第27話 出港の朝
第十三話 出港の朝
出発の朝は、快晴だった。
目を覚ますと、窓の外にデルガの朝焼けが広がっていた。雲ひとつない空が、港の向こうで茜色に染まっている。潮の匂いが部屋に流れ込んで、僕はしばらくそのまま寝台に横になっていた。
今日、この街を離れる。
デルガに来てから、たくさんのことがあった。遺跡に潜り、街を歩き、紋視が使えるようになって、透視に覚醒して——目の前の世界は、辺境にいた頃とは比べものにならないほど広がっている。
でも、まだ足りない。楔という名前が、頭の中で静かに響き続けていた。
「おい、いつまで寝てんだ。今日は忙しいぞ」
カイの声で起き上がった。すでに身支度を済ませたカイが、扉の前に立っている。
「……うん、起きてる」
「飯食ったら、ギルドに寄る。それから工房、市場、港の順だ。船は午後の潮で出る」
カイの声がいつもより弾んでいた。新しい場所に向かう朝は、どんな依頼よりも心が躍るものらしい。
宿の食堂で朝食を取った。
デルガ最後の朝食は、焼き魚と硬パンと、芋の温かいスープだった。焼き魚は港で毎朝揚がる白身の魚で、皮がぱりっと焼けて、身はふわふわと柔らかい。塩だけなのに脂がじんわりと甘い。この味が恋しくなるだろうと分かっている。
「ユーリくん、これも食べなよ。船に乗ったらしばらくまともな魚は食べられないかもしれないから」
ミラが自分の皿から焼き魚を一切れ分けてくれた。
「ミラさんのぶんは?」
「私は朝からそんなに食べないの。ほら、食べて食べて」
ミラは笑いながら、硬パンをスープに浸して齧った。
食後、四人でギルドに向かった。
カイの名前を告げると、奥の事務室に通された。副長のグレイスが机の向こうに座っていた。白髪交じりの厳めしい顔だが、カイを見る目にはどこか温かいものがあった。
「カイ。銀牌4への昇格審査の結果が出た」
グレイスが書類を広げた。
「デルガ地下遺跡における苔巨人の討伐。下位守護者の撃破。ノード区画の踏破と報告。加えて、港湾復旧作業への貢献——いずれも銀牌5の範囲を超える実績として認定された」
カイが微かに息を吸った。表情は変わらないが、背筋がわずかに伸びたのが分かった。
「よって、本日付でカイを銀牌4に昇格とする。牌を出せ」
カイが腰の銀牌を外してグレイスに渡した。グレイスがそれを受け取り、新しい銀牌——以前のものより細かい彫刻が入った、等級の高い牌を差し出した。
「おめでとうさん。デルガの下水道にいたガキが銀牌4か。大したもんだ」
グレイスの口元がかすかに緩んだ。カイの過去を知っているのだろう。
「……ありがとうございます」
カイが頭を下げた。珍しく、照れ臭そうだった。
ギルドの受付を出たとき、ミラが「おめでとう」と言い、ルークが「なるほど、銀牌4か。面白いな——これで高難度の依頼にも正面から受注できる」と頷いた。
「うるせえな。別に大したことじゃねえよ」
カイがぶっきらぼうに言ったが、新しい銀牌を腰に付ける手つきは丁寧だった。
次に工房に寄った。
僕たちが贔屓にしていたのは、港から少し離れた裏通りの工房だった。ハルトという無口な老人が一人でやっている小さな店だが、魔獣素材の扱いは街一番だとカイが言っていた。
出発前の最終調整を頼んだ。カイの剣の柄革の締め直し。ルークの工具の修正。ミラの薬箱の蝶番。僕の革鎧の留め具の交換。ハルトは黙々と、一つずつ丁寧に仕上げてくれた。
「どこに行くんだ」
「灰原の方面です」
ハルトの手が一瞬止まった。
「あそこは死の大地だと聞く。装備の手入れを怠るな」
工房を出るとき、ハルトが革鎧用の油を小袋に入れて渡してくれた。
「サービスだ。船の上は潮風で革が硬くなる。こまめに塗れ」
「……ありがとうございます」
ハルトは何も言わず、次の仕事に取りかかっていた。
市場に向かった。
船旅用の保存食を買い揃える。これがなかなかの量だった。
干し魚を十束。白身の魚を開いて塩を擦り込み、天日で干したものだ。噛むほどに旨味が出る。硬パンは二十個。二度焼きの保存パンで、日持ちは二十日以上。干し肉は装甲猪の燻製を五束。塩漬けの根菜、干し果実。十日ほどの船旅は持つはずだった。
「あ、蜂蜜もあったほうがいいよ。疲れたときに舐めると元気出るの」
ミラが小瓶の蜂蜜を二つ、籠に入れた。
「あとはね——」
ミラの本番は、薬種問屋だった。
ミラが通っていた薬種問屋に入った途端、草と花と樹皮が混じった複雑な匂いが鼻を突いた。棚にはガラス瓶がずらりと並び、乾燥した薬草や粉末や根が所狭しと詰め込まれている。
「おや、ミラちゃん。また来たのかい。昨日も来てたじゃないか」
「今日は多めに買いたいの。船旅の分と、それから——灰原に行くから、乾燥地帯用の薬草も欲しくて」
「灰原?」
店主の眉が上がった。
「大丈夫かい、あんな場所」
「大丈夫。仲間がいるから」
ミラは棚を見て回りながら、次々と薬草を選んでいった。止血用の乾燥苔、解毒の根、熱冷ましの樹皮、消毒用の蒸留液。船酔いに効く丸薬の材料も買い込んでいた。
「ユーリくん、これ持って」
革袋がどんどん重くなった。
「これで薬箱の中身は万全だよ。何があっても一週間は持つ」
ミラが満足そうに笑った。薬の話をしているときのミラは、いつもより少しだけ声が高くなる。
昼を過ぎた頃、僕たちは港に向かった。
デルガの港は広い。大小さまざまな船が停泊し、荷を積み降ろす人々の声が飛び交っている。潮の匂いと、魚と、木材と、油の匂い。
僕たちが乗る船は、港の東端に停泊している中型の商船だった。ガルーダ号。灰原に近い港町アシュベルまで素材と遺物を運ぶ交易船で、乗客も乗せてくれる。
船の前で、カイが船長と打ち合わせをしている間、僕は港の風景を眺めていた。
そのとき、人混みの中に、見覚えのある光を感じた。
透視ではない。流視だ。普段から見えている魔素の流れの中に、一つだけ異質なものが混じっていた。澄んで、密度が高く、整った光。この光を僕は知っている。
人混みの向こうから、フード付きの旅装の人物が歩いてきた。
聖騎士の白い装束ではない。灰色の外套に、旅人のような革の長靴。だけど、フードの隙間から覗く淡い髪と、背筋の通った姿勢は見間違えようがなかった。
「セラスさん……」
僕が呟いた声に、カイが振り返った。一瞬で表情が変わる。腰の剣に手をかけた。
「待って、カイさん」
僕はカイの腕を掴んだ。
「攻撃する気じゃない。……魔素が、穏やかだ」
セラスの体から漂う魔素の流れを読む。戦闘態勢のときとは全く違う。術式を編んでいる気配もない。ただ、静かに歩いてくる。
ルークが目を細めた。ミラが僕の背中に手を当てた。
セラスが僕たちの前で立ち止まった。
「行かないでください」
セラスの声は、低く、静かだった。港の喧騒の中に、その声だけが不思議なほどはっきり聞こえた。
「あなたがあちら側に行けば、もう——戻れなくなります」
フードの下のセラスの顔は、以前に会ったときよりも少しだけやつれて見えた。国境を越えてデルガまで来たのだ。聖騎士の装束を脱いで、一人で。それがどういう意味を持つのか、僕にはまだ完全には分からない。でも、軽いことではないはずだ。
「……あちら側って、何?」
僕は聞いた。
セラスの目が揺れた。淡い色の瞳が、港の光を受けて硝子のように光る。
「……禁忌の先です。知ってはいけないことの、その奥」
「知りたいから行くんだ。止めても無駄だぞ」
カイが僕の隣に立った。剣からは手を離していたが、視線は鋭いままだった。
セラスの表情が揺れた。眉がわずかに寄せられ、唇が薄く開きかけて、閉じた。
攻撃する気はない。
この人は、警告しに来たのだ。
「セラスさんは、何を知ってるの。教えてくれたら——」
僕の言葉を、セラスが遮った。
「……教えることはできません」
その声に、かすかな震えがあった。
「でも——気をつけて。灰原には、私のような聖騎士よりもっと恐ろしいものがいます」
「恐ろしいもの?」
「……それ以上は言えません」
セラスが一歩後ろに下がった。
流視に映るセラスの魔素の流れが——揺れていた。整然とした、きれいな回路のような光が、今は微かに乱れている。
この人は、迷っている。
「セラスさん」
僕は呼びかけた。セラスの足が止まった。
「……僕たちは、知りたいだけなんだ。世界がどうなってるのか。遺跡の下にあるものが何なのか。それを知ったからって、壊したいわけじゃない」
セラスが振り返った。
しばらく、僕の目を見ていた。何かを言いかけて、やめた。
それから——ほんのわずかに、頷いた。頷いたように見えた。
「……気をつけて」
セラスはそれだけ言って、背を向けた。フードを深く被り直して、港の人混みの中に歩いていく。灰色の外套が、荷運びの人夫たちや商人たちの間に紛れて、やがて見えなくなった。
流視の中で、セラスの光が遠ざかっていく。消えない。ただ、遠くなっていく。
「……行ったか」
カイが息を吐いた。
「斬りかかってこなかったな。前は問答無用だったのに」
「変わったのかもしれない。セラスさんも」
「面白いな」
ルークが眼鏡の位置を直しながら言った。
「聖騎士が国境を越えて、装束を脱いで、警告に来た。命令ではなく個人の意思で動いている。なるほど——組織よりも自分の判断を選び始めているのかもしれない」
「ルークさん、分析はあとにして。船、出ちゃうよ」
ミラが桟橋を指差した。船長がこちらに手を振っている。出航の準備が整ったらしい。
ガルーダ号に乗り込んだ。
タラップを上がると、潮風が一段と強くなった。甲板には樽や木箱が積み上げられ、船員たちが忙しく立ち働いている。帆布が風にはためく音が、どこか祭りの旗みたいだった。
僕にとって、初めての船旅だった。デルガに来て初めて海を見たときの感動は今でも覚えている。だけど、海の上に出るのは初めてだった。
船が桟橋を離れた。
ゆっくりと、デルガの港が遠ざかっていく。石造りの港湾施設、立ち並ぶ倉庫、その向こうに広がる街並み。市場の天幕の色とりどりの布が、陽光を受けて光っている。工房のある裏通り。宿の屋根。ギルドの看板。
全部が、少しずつ小さくなっていく。
「初めての船か?」
カイが隣に来た。手すりに肘をついて、遠ざかる港を見ている。
「……うん」
「俺はガキの頃、港の船に忍び込んで遊んでた。船員に見つかって海に放り込まれたこともある」
カイが笑った。故郷を離れることに、何か思うところがあるのかもしれない。でも、カイの目は前を向いていた。
「デルガには、また戻ってくる」
カイが言った。独り言のようだった。
船が沖に出ると、海が広がった。
端がない。どこまでも続く水面が、太陽の光を受けて無数の光の粒を散らしている。流視で見ると、海の上にも魔素が漂っていた。陸地より薄いが、風に乗って流れている。
波の音が船底を叩く。揺れは思ったより穏やかで、船酔いの心配は今のところなさそうだった。
夕方になって、船の賄い飯が出た。
船員たちと同じものだ。木の椀に盛られた芋のスープと、塩漬けの魚と、硬パン。
スープは質素だった。芋が溶けるまで煮込んであって、とろりとした舌触り。塩味が効いていて、少し胡椒が入っている。体が温まる。
塩漬けの魚は——正直に言うと、デルガの食堂で食べた焼き魚とは比べものにならない。塩が強くて、身が硬くて、噛むと口の中がしょっぱくなる。でも、硬パンと一緒に食べると、不思議と悪くない。パンが塩気を吸って、ちょうどいい味になる。
「船の飯ってのは、こんなもんだ」
カイが硬パンをスープに浸しながら言った。
「贅沢は言えねえ。腹に入りゃいいんだよ」
「でもさ、明日は私が作ろうか? 干し魚を戻して、香草で煮込めばもう少し美味しくなるよ」
ミラが塩漬け魚を齧りながら言った。
「船の火を借りられれば、の話だけど」
「面白い提案だな」
ルークがスープを啜った。
食事をしながら、灰原の話になった。
「灰原は五十年前に神罰で滅んだ国だ。今は死の大地と言われている」
ルークが切り出した。木の椀を両手で包むように持って、スープの湯気越しにこちらを見ている。
「かつてはそれなりの規模の国があったらしい。だが、禁忌に触れた——遺跡から持ち出した遺物を、国家規模で利用し始めたという説が有力だ」
「神罰で全部消えたのか」
カイが聞いた。
「地表は焼かれた。植生が暴走して国土を覆い尽くした後、枯死した。魔素が枯渇して、今は何も育たない荒れ地だという」
「でも、そこに遺跡がある」
僕が言った。ノードに触れたとき、断片的に流れ込んできたネットワーク地図の中に、灰原に相当する場所にも光の点があった。
「ああ。灰原の地下には、デルガのものよりさらに大きな遺跡があるはずだ。地上が壊されても、地下は残る。ノードの位置から推測すると、かなり重要な中継拠点がある可能性が高い」
「灰原の薬草って独特らしいよ」
ミラが目を輝かせた。
「灰化した土壌でしか育たない種があるって。灰茸とか、焦根草とか。普通の土地では絶対に採れなくて、解毒の効果がすごく強いんだって」
「死の大地に薬草が生えるのか」
「全部が死んでるわけじゃないみたい。地下水脈の近くとかに、灰原でしか育たない植物がわずかに自生してるって。薬師の間では幻の薬草って呼ばれてるの」
ミラの声が弾んでいた。危険な場所に向かっているのに、珍しい薬草のことを考えると興奮を抑えられないらしい。ミラらしいと思った。
「死の大地に遺跡があるなら、行く価値はある」
カイが硬パンの最後の一欠片をスープに落とした。
「セラスが警告しに来るくらいだ。何かがある。そこに足を踏み入れたら、もう後には引けなくなるかもしれない。——だが、そういうのは嫌いじゃねえ」
カイが笑った。不敵な笑みだ。こういうとき、カイは一番カイらしい顔をする。
食事が終わった後、僕は一人で甲板に出た。
夕暮れの海が広がっていた。
水平線の向こうに太陽が沈みかけている。空が橙から紫に変わり、海面がその色を映して、揺れるたびに光が砕ける。
デルガの街は、もう見えなかった。水平線の向こうに消えていた。
風が頬を撫でる。潮の匂い。波の音。帆布がはためく音。全部が混ざって、一つの大きな音になっている。
ふと、目を凝らした。
透視を使うつもりはなかった。でも、目が勝手に動いた。
海面の下に——何かが見えた。
光だ。
とても淡い、かすかな光。水の下を、細い線になって走っている。陸地の遺跡で見た回路の光と同じ色だ。青白くて、微かで、でも確かにそこにある。
海の底に、回路がある。
心臓が跳ねた。
目を凝らすと、光の線は一本ではなかった。何本かの線が、海の底を走っている。途切れたり、繋がったり。まるで陸地の遺跡のネットワークが、海の下にも続いているかのように。
——海底にも、遺跡がある?
「何を見てるんだ」
ルークの声がした。振り返ると、ルークが甲板に出てきていた。
「……海の下に、光が見える。回路みたいな光が走ってる。すごく淡いけど」
ルークの目が細くなった。
「なるほど。面白いな」
ルークが手すりに寄りかかって、暗くなりつつある海を見下ろした。もちろん、ルークには何も見えていないはずだ。
「ノードのネットワークが陸地だけだとは限らない。もし海底にも遺跡があるなら、ネットワークは大陸を越えて繋がっている可能性がある」
「……楔に繋がってるのかな」
「分からない。だが、可能性としては十分にある」
ルークが空を見上げた。最初の星が一つ、紫の空に光っていた。
「お前の目は、いよいよ面白いものを見せてくれるな」
ルークの声は穏やかだった。分析的だけど、そこに確かな感嘆がある。
カイとミラも甲板に出てきた。
四人で、夕暮れの海を見た。
風が出てきて、帆が膨らんだ。船がわずかに加速する。波を切る音が変わった。
デルガが消えた水平線の向こうには、何もない。まだ見たことのない海が、どこまでも続いている。その先に——灰原がある。神罰で滅びた国の跡地。セラスが警告した「恐ろしいもの」がいる場所。デルガの地下遺跡よりも大きな遺跡が眠る死の大地。
怖くないと言えば嘘になる。
でも、知りたいという気持ちのほうが、ずっと大きかった。楔とは何なのか。ネットワークの中心には何があるのか。セラスが「知ってはいけない」と言ったものが、何なのか。
船が進む。波が砕ける。夜の海が広がっていく。
僕の目に映る海の底の光が、航跡のように後方に流れていった。
「さて」
カイが伸びをした。
「明日からは船の上だ。退屈しのぎに素振りでもするか」
「甲板で剣を振るのはやめてよ。船員さんに怒られるから」
「じゃあ体幹の鍛錬だな。揺れる船の上で立ってるだけで訓練になる」
「それは面白い発想だな」
ルークが笑った。めったに笑わないルークが笑うと、少し意外な気がする。
星が増えてきた。空一面に散らばって、海面にも映っている。海の上の星と、海の下の光。二つの光が、僕を挟んで上下に広がっている。
灰原まで、あと何日だろう。
船が揺れる。波の音が続く。
僕は手すりに寄りかかって、もう少しだけ海を見ていた。海の底の光が、淡く、確かに、前方に向かって続いていた。




