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蒼の樹海の魔素使い——魔法が使えない少年は、世界の秘密を視ていた  作者: 蒼月よる


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第22話 嵐の夜

第八話 嵐の夜


 その日の朝、空の色がおかしかった。


 目を覚まして窓を開けると、いつもの朝焼けとは違う、鉛色の雲が港の向こうに広がっていた。厚い雲が幾重にも重なって、太陽の光をほとんど通さない。朝なのに薄暗い。

 風が強い。窓枠が軋んでいる。潮の匂いがいつもより強く、湿った風が部屋の中に流れ込んできた。

 嫌な予感がした。

 僕は流視を使った。

 空を見上げる。普段は穏やかに漂っている魔素の粒が――渦を巻いていた。

 高い空の向こうで、無数の粒が円を描くように回っている。ゆっくりとした、だけど途方もなく大きな渦だ。雲の動きとは別の、目に見えない層で何かが回転している。

「空の粒が……渦を巻いてる」

 声に出したのは、無意識だった。


「何だって?」

 隣の寝台で身を起こしたカイが、目を擦りながら聞いた。

「空の魔素が。いつもは流れてるだけなのに、今日は渦になってる。すごく大きい」

「嵐が来るのか」

「分からない。でも、見たことない動きをしてる」

 カイが窓に近づいた。外を見て、眉をひそめた。

「雲行きは確かにやべえな。港の風向きが変だ。東からの風と西からの風がぶつかってやがる」

 廊下から足音がして、扉が叩かれた。

「起きてる? ギルドから伝令が回ってきたよ」

 ミラの声だった。

 扉を開けると、ミラが革鞄を肩にかけたまま立っていた。ルークが後ろにいる。

「大型の嵐が接近してるんだって。ギルドから全冒険者に注意喚起。今日の探索依頼は全て中止。港湾作業も午後から停止だって」

 ルークが腕を組んだ。

「この時期にこの規模の嵐は珍しい。季節外れだ」

「ユーリくん、目でなんか見える?」

 ミラが僕の顔を覗き込んだ。

「……空の魔素が渦を巻いてる。普通の嵐じゃないかもしれない」

「普通じゃないって、どういうことだ」

 カイが聞いた。

「分からない。でも、魔素があんなふうに動くのは初めて見た」


 朝食は宿の食堂で取った。

 宿の女将が出してくれたのは、硬パンと薄い豆のスープ、それから塩漬けの魚の切り身だった。いつもの朝食だ。でも、食堂の空気がいつもと違っていた。他の冒険者たちがひそひそと話している。窓の外を気にしている。風の音が、建物の壁を通しても聞こえた。

「嵐か。デルガの嵐はやべえぞ」

 カイが硬パンを千切りながら言った。

「港街だからな。風が海から吹き付けて、波が防波堤を越える。何年か前にひどい嵐が来たとき、港の倉庫が三棟潰れたって聞いた」

「カイさんはそのとき、もうデルガにいなかったの?」

「ああ。ガキの頃に出たからな。だけど噂は聞いてた」

 ミラがスープを飲みながら窓の外を見た。

「風、どんどん強くなってるね」

 ルークが黙ってパンを齧っていた。何かを考えている顔だ。


 午前中のうちに、嵐の気配は一気に強まった。

 僕たちは宿に留まって、装備の手入れをしていた。カイが剣を研ぎ、ミラが薬箱の中身を整理し、ルークが工具の点検をしている。僕は革鎧の留め具を確認しながら、時折窓の外に流視を向けた。

 渦が大きくなっていた。

 朝に見たときよりも回転が速くなっている。渦の中心がデルガの上空に近づいてきていて、空の魔素が渦に吸い込まれるように集まっていた。

 風が唸った。窓硝子が振動する。

「窓を閉めろ。板で塞いだほうがいいかもしれんな」

 カイが立ち上がった。

 宿の主人に頼んで板を借り、窓の外側に打ち付けた。カイとルークが二人がかりで作業する。風が板を持っていこうとするのを、体重で押さえながら釘を打つ。

「くそ、風が強い。まだ来てないのにこれか」

「本番はこれからだ。今は前触れにすぎない」

 ルークが淡々と言った。


 昼過ぎ。

 嵐が来た。

 最初は風の音が変わった。それまでの唸りが、もっと低い、地鳴りのような音に変わった。建物の壁が震えている。木の梁が軋む音が、天井から断続的に聞こえてきた。

 雨が叩きつけてきた。窓の板を打つ音が、連続する太鼓のように響いた。

 宿の一階に全員が集まった。他の宿泊客も同じだ。冒険者が六人、行商人が二人、宿の主人と女将。全部で十二人が、食堂に身を寄せていた。

 魔石灯が揺れた。

 ぱちん、と音がして、一つ消えた。

「停電か」

 カイが呟いた。

「魔石灯は回路で繋がってるからな。大本の回路が風でやられたんだろう」

 ルークが懐から小さな魔石灯を取り出した。探索用のもので、掌に収まるくらいの大きさだ。淡い白い光が灯った。

 ミラも革鞄からランタンを出して火を入れた。油の匂いが食堂に広がる。

 宿の女将が蝋燭を何本か持ってきて、テーブルに並べた。

「大丈夫ですよ。デルガの建物は嵐に慣れてます。壁が厚いでしょう。これくらいじゃ倒れやしません」

 女将の声は落ち着いていた。港街で嵐を何度も経験してきた人の声だ。

 でも、外の音は落ち着いていなかった。


 風が、叫んでいた。

 建物の隙間を通り抜ける音が、甲高い悲鳴のように響く。雨はもう雨ではなかった。横殴りの水の壁だ。窓の板の隙間から水が染みてきて、床に水たまりができた。ミラが布を持ってきて、隙間に詰めた。

 遠くで何かが壊れる音がした。木が折れるような、重い破壊音。

「港のほうか」

 カイが耳を澄ませた。

「船が流されてるのかもしれない」

 ルークが言った。

 僕は流視で外を見ようとした。壁越しに、外の魔素の流れを感じ取ろうとする。

 ――見えた。

 渦が、すぐ上にあった。

 デルガの上空で巨大な魔素の渦が回転している。中心部は異常に密度が高く、光を帯びているように見えた。渦の腕が街の上に伸びていて、そこから魔素が降り注いでいる。

 普通の嵐なら、こんなことは起きない。天候が荒れても、魔素がこんなふうに集中することはない。

 渦の中心に、何かがある。

 意思のようなもの。天候を操作しているような、規則的な脈動。自然の嵐にはない、均一なリズムで魔素が回っていた。

「……ルークさん」

「なんだ」

「嵐の中心に、魔素の渦がある。すごく大きくて、密度が高い。それで――中心の脈動がすごく規則的なんだ。自然の嵐じゃありえないくらい、きれいな周期で回ってる」

 ルークの眉が動いた。

「規則的? それは――人為的ということか」

「人為的かどうかは分からない。でも、自然にこうなるとは思えない」

 ルークが考え込んだ。

「天空の神、という言い伝えがある。天候を司る神がいて、嵐も日照りもその神の意思だと。——もしそれが、何らかのシステムの干渉だとしたら、規則的な脈動にも説明がつく」

「システム?」

「推測だ。だが、自然現象でない嵐なら、原因がある。その原因を探る必要がある」

 外で、また何かが壊れる音がした。今度は近い。宿の壁が大きく揺れた。


 嵐は、夜まで続いた。

 風は弱まるどころか、時間とともに強くなった。宿の屋根の一部が剥がれかけて、カイとルークが二人で屋根裏に上がり、応急処置をした。ずぶ濡れで降りてきた二人に、ミラが乾いた布を渡した。

「ひでえ嵐だ。港のほうはもっとやべえだろうな」

 カイが髪から水を絞りながら言った。

「潮位が上がってきてるって、さっき通りかかった人が言ってたよ」

 ミラが言った。

「高潮か。港が沈むぞ」

「沈んだことがあるのか」

「ガキの頃に聞いた話だ。デルガの港は地形的に高潮に弱い。入り江になってるから、波が集中する」


 そして――嵐の最中に、それは起きた。


 夜の十時を過ぎた頃だった。

 僕は食堂の隅で毛布にくるまって、眠れずにいた。風の音がうるさくて、建物の揺れが止まらなくて、とても眠れる状態ではなかった。

 流視を使うつもりはなかった。目を休めろとミラに言われていたから。

 でも、流視は――勝手に動いた。

 目の奥が、ずきんと脈打った。

 視界が変わる。暗い食堂の中に、魔素の粒が淡く浮かび上がった。いつもの流視だ。でも、見えているものがいつもと違う。

 下だ。

 地面の下に、何かがある。

 僕は床を見た。木の板の向こうに、石の基礎があって、その下に土がある。さらにその下に――。

 光。

 巨大な光が、地面のずっと下にあった。

 それは魔素の光だった。圧倒的な密度の魔素が、地下深くで脈動している。一つの巨大な塊が、デルガの街の下に横たわっている。脈動は強く、規則的で、波のように押し寄せてくる。

 嵐の魔素の渦と呼応するように、地下の光が明滅していた。空の渦が脈打つと、一拍遅れて地下の光が応答する。空と地下が、会話しているように。

「地面の……ずっと下に、すごい光がある」

 声が震えた。

 カイが目を開けた。

「何だって」

「地面の下。すごく深いところに、巨大な魔素の塊がある。脈を打ってる。嵐と……同じリズムで」

 ルークが毛布を跳ね除けて起き上がった。

「詳しく話せ。どれくらい深い。どれくらいの範囲だ」

「深さは……分からない。でもすごく深い。何十歩分も下。範囲は――」

 僕は流視の焦点を広げようとした。地下の光の輪郭を捉えようとする。

「――広い。この宿の下だけじゃない。もっとずっと広い。港のほうまで、ひょっとしたらデルガの街全体の下に」

「街全体の下に……」

 ルークの声が低くなった。

「それは遺跡だ。デルガの地下に遺跡がある」

「遺跡?」

「脈動する巨大な魔素の塊。それがデルガの街全体に及ぶ範囲で存在する。——そして嵐と呼応している。これは……ノードだ」

「ノード?」

「ネットワークの中継点。前にデルガ近郊の遺跡で見つけた、外部に伸びる回路を覚えているか。あの回路の接続先が、この地下にあるのかもしれない」

 ルークが立ち上がった。ルークの顔に、あの表情が浮かんでいた。未知のものに出会ったときの、抑えきれない興奮。

「嵐が地下の遺跡を刺激している——いや、逆か。地下の遺跡が嵐に反応している。魔素パルスだ。遺跡が何かに反応して、魔素を放出している」

「何に反応してるんだ」

 カイが聞いた。

「嵐の中心にある、規則的な脈動。ユーリが言った、自然にはありえないほどきれいな周期。それが遺跡を起こしたんだ」

 嵐の風が、窓板を叩いた。建物が揺れる。蝋燭の炎が大きく傾いた。

 地下の光は、脈動を続けていた。空の渦と呼応しながら、何千年もの眠りから覚めたように。


 嵐は、明け方にようやく弱まり始めた。


 風の唸りが少しずつ低くなり、雨の勢いが衰えていった。窓の板の隙間から差し込む光が、薄い灰色から白に変わっていく。

 誰も眠れなかった。

 女将が朝食の支度を始めた。残り物の食材で作った雑炊だった。硬パンを砕いて、干し肉と根菜を鍋で煮込んだもの。嵐の間に火が使えなかったから、温かいものが出るだけでありがたい。

 僕は両手で椀を包んだ。陶器越しに伝わる温かさが、冷えた指に染みた。

 雑炊を啜った。硬パンが煮崩れて、とろりとした舌触りになっている。干し肉の塩気と根菜の甘みが溶け合って、素朴だけど体が欲している味だった。

「……美味しい」

「でしょ。こういうときの温かい食事って、特別だよね」

 ミラが隣で椀を両手に包んでいた。同じことをしている。冷えた体を、食事で温めている。

 カイが雑炊をかき込んで、二杯目を注いだ。

「腹が減ったまま嵐を越すのはきつい。飯があるだけましだ」

「女将さん、ありがとうございます」

「いいのよ。こういうときはお互い様ですからね」

 女将が笑った。嵐の夜を越えた人の、疲れているけど穏やかな笑顔だった。


 外に出たのは、風が完全に収まってからだった。

 宿の扉を開けて、僕たちは言葉を失った。

 通りに瓦礫が散乱していた。屋根の破片、折れた看板、引きちぎられた幌。水たまりがあちこちにできていて、通りの半分が浸水している。向かいの建物の窓が割れて、中が水浸しになっていた。

「ひでえな……」

 カイが呟いた。

 港のほうに目を向けると、もっとひどかった。

 防波堤を越えた波が港の一帯を洗い、倉庫の壁が崩れていた。係留してあった漁船が何隻か岸壁に打ち上げられ、横倒しになっている。船体が割れて、木材の破片が海面に漂っていた。

 冒険者ギルドから伝令が走ってきた。若い職員が息を切らしている。

「緊急招集です! 全冒険者に復旧作業への参加を要請します! ギルド前に集合!」


 ギルドの前には、すでに大勢の冒険者が集まっていた。

 鉄牌から銀牌まで、普段は遺跡に潜っている連中が、泥だらけの通りに並んでいる。誰もが疲れた顔をしていたが、作業を断る者はいなかった。

 ギルドの職員が指示を出した。港の瓦礫撤去、浸水した倉庫の排水、負傷者の救護、避難所の設営。四つの班に分かれて動く。

「カイさんとルークさんは瓦礫撤去班、ユーリくんと私は救護班ね」

 ミラが手際よく振り分けた。

「なんで俺が力仕事なんだ」

「力があるからでしょ。行って」

 カイが肩をすくめて、瓦礫撤去班のほうに歩いていった。ルークが黙ってその後に続く。


 港は、惨憺たる有り様だった。

 倉庫が三棟半壊していた。壁が崩れ、中の荷物が散乱している。塩漬けの樽、魚の干物、麻袋に入った穀物。海水に浸かって駄目になったものも多い。

 カイが率先して瓦礫に取りかかった。崩れた壁の石材を一つずつ持ち上げて、脇に積んでいく。銀牌の冒険者の腕力は伊達じゃない。他の冒険者が二人がかりで動かす石を、カイは一人で持ち上げた。

「おい、そっちの梁を先にどけろ。下に荷物が埋まってる」

 カイの声が港に響いた。指示を出しながら、自分も手を止めない。こういうとき、カイの行動力が頼もしい。普段はぶっきらぼうで大雑把だけど、やるべきことが明確なときのカイは誰よりも頼りになった。

 ルークは崩れかけた倉庫の構造を見て、安全に撤去できる順序を判断していた。

「この柱を先に抜くと天井が落ちる。東側の壁から崩せ」

 罠師の知識が、こんなところで役に立つ。建物の構造を読む目は、遺跡でも瓦礫でも同じだった。


 僕とミラは、避難所に向かった。

 港近くの集会所が臨時の避難所になっていた。嵐で家を失った人たち、怪我をした人たちが運び込まれている。

 ミラの顔が引き締まった。

「ユーリくん、手伝って。まず怪我の軽い人と重い人を分けるから」

 ミラは薬師の顔になっていた。革鞄を開けて、薬草と軟膏と包帯を広げる。手際がいい。流浪の薬師として、こういう場面を経験してきたのだろう。

 漁師の男が腕に深い切り傷を負っていた。船が壊れたときに木材の破片で切ったらしい。血が止まらない。

「動かないで。消毒するから、ちょっとしみるよ」

 ミラが薬草を煎じた液で傷口を洗い、止血の軟膏を塗った。それから包帯を巻く。手つきに迷いがない。

「——これで大丈夫。でも、しばらく力仕事は駄目だからね。化膿したら私を呼んで」

「すまねえ、嬢ちゃん」

「嬢ちゃんじゃなくて薬師だよ。はい、次の人」

 年配の女性が転んで膝を打っていた。腫れている。ミラが手を膝にかざすと、淡い緑色の光が灯った。治癒魔法だ。魔素の柔らかな光がミラの手のひらから女性の膝に流れていく。

「……ああ、痛みが引いていく。ありがとう、ありがとうねえ」

「大丈夫ですよ。打ち身だけですから」

 ミラが微笑んだ。疲れているはずなのに、患者の前では笑顔を絶やさなかった。

 僕は包帯を切ったり、水を運んだり、ミラの指示で動いた。戦闘ではない。魔素も流視も関係ない。ただの力仕事と、人の世話だ。でも、これも冒険者の仕事なんだと思った。魔獣を倒すだけが冒険者じゃない。街が壊れたとき、人が傷ついたとき、動ける者が動く。それも、仕事だ。


 昼過ぎになって、ギルドから配給が届いた。

 硬パンとスープだった。大きな鍋に入った豆のスープを、木の椀に注いで配る。硬パンは一人に一つずつ。質素な食事だ。でも、復旧作業で疲れた体には、温かいスープがありがたかった。

 避難所の人たちと一緒に、僕たちも食事を取った。

 カイとルークが港から戻ってきた。二人とも泥だらけで、汗と潮水でぐしょぐしょだった。

「倉庫二棟の瓦礫は片付けた。三棟目は構造がやばいから、明日以降に専門の職人が来るまで手を出すなって話だ」

 カイがスープの椀を受け取って、一口で半分飲んだ。

「あっつ——うめえ。豆のスープか」

「配給だよ。贅沢は言えないけど」

 ミラが自分の椀を包んだ。

「贅沢なんて言わねえよ。温かいだけで十分だ」

 カイが硬パンをスープに浸して齧った。硬パンがスープを吸って柔らかくなると、そのまま口に押し込む。行儀が悪いけど、この状況で行儀を気にする人はいなかった。

 隣に座った漁師のおじさんが、カイに声をかけた。

「あんた冒険者さんだろ。助かったよ。あの石材、うちら漁師じゃ動かせなかった」

「まあ、力だけはあるんでね」

「嵐で船が三隻やられちまった。修理には何週間もかかるよ。——でも、人が無事なら、船はまた作れる」

 おじさんがスープを啜った。

 そうだな、とカイが短く言った。


 避難所には、いろんな人がいた。

 漁師。商人。職人。その家族。子供たち。みんな嵐で家を壊されたり、水浸しにされたりした人たちだ。

 子供が三人、避難所の隅で身を寄せ合っていた。一番小さい子が泣いていた。ミラがそちらに歩いていった。

「どうしたの。怪我した?」

「……おうちが」

「おうちが壊れちゃったの?」

 小さな子がうなずいた。

 ミラが革鞄から小さな飴の包みを取り出した。

「はい。これ食べて元気出して。——大丈夫だよ。大人たちがちゃんと直してくれるから」

 飴を受け取った子供が、泣きやんだ。隣の子が「ぼくも」と手を伸ばして、ミラが笑って二つ目を渡した。

 僕はそれを見ていた。

 ミラも、幼い頃に集落を失ったことがある。嵐ではなく、もっとひどいかたちで。それでも、ミラは子供に笑いかけることができる。強い人だ、と思った。

 スープの椀が空になった。底に沈んだ豆の欠片を匙で掬って、最後の一口を飲んだ。質素な食事だった。でも、みんなが同じものを食べて、同じ場所で休んでいる。嵐の後の、不思議な連帯感があった。


 午後の復旧作業は、通りの排水だった。

 浸水した通りの水を掻き出す。桶で水を汲んで、排水溝に流す。地味な作業だ。冒険者も住民も一緒になって、黙々と水を掻く。

 日が傾く頃には、主要な通りの水はおおむね引いていた。

 僕たちは宿に戻った。全身が泥と水で汚れている。カイは髪の先から靴の中まで泥水だらけで、ルークの眼鏡は水滴で曇っていた。ミラは薬箱の中身をほとんど使い切っていた。

「やっと終わった……」

 僕は宿の部屋の床に座り込んだ。体中が痛い。腕が重い。背中が張っている。遺跡を探索したときとは違う種類の疲労だ。

「魔獣を斬るより疲れたな」

 カイが壁に背を預けて言った。

「作業量が違うからな。休め」

 ルークが眼鏡を拭きながら言った。

 ミラが水差しを持ってきた。

「はい、みんな水飲んで。脱水になるよ」

 革の椀に水を注いで、一人ずつ渡してくれる。冷たい水が喉を通ると、体の芯まで潤う感じがした。

「ミラさん、薬箱の中身、足りる?」

「うーん。止血の軟膏がほとんどなくなっちゃった。明日、市場で材料を買い足さないと」

「市場、やってるかな」

「嵐の後は物資が不足するから、むしろ早く開くんだよ。商人ってそういうものなの」

 ミラが微笑んだ。

 窓の外を見た。嵐は完全に去っていた。雲が切れて、夕焼けの光が差し込んでいる。橙色の光が、泥だらけの通りを照らしていた。嵐の前と同じ光だ。でも、景色は変わっていた。


 夕食は、宿の女将が残り物をかき集めて作ってくれた。

 塩漬け魚と根菜の煮込みだ。嵐で仕入れができなかったから、保存食を使った料理になった。それでも、温かい食事が出るだけでありがたい。

 四人で食卓を囲んだ。

 ルークが口を開いた。

「ユーリ。昨夜、地下に見えた光のことだが」

「うん」

「あれは間違いなく魔素パルスだ。地下に巨大な遺跡がある。規模から推定すると、これまで僕たちが探索してきた遺跡よりもはるかに大きい」

「ノードって言ってたよね」

「ああ。ネットワークの中継点だ。各地の遺跡を繋ぐ回路が集約する場所。前に見つけた外部接続回路の行き先が、あの地下にある可能性が高い」

 カイが煮込みの根菜を噛みながら聞いていた。

「つまり、デルガの下に宝の山が眠ってるってことか」

「宝かどうかは分からない。だが、これまでにない規模の遺跡であることは確かだ。嵐がなければ、おそらく気づかなかった。嵐の魔素が地下の遺跡を刺激して、魔素パルスが発生した。そのおかげでユーリの目に映った」

「嵐が遺跡を起こした、ってこと?」

 ミラが聞いた。

「そうだ。逆に言えば、嵐がなければ地下の遺跡は沈黙を続けていた。何千年もの間、デルガの人々は遺跡の上で暮らしていたことになる。誰も気づかずに」

 沈黙が落ちた。

 僕は、昨夜見た光を思い出していた。地面の下に横たわる、巨大な脈動する光。空の渦と呼応するように、規則的に明滅していた。

 空と地下が会話しているように見えた。

 天空の神が嵐を送り、地下の遺跡がそれに応えた。偶然なのか、必然なのか。

「ギルドが動くだろう」

 ルークが言った。

「魔素パルスがあった以上、ギルドの感知器にも引っかかっている。遺跡調査の依頼が出るのは時間の問題だ」

「調査依頼が出たら、受けるのか」

 カイが聞いた。ルークが僕を見た。

「ユーリ。お前の目が必要になる。地下遺跡の規模を把握できるのは、おそらくお前だけだ」

「……うん。僕も、あの光の正体が知りたい」

 それは本心だった。怖さがないわけじゃない。地下深くにある巨大な遺跡。何千年も眠っていたものが、嵐に起こされた。そこに何があるのか分からない。

 でも、目の奥が疼いていた。あの光をもう一度見たいという衝動が、体の奥から湧いてくる。

 カイがにやりと笑った。

「言うと思ったよ。――まあ、俺も同じだ。でかい遺跡ってのは、でかい獲物と同じだ。燃えるだろ」

「燃えないでほしいんだけど……」

 ミラが苦笑した。

「怪我人はもう十分見たよ。——でもまあ、行くなら私も行く。誰かが怪我したとき、薬師がいないと困るでしょ」


 食事を終えて、片付けをしているとき、ギルドの伝令が宿に来た。

 書面を渡された。緊急依頼の告知だった。


 ――デルガ地下遺跡、第一次調査隊の編成。銀牌以上の冒険者を対象に、調査パーティを募集する。詳細は明朝、ギルドにて説明。


「来たな」

 ルークが書面を読んで、呟いた。

「銀牌以上か。俺とルークは該当するが、ユーリとミラは対象外だな」

 カイが腕を組んだ。

「……鉄牌だから?」

「まあ、依頼の条件としてはそうなる。だが――」

 ルークが書面をもう一度見た。

「パーティ単位での応募が認められている。パーティ内に銀牌が二名いれば、他のメンバーのランクは問わない、とある」

「じゃあ、僕たちのパーティで応募できる」

「ああ。明朝、ギルドに行こう」

 ルークが書面を折り畳んで、テーブルに置いた。

 僕は窓の外を見た。

 嵐の後の空は、嘘のように澄んでいた。星が見えた。月が出ていて、港の海面に白い光の道を作っている。穏やかで、美しい夜だった。

 でも、僕の目には、まだ見えていた。

 地面の下で、光が脈動している。微かに、規則的に。嵐は去ったが、一度目覚めた遺跡は沈黙に戻らなかった。

 デルガの街は、眠れる遺跡の上に建っている。

 明日から、その眠りの中に降りていく。


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