第28話 灰の海
第一話 灰の海
船を下りたのは、アシュベルという小さな港町だった。
デルガの賑わいとは比べものにならない。桟橋は木の板を渡しただけの簡素なもので、停泊している船も三隻しかない。港に面した通りには干し魚を並べた露店がぽつぽつとあるだけで、人の姿もまばらだった。
潮の匂いに、どこか埃っぽい乾いた風が混じっている。
「灰原に近いだけあるな。空気が違う」
カイが船から荷を下ろしながら言った。
「……うん。魔素も、薄い」
粒視で周囲を見た。デルガの港では大気に満ちていた魔素の粒が、ここではずいぶん少ない。風に乗って流れてくる粒もあるが、密度が低くて、光がまばらだ。
「灰原に近づくほど薄くなるんだろうな。面白い」
ルークが眼鏡の位置を直しながら、港の向こうに広がる大地を見つめた。地平線の手前に、灰色の荒野がうっすらと見えている。
「あれが灰原?」
ミラが目を細めた。
「いや、まだ手前だ。灰原の入口まであと二日は歩く」
カイが地図を広げた。アシュベルから北西に街道が一本伸びていて、その先で道は途切れている。街道の終点から先が灰原だ。
アシュベルで一泊した。
宿は港の通りに一軒だけあった。壁が薄くて、隣の部屋の寝息が聞こえるような安宿だが、船旅の後では陸の上で眠れるだけでありがたかった。
夕食は宿の食堂で取った。出てきたのは、硬パンと芋の煮込みと、塩漬けの川魚だった。
芋の煮込みは悪くなかった。灰がかった芋が柔らかく煮崩れていて、塩と少しの獣脂で味がついている。素朴だけど、温かい。
塩漬けの川魚は、デルガの焼き魚と比べると——比べてはいけないと思った。身が硬くて、塩がきつくて、デルガの白身魚のふわふわとした食感が恋しくなる。
「この辺りは海の魚が少ないんだ。川の魚を塩漬けにして保存してるんだろう」
カイが硬パンで芋の煮込みを掬いながら言った。
「灰原に入ったら、これすら食べられなくなるかもしれないぞ。今のうちに腹に入れとけ」
「ユーリくん、干し果実食べる? 船で買った分がまだ残ってるよ」
ミラが革袋から干し果実を出してくれた。甘酸っぱい味が口の中に広がって、少しだけ気分が明るくなった。
翌朝、アシュベルを出発した。
街道を北西に歩く。最初のうちは道の両脇にまばらな草が生えていたが、半日も歩くと草はなくなった。地面が灰色に変わっていく。土の色ではない。焼けた後のような、粉っぽい灰色だ。
流視で魔素の流れを見た。
風に乗って南から流れてくる魔素の粒が、ある線を境にぱたりと途絶えていた。まるで見えない壁があるかのように、魔素がそこから先に入っていかない。
「……ここから先、魔素がほとんどない」
「なるほど。魔素の死地か」
ルークが足元の灰色の地面をつま先で軽く蹴った。乾いた音がした。
「五十年前の神罰で、この一帯の魔素は完全に枯渇したということだな。土壌の中のものも含めて」
「五十年経っても戻らないの?」
ミラが声を低くした。
「普通は戻る。樹海の植生が広がって、魔素が供給されて、少しずつ回復するはずだ。だが灰原は違う。何かが魔素の流入そのものを阻んでいるように見える」
ルークの目が細くなった。
灰原に足を踏み入れた。
最初に気づいたのは、音がないことだった。
虫の声がない。鳥の声がない。風が吹いても葉擦れの音がしない。葉がないからだ。木がないからだ。
乾いた風の音だけが、低く、単調に鳴っている。
地面は灰色の粉塵に覆われていた。歩くたびに足元から粉が舞い上がる。口と鼻を布で覆った。ミラが全員に布を配ってくれていた。
「これ、灰なの?」
「灰というか……植物が炭化して、さらに風化したものだろう。五十年分の」
ルークが地面から一掴みの灰を取って、指の間からさらさらと落とした。
「この一帯を覆っていた植生が一度暴走して、その後全てが枯れ、崩壊し、風化した。それがこの灰だ」
粒視で見た。
何もなかった。
魔素の粒が、本当に何もない。アシュベルですら薄いながらも漂っていた光の粒が、ここには一つもない。僕が生まれてから一度も見たことがない光景だった。目を開けているのに、魔素の層だけが真っ暗だ。
——死んでいる。
この大地は、死んでいる。
「ユーリくん、大丈夫?」
ミラが僕の袖を引いた。僕の顔色が変わっていたのだろう。
「……うん。大丈夫。ただ——何も見えない。魔素が、本当にゼロだ」
「ゼロ?」
カイが振り返った。
「辺境でも、樹海の外でも、少しは魔素がある。でもここは——何もない。こんなの、初めてだ」
カイが眉を寄せた。
「……それほどの力で叩いたってことか」
誰も答えなかった。
歩き続けた。
一時間ほど進むと、地面に変化が現れた。
灰の中から、何かが突き出ている。石の塊——いや、違う。壁だ。崩れた壁の一部が、灰の中に埋もれている。
カイが先に進んで、壁に手を触れた。
「……石積みだ。切り出した石を組んである。建物の基礎だろう」
そこからは、廃墟の痕跡が次々と現れた。
崩れた城壁の一部。焼けた石材が黒く変色している。道の跡——石畳が灰の下に埋もれていて、歩くと足裏に硬い感触がある。建物の基礎が、整然と並んでいる。かつての区画割りがそのまま残っていた。
「……町だったんだ」
僕は呟いた。
ここに、人が暮らしていた。建物があって、道があって、城壁があった。市場があったかもしれない。食堂があったかもしれない。子どもが走り回っていたかもしれない。
今は全部、灰の中だ。
「なるほど。規模から見て、かなりの都市だったようだな」
ルークが崩れた城壁の断面を観察していた。
「石の積み方が精密だ。技術力のある国だったんだろう。城壁の厚さからして、それなりの防衛力も備えていた」
「それでも、神罰には勝てなかった」
カイが低い声で言った。
「……酷いもんだな」
カイの声にはいつもの軽さがなかった。神罰なんて迷信だろと笑っていたカイが、目の前の光景に圧倒されている。僕たちは全員、黙って廃墟の間を歩いた。
日が傾き始めた。
野営の場所を探した。灰原には木がないから、風を遮るものがない。崩れた建物の基礎の影——かろうじて壁が残っている場所を見つけて、そこに陣を張った。
火を起こすのに苦労した。燃やすものがない。枯れ木も枯れ草もない。結局、アシュベルで買い込んでおいた薪を使った。貴重な薪だ。灰原を抜けるまで節約しなければならない。
「水は?」
カイが革水筒を振った。中身の音が少ない。
「携行分があと三日分。灰原のどこかに地下水脈があるはずだけど、地表からは分からない」
ルークが答えた。
「透視で見えるか? ユーリ」
「……試してみる」
透視を使った。壁越しに回路を見るための力だけど、地面の下を見ることもできるかもしれない。
目を凝らした。地面の下——灰と土の層を透かして、さらに深くへ。
体力が吸い取られていくのが分かった。頭の奥がじんじんと痛む。でも、見えた。
「……深い。すごく深いところに、水がある。たぶん、二十歩分くらい下」
「二十歩分か。掘るには深すぎるな」
カイが腕を組んだ。
「今日は携行分で凌ぐ。明日、浅い水脈を探そう」
僕は透視を解いた。頭痛がじわりと残る。ミラがすぐに水を差し出してくれた。
「無理しないで。水は今あるぶんで足りるから」
ミラの声が優しかった。
夕食は携行食だった。
硬パンと干し肉。それだけだ。
硬パンをナイフで薄く削って、干し肉と一緒に口に入れる。噛むほどに干し肉から塩味と旨味が出て、硬パンが柔らかくなっていく。これはカイに教わった食べ方だ。
「デルガで買った干し魚、出そうか」
ミラが荷物を探った。
「まだ早い。干し魚はもう少し先で食べよう。灰原を抜けるまでどれくらいかかるか分からないんだ」
カイが首を振った。
「食料の管理は慎重にやる。水もだ。一日の配分を決めておこう」
「……うん」
ミラが頷いた。薬草も生えないこの土地では、ミラの薬師としての知識も活かしようがない。ミラはそれが一番堪えているようだった。
「ここでは薬草も生えない……」
ミラが灰色の地面を見つめて呟いた。いつもなら道端の草を見つけては「これは薬になるの」と教えてくれるミラが、何も見つけられない。
「灰原を抜ければ、また薬草はあるさ」
カイが言った。
「それまでは、お前の薬箱の中身で足りる。大丈夫だ」
ミラが小さく笑った。強がりだと分かったけど、それでもカイの言葉がありがたかった。
食事の後、火の番をしながら空を見上げた。
星が見えた。
灰原の空は澄んでいた。魔素がないからだ。樹海の近くでは大気中の魔素が光を散乱させて、夜空が微かに青みがかって見える。でもここでは、魔素の干渉がない。純粋な闇の中に、星だけが白く光っている。
きれいだと思った。
死の大地の上に、こんなにきれいな空がある。
「ユーリ、交代は深夜だ。先に寝ろ」
カイが火に薪を足しながら言った。
「……うん」
寝袋に入った。灰の匂いがする。乾いた、埃っぽい匂い。潮の匂いも、樹海の青い葉の匂いも、ここにはない。
翌日も、歩いた。
廃墟の規模は、奥に進むほど大きくなった。
崩れた橋の残骸。大きな建物の基礎——おそらく公共の建築物だったのだろう、柱の跡が等間隔に並んでいる。広場だったらしい空間。中央に台座の痕跡があった。像でも立っていたのかもしれない。
全てが灰に覆われ、風化し、崩れかけている。五十年という時間が、国の痕跡を消し去ろうとしている。
「ルークさん、この国って、何をやって神罰を受けたの?」
ミラが歩きながら聞いた。
「遺跡から持ち出した遺物を、国家規模で利用し始めた——というのが通説だな」
ルークが答えた。
「個人が遺物を使う程度では神罰は起きない。だが、国として組織的に遺物を集め、技術を再現しようとした。それが禁忌の線を越えた」
「技術を再現って、たとえば何?」
「分からない。記録が残っていない。この国の人間はほぼ全員が死んだか散り散りになったから、何を作ろうとしていたのかを知る者はいない」
ルークが廃墟を見回した。
「だが、城壁の精度から見て、この国は石工技術に優れていた。遺物の技術を加えれば、かなりの建造物を作れたはずだ。灯台か、水路か、あるいは——」
「遺物を使った兵器か」
カイが低い声で言った。
「それもありえる」
ルークが頷いた。
「いずれにせよ、結末は同じだ。神罰が下って、全てが消えた」
僕たちは黙って歩いた。足元の石畳が時折、灰の下から現れる。五十年前には、ここを人が歩いていた。買い物をしたり、子どもを連れて散歩したり、誰かと笑い合ったりしていた。
その全てが、一夜で消えた。
二日目の午後、僕は透視でもう一度、地下を見た。
水を探すためだ。携行分の水が減ってきている。
目を凝らす。頭が痛む。視界がぼやける。でも——見えた。
地面の下、十歩分くらいの深さに、水の流れがあった。昨日より浅い。
「あっちの方角に、浅い水脈がある。十歩分くらいの深さ」
「十歩分か。掘れるかもしれないな」
カイが周囲を見回した。廃墟の中に、井戸の痕跡があった。石を丸く積んだ構造——かつての井戸の縁だ。中は灰で埋まっているが、ここを掘れば水脈に届くかもしれない。
四人で灰を掻き出した。灰の下に石積みがあり、その下に土があった。土を掘るのは大変だったが、カイとルークが交代で掘り進めて、やがて——湿った土が出てきた。
「水だ」
カイが声を上げた。
じわりと水が滲み出てきた。濁った水だったが、ミラが布で濾して、煮沸すれば飲めると言った。
「……この井戸、五十年前の人たちも使っていたのかな」
僕は井戸の縁石に手を触れた。手のひらに、石の冷たさが伝わる。
誰かがこの石を積んだ。誰かがこの井戸で水を汲んだ。その人たちは、今はもういない。
「考えすぎるなよ」
カイが僕の肩を叩いた。
「生きてる俺たちが水を飲む。それでいい」
水を革水筒に移した。煮沸して冷ました水は、少し灰の味がした。でも、喉を潤すには十分だった。
三日目の朝、地平線の向こうに何かが見えた。
灰色の大地が続く中に、わずかに色の違う一帯がある。灰原の縁だ。灰原を囲むように、植生が——ごく薄い、枯れかけた草のようなものが——地面に張り付いている。
「灰原の端が見えてきたか」
カイが言った。
「いや、端じゃない。灰原の内側に、何かがある」
ルークが遠くを見つめていた。
「建物だ。灰原の縁に——建物がある」
目を凝らした。流視で見ると——遠くに、わずかだが魔素の光が見えた。灰原の中に、光がある。人がいる気配だ。
「……あっちに、魔素がある。すごく薄いけど——人の気配かもしれない」
「灰原に人?」
ミラが驚いた声を上げた。
「行ってみよう」
カイが剣の柄に手を当てた。
「味方か敵かは分からん。だが、灰原の中で人に会えるなら、情報が手に入るかもしれない」
僕たちは、その光に向かって歩き始めた。
灰の大地が続いている。足元から舞い上がる粉塵が、布越しに喉を刺す。水が少しずつ減っていく。食料も。
それでも、前に進んだ。
灰原は死んでいる。でも、その先に何かがある。ノードの地図に光っていた点が、この大地の下にある。五十年前に全てを奪った神罰の跡地に、まだ何かが眠っている。
僕はそれを、見に行く。




