらく星を見た。
何も言わない時間が続いた。
風の音だけが聞こえていた。灰原の乾いた風。匂いのない風。でも、冷たさの中に——不思議と、穏やかなものがあった。
「ユーリ」
「うん」
「あなたの目は——世界がどう見えるの」
「……魔素がある場所では、光の粒が見える。空気の中を漂っていて、流れがあって——きれいだよ。樹海は特にきれい。蒼い葉の上を、光が流れている」
「きれい、か」
「うん。セラスさんの魔法も、きれいだった。灰枝で戦ったとき。回路の構成が整っていて、無駄がなくて——光が澄んでいた」
セラスさんが小さく笑った。初めて聞く、穏やかな笑い声だった。
「処理に使った魔法を、きれいだと言われたのは初めてです」
「あ——ごめん、そういう意味じゃなくて」
「分かっています。あなたは、魔法そのものを見ているのでしょう。人が何に使うかではなく——魔法の在り方を」
「……うん。たぶん、そういうこと」
「不思議な目ですね。羨ましい」
「え?」
「私の目は——神の光が見えます。でも、それが温かいものか冷たいものか、分からなくなった。あなたは、きれいなものをきれいだと——素直に見られる。それが、少し羨ましい」
セラスさんが立ち上がった。
「戻りましょう。明日は長い一日になります」
隠れ里に戻る道すがら、僕はセラスさんの言葉を反芻していた。
三つの集落を処理した。子供もいた。
辺境の、小さな集落——
何か引っかかるものがあった。でも、それが何なのか分からなかった。ただ、胸の奥で小さな棘のようなものが刺さっていた。
辺境の小さな集落。住民の一人が遺物を持ち帰った。
それだけのことで、集落ごと処理された。
ミラさんの顔が浮かんだ。ミラさんも——辺境の小さな集落の出身で、集落を失った孤児だと言っていた。
偶然だ。辺境に小さな集落は無数にある。偶然の一致にすぎない。
でも——棘は消えなかった。
翌朝、セラスさんは全員の前で宣言した。
「遺跡の封印を解除し、調査に同行します。一時的な協力です。遺跡調査が完了するまでの期間限定とします」
集会場で、僕たち全員がセラスさんの言葉を聞いた。
カイさんが腕を組んだまま、セラスさんを見ている。
「条件は?」
「一つだけ。遺跡内で世界を脅かすものを発見した場合——使うのではなく、止めてください。ユーリと約束しました」
カイさんがルークさんを見た。ルークさんが頷いた。
「俺たちの目的は真実の解明であって、兵器の開発じゃない。その条件は受け入れられる」
「……俺も異存はない」
カイさんが言った。それから、ふっと笑った。
「まさか聖騎士と組むことになるとはな。人生、分からんもんだ」
「私も——冒険者と組む日が来るとは思いませんでした」
セラスさんの声に、ほんの僅かに柔らかさがあった。
ミラさんが小さく手を挙げた。
「あの、セラスさん。私、薬師なんだけど——遺跡の中で怪我とか体調不良があったら、私が担当していいですか」
「……ありがとうございます。お願いします」
ミラさんが微笑んだ。セラスさんも——ほんの少しだけ、口元を緩めた。
二人の間の緊張が、少しだけ溶けたように見えた。
「出発は明日だ」
ナギさんが地図を広げた。
「遺跡の入口まで、灰原を横断して丸一日かかる。水と食料を十分に持て。灰原には何もないぞ。文字通り、何もない」
「ナギさんは来ないの?」
僕が聞くと、ナギさんは肩をすくめた。
「俺は戦えない。遺跡の中で足手まといになるだけだ。ここで待つ。——ただし、情報は提供する。遺跡について俺が知っている全てを、出発前に伝える」
ナギさんが僕を見た。
「帰ってきたら、何を見つけたか教えろよ。十年待った答えだ」
「……うん。必ず」
その夜、僕たちは出発の準備をした。
水袋を満たし、携行食を詰め、装備を点検した。ミラさんが薬箱の中身を広げて、止血薬と痛み止めと解毒剤の在庫を確認している。ルークさんが工具を一つ一つ布で拭いている。カイさんが剣を研いでいる。砥石の上を刃が滑る音が、規則的に響いていた。
セラスさんは壁際に座って、静かに目を閉じていた。何かを祈っているのかもしれなかった。
五人。明日から、五人で行動する。
僕とカイさんとミラさんとルークさん。そしてセラスさん。
不思議な組み合わせだと思った。冒険者と聖騎士。本来なら敵対する者同士が、同じ目的のために一つの隊を組む。
灰原の夜は静かだった。苔灯の光が、五人の影を壁に映していた。




