第25話 セラスの影
第十一話 セラスの影
その知らせがギルドに届いたのは、朝の依頼受付が始まる前のことだった。
僕たちが宿の食堂で朝食を取っていると、ギルドの伝令が宿に駆け込んできた。息を切らしていて、顔が青白い。女将が水を差し出す間もなく、伝令は食堂にいた冒険者たちに向かって声を張り上げた。
「緊急通達。神聖国家の聖騎士が、国境付近に到達した模様。全パーティに警戒を要請する」
食堂が静まり返った。
朝の喧騒が一瞬で凍りついた。匙を持つ手が止まり、パンを千切りかけた指が動かなくなった。冒険者たちの間に、張り詰めた空気が広がっていく。
聖騎士。神聖国家の実行部隊。禁忌に触れた者を追い、処理する——反宗教国家の冒険者にとって、それは最も聞きたくない言葉の一つだった。
「あいつか」
カイさんが低い声で言った。パンを齧る手を止めて、伝令を見ている。目が鋭くなっていた。
「追ってきやがった」
僕も分かった。銀髪の聖騎士。白い装束。灰枝での追撃戦。棘冠蜥蜴との三つ巴の戦闘。あのとき、一時的に共闘して——最後に彼女はこう言った。
「次に会うときは、連れ帰る」と。
セラス。
その名前が、胸の奥で冷たく響いた。
「国境は越えてないのか」
カイさんが伝令に聞いた。
「現時点では確認されていません。ただ、接近しているのは確実です。ギルドとしては、遺跡探索中のパーティに対し、地上での行動にも注意を促す方針です」
「国境を越えてきたら、どうなる」
ルークさんが静かに問いかけた。
「反宗教国家の軍が対応します。しかし、聖騎士一人に対して軍を動かすかどうかは——政治的な判断になります」
つまり、すぐには動けない。国境を越えた聖騎士を武力で排除すれば、両国間の緊張が一気に高まる。かといって放置すれば、遺跡探索に介入される。どちらを取っても面倒なことになる。
伝令が去った後、食堂には重い沈黙が残った。他のパーティも、小声で何かを話し合っている。
「セラスって、あの聖騎士だよね。灰枝で会った」
ミラさんが確認するように言った。
「ああ。短詠唱の使い手で、剣も強い。厄介な相手だ」
カイさんが腕を組んだ。
「一対一でやり合ったら、俺でもきつい。——いや、正直に言えば、勝てるか分からん」
カイさんがそこまで認めるのは珍しかった。銀牌5の冒険者が、正面からの戦闘で不利だと言う相手。それがセラスだった。
「彼女の目的はユーリだろう」
ルークさんが僕を見た。
「お前の目——紋視が、禁忌に触れる能力だと判断しているはずだ。聖騎士の任務は禁忌の監視と排除。お前を連れ帰るか、あるいは——」
「ルーク、そこまでにしろ」
カイさんが遮った。
「脅かしてどうする」
「事実を共有しているだけだ」
「……分かってる」
僕は自分の手を見た。震えてはいなかった。でも、胸の奥に重いものが沈んでいく感覚があった。セラスは僕を追っている。僕の目を——僕自身を。
あの銀色の髪と、感情を押し殺した瞳を思い出した。冷たい人だと思った。でも、棘冠蜥蜴と戦ったとき、彼女の魔法はきれいだった。回路の構成が、整然として、無駄がなくて、紋視で見た光がとてもきれいだった。
あの人は、本気で世界を守ろうとしているのだと思う。そのために僕を追っている。
その日は遺跡には潜らなかった。
ギルドの警戒要請もあったし、何よりパーティの空気が重かった。セラスの件だけではない。何か、別のものが食堂のテーブルの上に横たわっている気がした。
ルークさんの様子がおかしかった。
朝から口数が少ない。いつもなら遺跡の回路構造について何か分析を始めるのに、今日はずっと黙って眼鏡を弄っている。指先で弦を弾くように、レンズの縁をなぞっている。
ミラさんも気づいていたらしい。僕と目が合ったとき、小さく首を傾げた。分からない、という顔だった。
カイさんは——カイさんも、何かを察しているのかもしれない。ルークさんの方をちらちら見ていた。
夕方になった。
宿の食堂に四人で座った。他の客は三組ほど。窓の外では夕日が港を赤く染めている。
女将が料理を運んできた。
今日の夕食は、干し鱈の煮戻しと、豆と玉葱の煮込みと、黒パンだった。干し鱈は水で戻してから牛脂で炒め、酢と香草で味を整えたものだ。デルガでは保存食としてよく食べられている。身が締まっていて、噛むほどに塩気と旨味が出る。
豆の煮込みは、白い豆と刻んだ玉葱を鶏の出汁で柔らかく炊いたもので、仕上げに粗挽きの胡椒が振ってあった。素朴だけど、体が温まる味だ。黒パンはずっしり重くて、ちぎると湿り気のある断面が見える。煮込みの汁を吸わせると美味しい。
いつもなら、食事の時間は楽しかった。カイさんが酒を飲みながら軽口を叩いて、ミラさんが食材の話をして、ルークさんが何かの分析結果を報告する。僕はそれを聞きながら食べる。そういう、穏やかな時間だった。
でも今日は違った。
誰も喋らなかった。匙が器に当たる音と、パンをちぎる音だけが聞こえる。
ルークさんが、煮込みを三口ほど食べたところで、匙を置いた。
音が静かだった。でも、その音で——三人の視線が集まった。
「……正直に言う」
ルークさんの声は低く、落ち着いていた。いつもの分析的な口調とは少し違う。声の底に、何か重いものが沈んでいた。
「俺はヴェルナーに報告を上げていた」
食堂の空気が、変わった。
時間が止まったような錯覚があった。僕の手が、パンをちぎったまま動かなくなった。ミラさんの匙が、器の縁で止まった。
カイさんだけが、動いた。ゆっくりと顔を上げて、ルークさんを見た。
「……何だと」
カイさんの声は、静かだった。怒鳴るよりも、ずっと怖い静かさだった。
「遺跡の構造情報。通路の配置、回路のパターン、ノードの反応。それから——パーティの行動記録。どの区画を探索したか、何を見つけたか」
ルークさんは目を逸らさなかった。カイさんの視線を真っ直ぐに受けて、言葉を続けた。
「ユーリの能力についても報告した。紋視のこと。壁の中の回路を読めること。遺跡探索における有用性」
僕の名前が出たとき、胸の奥が冷たくなった。
ルークさんが——僕のことを、ヴェルナーに伝えていた。あの、手帳を持ち歩く男に。軍の情報部に繋がっているかもしれない男に。
「お前——」
カイさんが椅子から腰を浮かせた。テーブルに手をついて、身を乗り出す。
「最初から俺たちをスパイしてたのか」
声が硬い。喉の奥で押し潰したような声だった。カイさんの目が、今まで見たことのない色をしていた。怒りと——裏切られた痛みが、混じっている。
「話は後でいい。まず食べて」
ミラさんが言った。
声は穏やかだった。でも、有無を言わせない強さがあった。ミラさんはカイさんの腕を見て、それからルークさんの顔を見て、もう一度カイさんに視線を戻した。
「怒るのは分かる。でも、空腹で話しても碌なことにならないよ。ルークさんも、最後まで話があるんでしょう」
ルークさんが僅かに頷いた。
カイさんは——数秒間、ルークさんを睨んでいた。それから、乱暴に椅子に座り直した。匙を掴んで、煮込みを掻き込む。味なんか分かっていない食べ方だった。
沈黙が重かった。
僕も食べた。干し鱈を口に入れたけど、味がしなかった。塩気は分かる。でも、旨味とか、香草の風味とか、そういうものが全部消えていた。口の中で食べ物が異物みたいに感じる。
それでも食べた。ミラさんが食べろと言ったから。そして、ルークさんの話を最後まで聞かなきゃいけないと思ったから。
黒パンをちぎって、煮込みの汁に浸した。パンが汁を吸って、柔らかくなる。いつもなら美味しいと思う。今日は、ただ柔らかいだけだった。
全員が食べ終わるまで、誰も口を開かなかった。
カイさんが杯を取った。卓の上の酒瓶から、琥珀色の液体を注ぐ。自分の杯に。それから——少し間を置いて、ルークさんの杯にも注いだ。
何も言わなかった。ただ注いだだけだ。
でも、それは「話を聞く」という意思表示に見えた。
ルークさんが、杯に口をつけた。一口だけ飲んで、杯を置いた。
「ヴェルナーの目的は遺跡の研究だ。遺跡の構造を解明し、旧文明の技術を復元する。反宗教国家の国策とも合致する。俺がヴェルナーに近づいたのは——いや、正確には、ヴェルナーが俺を見つけたんだ」
「どういうことだ」
カイさんが短く聞いた。声はまだ硬い。
「俺が単独で遺跡を調査していた頃、ヴェルナーが接触してきた。遺跡の機構に詳しい罠師を探していると。情報と装備の支援を受ける代わりに、調査結果を報告する。そういう取り決めだった」
「スパイじゃねえか」
「……否定はしない。だが、純粋なスパイとは違った。ヴェルナーは遺跡研究の同志に近い存在だった。俺が知りたいことと、あの男が知りたいことは、多くの部分で重なっていた。遺跡の構造、旧文明の技術、ネットワークの仕組み。俺たちは同じ謎を追いかけていた」
「同志だと?」
カイさんの声に、嘲りが混じった。
「同志なら、なんでパーティの情報まで売った。俺たちの行動を報告する必要がどこにある」
ルークさんが、一瞬だけ目を伏せた。
「……それは、ヴェルナーの要求だった。遺跡の情報だけでなく、探索に関わる人間の情報も。特にユーリの能力については——詳細な報告を求められた」
僕は黙って聞いていた。胸の中が、冷たい水で満たされていくような感覚があった。
「だが——」
ルークさんが顔を上げた。眼鏡のレンズの奥の目が、真っ直ぐだった。
「あの男の計画は、俺が思っていたより大きい」
「計画?」
「ヴェルナーはノードを——遺跡のネットワークそのものを、軍の管理下に置こうとしている。個別の遺跡の研究じゃない。ネットワーク全体を掌握する。それがあの男の目的だ」
テーブルの上の空気が、さらに重くなった。
「遺跡のネットワークを掌握する、って——どういうこと?」
ミラさんが聞いた。
「俺にも全容は分からない。だが、ヴェルナーが集めている情報の方向性を見れば推測はできる。ノードの位置、ノード間の接続経路、ネットワークの制御方法。あの男は、旧文明が作ったネットワークを丸ごと使おうとしている」
「……それが何に使われるか、分かるのか」
カイさんが聞いた。声のトーンが少し変わっていた。怒りだけじゃない、何かを考えている声だった。
「分からない。だが、軍の情報部が国家規模で動いている。個人の研究や小さな組織の話じゃない。国の計画だ。——そして、その計画のために、冒険者を装った工作員を遺跡に潜入させている。お前たちが気づいた三人組も、その一部だ」
あの、足運びが揃いすぎていた三人組。ルークさんが「軍の行軍間隔だ」と言った、あの冒険者たち。
「これ以上は従えない」
ルークさんが、はっきりと言った。
「ヴェルナーの要求は、俺の線を越えた。遺跡の研究なら協力できた。だが、お前たちの——仲間の情報を売り続けることは、もうできない」
沈黙が落ちた。
カイさんが杯の酒を一息に飲み干した。空の杯をテーブルに置く。硬い音がした。
「信用できるか」
カイさんが言った。
「裏切り者を」
その言葉は刃物のように鋭かった。ルークさんの表情が僅かに歪んだ。痛みを堪えるような、小さな歪み。
僕は、二人の間に流れる空気を見ていた。紋視は使っていない。でも、二人の感情が——怒りと後悔と、それでも失いたくないものが、目に見えるようだった。
「……ルークさん」
僕は口を開いた。自分でも驚くほど、声が静かだった。
「ルークさんが本当に裏切る気なら、今ここで話す必要はなかった」
カイさんが僕を見た。
「黙って報告を続ければよかった。僕たちが気づかないうちに、情報を流し続ければよかった。でも——自分から告白した。僕たちの前で、正直に話した」
言葉を探した。うまく言えるか分からなかった。でも、思ったことを言わなきゃいけない気がした。
「それって、僕たちを信じてるってことだと思う。信じてなかったら、こんな危ない話はしない。殴られるかもしれないし、パーティを追い出されるかもしれない。それでも話したのは——僕たちに隠し事をしたくなかったからじゃないかな」
ルークさんが僕を見ていた。眼鏡の奥の目が、少しだけ揺れていた。
カイさんは黙っていた。腕を組んで、テーブルの上の空の杯を見ていた。
長い沈黙があった。
食堂の隅で、他の客が席を立つ音がした。椅子の脚が床を擦る音。扉が閉まる音。日が暮れていく。窓の外の赤い光が、紫に変わっていた。
「……次やったら」
カイさんが口を開いた。
「本当に叩き出すからな」
声は低かった。でも、さっきまでの刃物のような鋭さは消えていた。代わりに、重くて、不器用で、渋々という空気が滲んでいた。
ルークさんが、小さく息を吐いた。
「ああ。分かっている」
カイさんが酒瓶を取った。自分の杯に注いで、一口飲んだ。それから、またルークさんの杯にも注いだ。二度目だった。
ルークさんがそれを飲んだ。今度は、一口ではなく、ゆっくりと半分ほど飲んだ。
ミラさんが立ち上がった。
「女将さん、追加お願いします。チーズと、あれば果物も」
女将が奥から皿を持ってきた。白い山羊のチーズと、干し葡萄と、薄切りの林檎が載っていた。
「はい、カイさん。チーズ食べて。お腹空いてるでしょ、さっきの食べ方じゃ味なんか分かってないよ」
「……うるせえ」
カイさんがチーズを摘んで口に入れた。噛んで、飲み込んだ。
「塩気が足りねえ」
「贅沢言わないの」
ミラさんが僕にも林檎を差し出した。
「ユーリくんも。顔色悪いよ」
「……ありがとう」
林檎の薄切りを口に入れた。甘酸っぱい味が、口の中に広がった。さっきまで何も味がしなかったのに、今度はちゃんと味がした。甘い。少し酸っぱい。冷たい。
食べ物の味がする、ということが——こんなに安心することだとは思わなかった。
チーズと果物を食べ終わる頃には、食堂の空気は少しだけ柔らかくなっていた。まだ元通りとは言えない。でも、さっきまでの凍りついた沈黙よりは、ずっとましだった。
ルークさんが、杯を置いた。
「もう一つ、伝えておくことがある」
カイさんが眉を上げた。まだ来るのか、という顔だった。
「ヴェルナーはノードの情報を欲しがっていた。ノードの構造、機能、そして——接続方法」
「接続方法?」
「ノードに触れて、情報を引き出す方法だ。あの工作員たちも、それが目的で遺跡に潜っている。ノードにアクセスして、ネットワークの情報を得る。それがヴェルナーの計画の第一段階だ」
僕は、ノードの光を思い出していた。地下遺跡の奥で見た、脈動する青白い光。壁一面に走る回路が、心臓のように明滅していた部屋。
「つまり、工作員がノードに触れようとしている」
「ああ。俺たちが先にノードの情報を押さえなければ、ヴェルナーに先を越される。——そして、あの男にネットワークの全貌を渡すのは危険だ。俺はそう判断した」
ルークさんの声には、いつもの分析的な冷静さが戻っていた。告白の重さは消えていなかったけれど、その上に——仲間としての責任が、薄く積もり始めているように見えた。
「明日、ノードに行くぞ」
カイさんが言った。
「工作員より先に押さえる。それが最優先だ」
ルークさんが頷いた。ミラさんも頷いた。
僕も頷いた。
食堂を出て、二階の部屋に戻る廊下で、ミラさんが小声で言った。
「ユーリくん、さっきの——よく言えたね」
「え?」
「ルークさんを信じてるって。あの場で言えるの、すごいと思う」
「……僕は、思ったことを言っただけだよ」
「うん。それがすごいの」
ミラさんが笑った。少しだけ疲れた笑顔だった。
「でも、気をつけてね。信じるのは大事だけど、信じすぎるのは——」
言いかけて、ミラさんは首を振った。
「ごめん、忘れて。おやすみ、ユーリくん」
「おやすみなさい、ミラさん」
部屋に戻って、寝台に横になった。
天井を見上げた。木の板が、魔石灯の弱い光に照らされている。
ルークさんのことを考えた。ヴェルナーのことを考えた。セラスのことを考えた。
遺跡の下で動いているもの。国境に迫っている影。パーティの中で隠されていた秘密。
全部が同時に、僕たちの周りで動いている。
怖い、と思った。素直に。
でも——食堂でルークさんの顔を見たとき、あの人の目が嘘をついていないことは分かった。紋視は使わなかった。ルークさんの魔素を読んだわけじゃない。ただ、あの目を見て、そう思った。
それが正しいかどうかは、まだ分からない。
でも僕は、自分がそう感じたことを信じようと思った。
目を閉じた。明日、ノードに行く。
何が起きるか分からない。でも、四人で行く。それだけは、確かだった。




