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蒼の樹海の魔素使い——魔法が使えない少年は、世界の秘密を視ていた  作者: 蒼月よる


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第29話 前線の聖騎士

第二話 前線の聖騎士


 それは、監視基地と呼べるほど立派なものではなかった。


 灰原の縁に、石と木材で組み上げた小さな建物が三棟。崩れた城壁の残骸を利用して壁を補強し、屋根は苔皮のテントで覆ってある。見張り台が一つ。柵が周囲を囲んでいるが、低くて簡素だ。

「神聖国家の前哨基地か。……規模が小さいな」

 ルークが目を細めた。

「駐屯してる人数は、十人以下だろう。補給路も遠い。最低限の監視拠点だな」

「監視って、何を監視してるんだ。灰原には何もないぞ」

 カイが怪訝そうに言った。

「灰原の地下遺跡だろう。誰かが入るのを見張っている」

 ルークの推測は、おそらく正しかった。


 僕たちが近づくと、見張り台の上から声が飛んだ。

「止まれ! 何者だ!」

 若い男の声だった。弓を構えている。

 カイが両手を上げた。

「冒険者だ。銀牌。敵意はない」

「冒険者がこんな場所に何の用だ」

「灰原を調査している。水と食料が少ない。話がしたいだけだ」

 しばらく間があった。見張りの男が柵の向こうの建物に向かって何か叫んだ。

 建物の扉が開いた。

 出てきた人物を見て、僕は息を止めた。


 白い装束ではなかった。灰色の外套に、動きやすい革の服。だけど——魔素の光は、見間違えようがない。

 澄んで、密度が高く、きれいに整った光。デルガの港で見たのと同じ光だ。

「セラスさん……」

 セラスが柵の前に立っていた。

 デルガの港で見たときよりも、顔色が悪い。目の下にうっすらと隈がある。髪は簡素に束ねられていて、銀に近い淡い色が灰原の灰色の風景に溶け込んでいた。

 セラスの目が僕たちを捉えた。一瞬、表情が——揺れた。驚きと、何か別のもの。

「……あなたたち」

 セラスの声は低く、硬かった。

「来てしまったんですね」

「来ましたよ。警告されたけど」

 カイが一歩前に出た。剣には手をかけていない。

「お前がここにいるってことは、灰原を監視してるのか」

「……それが、私の任務です」

 セラスが僕たちの顔を一人ずつ見た。カイ、ルーク、ミラ、そして僕。

「灰原の遺跡への接触者を排除する。それが聖騎士としての命令です」

「排除、ね」

 カイの声が低くなった。

 空気が張り詰めた。

 だけど——セラスは、武器を構えなかった。

 デルガの港でもそうだった。警告はするけれど、剣を抜かない。灰枝で初めて会ったときのセラスとは、明らかに違う。


「中に入りなさい」

 セラスが言った。

 カイが眉を上げた。ルークも驚いた顔をしている。

「排除するんじゃなかったのか」

「……水くらいは出します。あなたたちの顔色を見れば、物資が足りていないのは分かります」

 セラスが背を向けて、柵の中に歩いていった。僕たちは顔を見合わせた。

「罠か?」

 カイが小声で聞いた。

「違うと思う。魔素が穏やかだ。戦う気はない」

 僕が答えると、カイは少し考えて、頷いた。

「……行くか」


 基地の中は質素だった。


 石の建物の中に、簡易の寝台と机と椅子。壁に武具が掛けられている。明かりは小さな魔石の灯りだ。灰原では魔素が枯渇しているから、持ち込んだ魔石に頼るしかない。灯りは弱々しく、部屋の隅までは届いていなかった。

 セラスが水を出してくれた。木の椀に注がれた水は、濁りがなくてきれいだった。

「井戸が一つあります。地下水脈が辛うじて通っているので」

「ありがたい」

 カイが一口飲んで、ほっと息をついた。

 僕も水を飲んだ。灰の味がしない、きれいな水だった。基地の井戸は、僕たちが掘った応急の井戸よりもずっと深いのだろう。

 ミラが「ありがとうございます」と小さく頭を下げた。セラスはわずかに頷いただけだった。


「……この基地には、何人いるんですか」

 ルークが聞いた。

「私を含めて六人です。聖騎士は私だけで、あとは補助兵です」

「六人で灰原を監視しているのか。大変だろ」

 カイが椅子に座りながら言った。

「……大変、というほどのことではありません。灰原に来る者はほとんどいませんから」

「それなら、なんで監視基地が必要なんだ」

 セラスの口元が微かに引き結ばれた。

「……灰原の地下遺跡は、神聖国家にとって最も重要な監視対象の一つです。五十年前、この国が禁忌を犯して滅んだとき、地下遺跡は封印されました。その封印が破られないように——」

「封印を守ってるわけか」

 カイが腕を組んだ。

「で、俺たちみたいに来た奴を追い返す、と」

「追い返す、あるいは——」

 セラスが言葉を途切らせた。

「……はい。追い返します」

 排除、とは言わなかった。


 昼食の時間になった。


 セラスが基地の食事を出してくれた。配給食だ。硬パンと干し肉と水。

 硬パンは、僕たちが携行しているものと同じ二度焼きの保存パンだが、さらに硬い。日が経っているのだ。噛むと顎が痛いほどで、水に浸してやっと食べられる程度だった。

 干し肉は薄く切られていて、塩気が強い。噛むほどに味が出るけれど、量が少ない。一人分の配分が——驚くほど少なかった。

「これが一食分ですか」

 ルークが聞いた。

「……ここは補給が三十日に一度です。それまで持たせなければなりません」

 セラスの声に力がなかった。

 僕は自分の皿を見た。硬パン一切れと、干し肉二枚と、水。これが、この基地の人たちが毎日食べているものだ。

「セラスさん」

 ミラが自分の荷物を開けた。

「これ、使ってください。干し魚と、干し果実。少しだけど」

 ミラが基地の補給食の倍はある量の食料を取り出した。セラスの目が少しだけ大きくなった。

「……受け取れません」

「いいの。私たちは灰原を抜ければ食料は手に入る。ここの人たちのほうが必要でしょ」

 ミラの声は穏やかだったが、有無を言わせない強さがあった。

 セラスはしばらくミラの顔を見ていた。それから——ほんの少しだけ、表情が緩んだ。

「……ありがとう、ございます」

 その声は、聖騎士の声ではなかった。一人の若い女の声だった。


 食事の後、セラスと話をした。


 基地の外に出て、灰原を見渡せる場所に並んで座った。灰色の大地がどこまでも続いている。風が灰の粉塵を巻き上げて、低い音を立てている。

「セラスさんは、ずっとここにいるんですか」

「三か月になります」

「三か月も、こんな場所に……」

「任務ですから」

 セラスの声は平坦だったが、横顔にはどこか疲れたような影があった。

「デルガの港で——あのとき、行かないでくださいって言いましたよね」

 僕が言うと、セラスの肩がわずかに強張った。

「……言いました」

「あのときは、まだ任務として言ったんですか。それとも——」

「……分かりません」

 セラスが目を伏せた。

「分かりません。あの時、私は——何が任務で、何が自分の気持ちなのか、分からなくなっていました」

 流視で見た。セラスの体を流れる魔素の光が、また揺れている。デルガの港で見たのと同じだ。整然とした回路のような光が、微かに乱れる。

「セラスさんは、灰原の遺跡のことを知ってるんですよね」

「……ある程度は」

「五十年前に何があったのかも」

「神罰が下りました。禁忌を犯した国が、滅ぼされました。それは——正しいことだったと、教わりました」

「セラスさん自身は、そう思ってますか」

 セラスが黙った。

 長い沈黙だった。灰原の風が、二人の間を吹き抜けていった。

「……以前は、そう思っていました」

 セラスがゆっくりと口を開いた。

「禁忌を犯した者には罰が下る。それが世界の理だと。神の御意志だと。私はそれを信じて、聖騎士になりました」

「今は?」

「……分からなくなりました」

 セラスが灰原を見つめた。

「ここに来て、三か月。毎日この景色を見ています。五十年前にここにあった国の跡を。——ここに暮らしていた人たちは、全員が禁忌を犯していたわけではないはずです。子どもがいた。老人がいた。禁忌とは無関係に、ただ暮らしていた人たちがいた」

 セラスの声が微かに震えた。

「それでも、全員が罰を受けた。国ごと。一人残らず。——それが、正しいことだったのかどうか。私には、分からなくなりました」

 僕はセラスの横顔を見た。

 この人は、苦しんでいる。任務と良心の間で、信仰と目の前の現実の間で、ずっと引き裂かれている。デルガの港で装束を脱いで警告に来たときも。今、灰原の監視基地に一人で立っているときも。

「……セラスさん」

「はい」

「一緒に遺跡を見に行きませんか」

 セラスが振り向いた。目が大きく見開かれていた。

「何を——」

「僕の目で見れば、遺跡の中に何があるか分かるかもしれない。五十年前にこの国が何をしていたのかも。セラスさんが知りたいことの答えが、そこにあるかもしれない」

 セラスの目が揺れた。淡い色の瞳に、何かが渦巻いている。

「……遺跡に行くことは、禁忌です」

「僕たちはどっちにしろ行きます。セラスさんがいてくれたら、封印のことも分かる。お互いに得るものがあるはずです」

 セラスが唇を噛んだ。

 長い、長い沈黙。

「……答えられません」

 セラスが立ち上がった。

「今は、答えられません」

 その声は、拒絶ではなかった。答えを出せない、という苦しみの声だった。

 セラスは建物の中に戻っていった。


 カイとルークとミラに、セラスとの会話を伝えた。


「なるほど。排除する気がないのは確かだな」

 ルークが顎に手を当てた。

「聖騎士が任務を疑い始めている。これは——我々にとって好都合だ。だが、焦らないほうがいい」

「焦らすのも危ないだろ。いつ本国から増援が来るか分からんぞ」

 カイが言った。

「増援は来ないだろう。この基地の補給間隔と規模を見る限り、神聖国家はこの基地をそれほど重視していない。灰原の遺跡は封印されていて、普通の人間が来ても開けられない。だからこそ、最低限の監視で済ませている」

「でも、僕たちは普通じゃない」

 僕が言うと、ルークが微かに笑った。

「そうだな。お前の目がある。透視で封印の構造が見える可能性がある。そしてセラスには、封印を解く権限がある。この二つが揃えば——」

「遺跡に入れるってことか」

 カイが口笛を吹いた。

「セラスさんの気持ちが固まるまで、待ったほうがいいよ」

 ミラが静かに言った。

「無理に連れ出しても、途中で心が折れたら危ない。あの人は——すごく真面目な人だから。自分で納得しないと動けないタイプだと思う」

 ミラの言葉は、セラスのことをよく見ていた。


 その夜、基地に泊めてもらった。


 狭い部屋だったが、灰原の野営よりずっとましだった。壁があるだけで風が防げる。魔石の灯りがあるだけで、心が落ち着く。

 夕食は、基地の配給食と僕たちの携行食を合わせて食べた。

 ミラがデルガで買った干し魚を水で戻して、少しの干し果実と一緒に硬パンに載せた。それだけで、硬パンと干し肉だけの食事が別物になった。干し魚の塩気と干し果実の甘味が混ざって、噛むほどに味わいがある。

「……美味しい」

 補助兵の一人が、小さな声で言った。若い男だった。基地に来て二か月になるという。配給食に飽き飽きしていたのだろう。目を見開いて、干し魚を噛みしめていた。

「でしょ? 干し魚は水で戻してからのほうが美味しいの。そのまま齧るより、ずっと柔らかくなるよ」

 ミラが笑った。

 セラスは自分の分を静かに食べていた。表情は変わらないが、硬パンに干し魚を載せたものを、いつもより少しだけゆっくり噛んでいるように見えた。


 食後、僕は基地の外に出た。


 星空の下に立って、灰原を見つめた。暗闇の中に、何も見えない。魔素の光もない。ただ暗い大地が広がっている。

 足音がして、振り返った。セラスだった。

「……夜気に当たりに来ただけです。邪魔するつもりはありません」

「邪魔じゃないです」

 二人で並んで、星空を見上げた。

 しばらく、何も言わなかった。

「……ユーリさん」

 セラスが僕の名前を呼んだ。初めてだった。今まで「あなた」としか呼ばなかったセラスが、名前を。

「はい」

「あなたの目には、この場所はどう見えますか」

「……真っ暗です。何もない。魔素が一粒もない」

「死の大地ですね」

「うん。でも——地下には水がある。深いけど、確かにある。地上は死んでいるけど、地下にはまだ何かが残ってる」

 セラスが僕の方を見た。

「……遺跡も、そうだと?」

「分からない。でも、ノードの地図にはこの場所にも光の点があった。地下に何かがある。それを見てみたい」

 セラスは前を向いた。

 風が吹いた。灰の粉塵が、星明かりの中をかすかに舞った。

「……考えさせてください」

 セラスがそう言って、建物の中に戻った。

 僕はもう少しだけ外に立っていた。灰原の闇の中に、何かを探すように目を凝らした。でも、何も見えなかった。透視を使えば、地下の何かが見えるかもしれない。だけど、今は使わない。体力を温存する必要がある。

 明日また、セラスと話そう。

 焦らずに。ミラが言ったとおりに。

 建物に戻って、寝袋に潜り込んだ。灰の匂いの中に、干し魚の残り香がほんのわずかに混じっていた。


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