表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蒼の樹海の魔素使い——魔法が使えない少年は、世界の秘密を視ていた  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

28/31

第28話 灰の海

第一話 灰の海


 船を下りたのは、アシュベルという小さな港町だった。


 デルガの賑わいとは比べものにならない。桟橋は木の板を渡しただけの簡素なもので、停泊している船も三隻しかない。港に面した通りには干し魚を並べた露店がぽつぽつとあるだけで、人の姿もまばらだった。

 潮の匂いに、どこか埃っぽい乾いた風が混じっている。

「灰原に近いだけあるな。空気が違う」

 カイが船から荷を下ろしながら言った。

「……うん。魔素も、薄い」

 粒視で周囲を見た。デルガの港では大気に満ちていた魔素の粒が、ここではずいぶん少ない。風に乗って流れてくる粒もあるが、密度が低くて、光がまばらだ。

「灰原に近づくほど薄くなるんだろうな。面白い」

 ルークが眼鏡の位置を直しながら、港の向こうに広がる大地を見つめた。地平線の手前に、灰色の荒野がうっすらと見えている。

「あれが灰原?」

 ミラが目を細めた。

「いや、まだ手前だ。灰原の入口まであと二日は歩く」

 カイが地図を広げた。アシュベルから北西に街道が一本伸びていて、その先で道は途切れている。街道の終点から先が灰原だ。


 アシュベルで一泊した。


 宿は港の通りに一軒だけあった。壁が薄くて、隣の部屋の寝息が聞こえるような安宿だが、船旅の後では陸の上で眠れるだけでありがたかった。

 夕食は宿の食堂で取った。出てきたのは、硬パンと芋の煮込みと、塩漬けの川魚だった。

 芋の煮込みは悪くなかった。灰がかった芋が柔らかく煮崩れていて、塩と少しの獣脂で味がついている。素朴だけど、温かい。

 塩漬けの川魚は、デルガの焼き魚と比べると——比べてはいけないと思った。身が硬くて、塩がきつくて、デルガの白身魚のふわふわとした食感が恋しくなる。

「この辺りは海の魚が少ないんだ。川の魚を塩漬けにして保存してるんだろう」

 カイが硬パンで芋の煮込みを掬いながら言った。

「灰原に入ったら、これすら食べられなくなるかもしれないぞ。今のうちに腹に入れとけ」

「ユーリくん、干し果実食べる? 船で買った分がまだ残ってるよ」

 ミラが革袋から干し果実を出してくれた。甘酸っぱい味が口の中に広がって、少しだけ気分が明るくなった。


 翌朝、アシュベルを出発した。


 街道を北西に歩く。最初のうちは道の両脇にまばらな草が生えていたが、半日も歩くと草はなくなった。地面が灰色に変わっていく。土の色ではない。焼けた後のような、粉っぽい灰色だ。

 流視で魔素の流れを見た。

 風に乗って南から流れてくる魔素の粒が、ある線を境にぱたりと途絶えていた。まるで見えない壁があるかのように、魔素がそこから先に入っていかない。

「……ここから先、魔素がほとんどない」

「なるほど。魔素の死地か」

 ルークが足元の灰色の地面をつま先で軽く蹴った。乾いた音がした。

「五十年前の神罰で、この一帯の魔素は完全に枯渇したということだな。土壌の中のものも含めて」

「五十年経っても戻らないの?」

 ミラが声を低くした。

「普通は戻る。樹海の植生が広がって、魔素が供給されて、少しずつ回復するはずだ。だが灰原は違う。何かが魔素の流入そのものを阻んでいるように見える」

 ルークの目が細くなった。


 灰原に足を踏み入れた。


 最初に気づいたのは、音がないことだった。

 虫の声がない。鳥の声がない。風が吹いても葉擦れの音がしない。葉がないからだ。木がないからだ。

 乾いた風の音だけが、低く、単調に鳴っている。

 地面は灰色の粉塵に覆われていた。歩くたびに足元から粉が舞い上がる。口と鼻を布で覆った。ミラが全員に布を配ってくれていた。

「これ、灰なの?」

「灰というか……植物が炭化して、さらに風化したものだろう。五十年分の」

 ルークが地面から一掴みの灰を取って、指の間からさらさらと落とした。

「この一帯を覆っていた植生が一度暴走して、その後全てが枯れ、崩壊し、風化した。それがこの灰だ」

 粒視で見た。

 何もなかった。

 魔素の粒が、本当に何もない。アシュベルですら薄いながらも漂っていた光の粒が、ここには一つもない。僕が生まれてから一度も見たことがない光景だった。目を開けているのに、魔素の層だけが真っ暗だ。

 ——死んでいる。

 この大地は、死んでいる。

「ユーリくん、大丈夫?」

 ミラが僕の袖を引いた。僕の顔色が変わっていたのだろう。

「……うん。大丈夫。ただ——何も見えない。魔素が、本当にゼロだ」

「ゼロ?」

 カイが振り返った。

「辺境でも、樹海の外でも、少しは魔素がある。でもここは——何もない。こんなの、初めてだ」

 カイが眉を寄せた。

「……それほどの力で叩いたってことか」

 誰も答えなかった。


 歩き続けた。


 一時間ほど進むと、地面に変化が現れた。

 灰の中から、何かが突き出ている。石の塊——いや、違う。壁だ。崩れた壁の一部が、灰の中に埋もれている。

 カイが先に進んで、壁に手を触れた。

「……石積みだ。切り出した石を組んである。建物の基礎だろう」

 そこからは、廃墟の痕跡が次々と現れた。

 崩れた城壁の一部。焼けた石材が黒く変色している。道の跡——石畳が灰の下に埋もれていて、歩くと足裏に硬い感触がある。建物の基礎が、整然と並んでいる。かつての区画割りがそのまま残っていた。

「……町だったんだ」

 僕は呟いた。

 ここに、人が暮らしていた。建物があって、道があって、城壁があった。市場があったかもしれない。食堂があったかもしれない。子どもが走り回っていたかもしれない。

 今は全部、灰の中だ。

「なるほど。規模から見て、かなりの都市だったようだな」

 ルークが崩れた城壁の断面を観察していた。

「石の積み方が精密だ。技術力のある国だったんだろう。城壁の厚さからして、それなりの防衛力も備えていた」

「それでも、神罰には勝てなかった」

 カイが低い声で言った。

「……酷いもんだな」

 カイの声にはいつもの軽さがなかった。神罰なんて迷信だろと笑っていたカイが、目の前の光景に圧倒されている。僕たちは全員、黙って廃墟の間を歩いた。


 日が傾き始めた。


 野営の場所を探した。灰原には木がないから、風を遮るものがない。崩れた建物の基礎の影——かろうじて壁が残っている場所を見つけて、そこに陣を張った。

 火を起こすのに苦労した。燃やすものがない。枯れ木も枯れ草もない。結局、アシュベルで買い込んでおいた薪を使った。貴重な薪だ。灰原を抜けるまで節約しなければならない。

「水は?」

 カイが革水筒を振った。中身の音が少ない。

「携行分があと三日分。灰原のどこかに地下水脈があるはずだけど、地表からは分からない」

 ルークが答えた。

「透視で見えるか? ユーリ」

「……試してみる」

 透視を使った。壁越しに回路を見るための力だけど、地面の下を見ることもできるかもしれない。

 目を凝らした。地面の下——灰と土の層を透かして、さらに深くへ。

 体力が吸い取られていくのが分かった。頭の奥がじんじんと痛む。でも、見えた。

「……深い。すごく深いところに、水がある。たぶん、二十歩分くらい下」

「二十歩分か。掘るには深すぎるな」

 カイが腕を組んだ。

「今日は携行分で凌ぐ。明日、浅い水脈を探そう」

 僕は透視を解いた。頭痛がじわりと残る。ミラがすぐに水を差し出してくれた。

「無理しないで。水は今あるぶんで足りるから」

 ミラの声が優しかった。


 夕食は携行食だった。


 硬パンと干し肉。それだけだ。

 硬パンをナイフで薄く削って、干し肉と一緒に口に入れる。噛むほどに干し肉から塩味と旨味が出て、硬パンが柔らかくなっていく。これはカイに教わった食べ方だ。

「デルガで買った干し魚、出そうか」

 ミラが荷物を探った。

「まだ早い。干し魚はもう少し先で食べよう。灰原を抜けるまでどれくらいかかるか分からないんだ」

 カイが首を振った。

「食料の管理は慎重にやる。水もだ。一日の配分を決めておこう」

「……うん」

 ミラが頷いた。薬草も生えないこの土地では、ミラの薬師としての知識も活かしようがない。ミラはそれが一番堪えているようだった。

「ここでは薬草も生えない……」

 ミラが灰色の地面を見つめて呟いた。いつもなら道端の草を見つけては「これは薬になるの」と教えてくれるミラが、何も見つけられない。

「灰原を抜ければ、また薬草はあるさ」

 カイが言った。

「それまでは、お前の薬箱の中身で足りる。大丈夫だ」

 ミラが小さく笑った。強がりだと分かったけど、それでもカイの言葉がありがたかった。


 食事の後、火の番をしながら空を見上げた。


 星が見えた。

 灰原の空は澄んでいた。魔素がないからだ。樹海の近くでは大気中の魔素が光を散乱させて、夜空が微かに青みがかって見える。でもここでは、魔素の干渉がない。純粋な闇の中に、星だけが白く光っている。

 きれいだと思った。

 死の大地の上に、こんなにきれいな空がある。

「ユーリ、交代は深夜だ。先に寝ろ」

 カイが火に薪を足しながら言った。

「……うん」

 寝袋に入った。灰の匂いがする。乾いた、埃っぽい匂い。潮の匂いも、樹海の青い葉の匂いも、ここにはない。


 翌日も、歩いた。


 廃墟の規模は、奥に進むほど大きくなった。

 崩れた橋の残骸。大きな建物の基礎——おそらく公共の建築物だったのだろう、柱の跡が等間隔に並んでいる。広場だったらしい空間。中央に台座の痕跡があった。像でも立っていたのかもしれない。

 全てが灰に覆われ、風化し、崩れかけている。五十年という時間が、国の痕跡を消し去ろうとしている。

「ルークさん、この国って、何をやって神罰を受けたの?」

 ミラが歩きながら聞いた。

「遺跡から持ち出した遺物を、国家規模で利用し始めた——というのが通説だな」

 ルークが答えた。

「個人が遺物を使う程度では神罰は起きない。だが、国として組織的に遺物を集め、技術を再現しようとした。それが禁忌の線を越えた」

「技術を再現って、たとえば何?」

「分からない。記録が残っていない。この国の人間はほぼ全員が死んだか散り散りになったから、何を作ろうとしていたのかを知る者はいない」

 ルークが廃墟を見回した。

「だが、城壁の精度から見て、この国は石工技術に優れていた。遺物の技術を加えれば、かなりの建造物を作れたはずだ。灯台か、水路か、あるいは——」

「遺物を使った兵器か」

 カイが低い声で言った。

「それもありえる」

 ルークが頷いた。

「いずれにせよ、結末は同じだ。神罰が下って、全てが消えた」

 僕たちは黙って歩いた。足元の石畳が時折、灰の下から現れる。五十年前には、ここを人が歩いていた。買い物をしたり、子どもを連れて散歩したり、誰かと笑い合ったりしていた。

 その全てが、一夜で消えた。


 二日目の午後、僕は透視でもう一度、地下を見た。


 水を探すためだ。携行分の水が減ってきている。

 目を凝らす。頭が痛む。視界がぼやける。でも——見えた。

 地面の下、十歩分くらいの深さに、水の流れがあった。昨日より浅い。

「あっちの方角に、浅い水脈がある。十歩分くらいの深さ」

「十歩分か。掘れるかもしれないな」

 カイが周囲を見回した。廃墟の中に、井戸の痕跡があった。石を丸く積んだ構造——かつての井戸の縁だ。中は灰で埋まっているが、ここを掘れば水脈に届くかもしれない。

 四人で灰を掻き出した。灰の下に石積みがあり、その下に土があった。土を掘るのは大変だったが、カイとルークが交代で掘り進めて、やがて——湿った土が出てきた。

「水だ」

 カイが声を上げた。

 じわりと水が滲み出てきた。濁った水だったが、ミラが布で濾して、煮沸すれば飲めると言った。

「……この井戸、五十年前の人たちも使っていたのかな」

 僕は井戸の縁石に手を触れた。手のひらに、石の冷たさが伝わる。

 誰かがこの石を積んだ。誰かがこの井戸で水を汲んだ。その人たちは、今はもういない。

「考えすぎるなよ」

 カイが僕の肩を叩いた。

「生きてる俺たちが水を飲む。それでいい」

 水を革水筒に移した。煮沸して冷ました水は、少し灰の味がした。でも、喉を潤すには十分だった。


 三日目の朝、地平線の向こうに何かが見えた。


 灰色の大地が続く中に、わずかに色の違う一帯がある。灰原の縁だ。灰原を囲むように、植生が——ごく薄い、枯れかけた草のようなものが——地面に張り付いている。

「灰原の端が見えてきたか」

 カイが言った。

「いや、端じゃない。灰原の内側に、何かがある」

 ルークが遠くを見つめていた。

「建物だ。灰原の縁に——建物がある」

 目を凝らした。流視で見ると——遠くに、わずかだが魔素の光が見えた。灰原の中に、光がある。人がいる気配だ。

「……あっちに、魔素がある。すごく薄いけど——人の気配かもしれない」

「灰原に人?」

 ミラが驚いた声を上げた。

「行ってみよう」

 カイが剣の柄に手を当てた。

「味方か敵かは分からん。だが、灰原の中で人に会えるなら、情報が手に入るかもしれない」

 僕たちは、その光に向かって歩き始めた。


 灰の大地が続いている。足元から舞い上がる粉塵が、布越しに喉を刺す。水が少しずつ減っていく。食料も。

 それでも、前に進んだ。

 灰原は死んでいる。でも、その先に何かがある。ノードの地図に光っていた点が、この大地の下にある。五十年前に全てを奪った神罰の跡地に、まだ何かが眠っている。

 僕はそれを、見に行く。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ