第22話 嵐の夜
第八話 嵐の夜
その日の朝、空の色がおかしかった。
目を覚まして窓を開けると、いつもの朝焼けとは違う、鉛色の雲が港の向こうに広がっていた。厚い雲が幾重にも重なって、太陽の光をほとんど通さない。朝なのに薄暗い。
風が強い。窓枠が軋んでいる。潮の匂いがいつもより強く、湿った風が部屋の中に流れ込んできた。
嫌な予感がした。
僕は流視を使った。
空を見上げる。普段は穏やかに漂っている魔素の粒が――渦を巻いていた。
高い空の向こうで、無数の粒が円を描くように回っている。ゆっくりとした、だけど途方もなく大きな渦だ。雲の動きとは別の、目に見えない層で何かが回転している。
「空の粒が……渦を巻いてる」
声に出したのは、無意識だった。
「何だって?」
隣の寝台で身を起こしたカイが、目を擦りながら聞いた。
「空の魔素が。いつもは流れてるだけなのに、今日は渦になってる。すごく大きい」
「嵐が来るのか」
「分からない。でも、見たことない動きをしてる」
カイが窓に近づいた。外を見て、眉をひそめた。
「雲行きは確かにやべえな。港の風向きが変だ。東からの風と西からの風がぶつかってやがる」
廊下から足音がして、扉が叩かれた。
「起きてる? ギルドから伝令が回ってきたよ」
ミラの声だった。
扉を開けると、ミラが革鞄を肩にかけたまま立っていた。ルークが後ろにいる。
「大型の嵐が接近してるんだって。ギルドから全冒険者に注意喚起。今日の探索依頼は全て中止。港湾作業も午後から停止だって」
ルークが腕を組んだ。
「この時期にこの規模の嵐は珍しい。季節外れだ」
「ユーリくん、目でなんか見える?」
ミラが僕の顔を覗き込んだ。
「……空の魔素が渦を巻いてる。普通の嵐じゃないかもしれない」
「普通じゃないって、どういうことだ」
カイが聞いた。
「分からない。でも、魔素があんなふうに動くのは初めて見た」
朝食は宿の食堂で取った。
宿の女将が出してくれたのは、硬パンと薄い豆のスープ、それから塩漬けの魚の切り身だった。いつもの朝食だ。でも、食堂の空気がいつもと違っていた。他の冒険者たちがひそひそと話している。窓の外を気にしている。風の音が、建物の壁を通しても聞こえた。
「嵐か。デルガの嵐はやべえぞ」
カイが硬パンを千切りながら言った。
「港街だからな。風が海から吹き付けて、波が防波堤を越える。何年か前にひどい嵐が来たとき、港の倉庫が三棟潰れたって聞いた」
「カイさんはそのとき、もうデルガにいなかったの?」
「ああ。ガキの頃に出たからな。だけど噂は聞いてた」
ミラがスープを飲みながら窓の外を見た。
「風、どんどん強くなってるね」
ルークが黙ってパンを齧っていた。何かを考えている顔だ。
午前中のうちに、嵐の気配は一気に強まった。
僕たちは宿に留まって、装備の手入れをしていた。カイが剣を研ぎ、ミラが薬箱の中身を整理し、ルークが工具の点検をしている。僕は革鎧の留め具を確認しながら、時折窓の外に流視を向けた。
渦が大きくなっていた。
朝に見たときよりも回転が速くなっている。渦の中心がデルガの上空に近づいてきていて、空の魔素が渦に吸い込まれるように集まっていた。
風が唸った。窓硝子が振動する。
「窓を閉めろ。板で塞いだほうがいいかもしれんな」
カイが立ち上がった。
宿の主人に頼んで板を借り、窓の外側に打ち付けた。カイとルークが二人がかりで作業する。風が板を持っていこうとするのを、体重で押さえながら釘を打つ。
「くそ、風が強い。まだ来てないのにこれか」
「本番はこれからだ。今は前触れにすぎない」
ルークが淡々と言った。
昼過ぎ。
嵐が来た。
最初は風の音が変わった。それまでの唸りが、もっと低い、地鳴りのような音に変わった。建物の壁が震えている。木の梁が軋む音が、天井から断続的に聞こえてきた。
雨が叩きつけてきた。窓の板を打つ音が、連続する太鼓のように響いた。
宿の一階に全員が集まった。他の宿泊客も同じだ。冒険者が六人、行商人が二人、宿の主人と女将。全部で十二人が、食堂に身を寄せていた。
魔石灯が揺れた。
ぱちん、と音がして、一つ消えた。
「停電か」
カイが呟いた。
「魔石灯は回路で繋がってるからな。大本の回路が風でやられたんだろう」
ルークが懐から小さな魔石灯を取り出した。探索用のもので、掌に収まるくらいの大きさだ。淡い白い光が灯った。
ミラも革鞄からランタンを出して火を入れた。油の匂いが食堂に広がる。
宿の女将が蝋燭を何本か持ってきて、テーブルに並べた。
「大丈夫ですよ。デルガの建物は嵐に慣れてます。壁が厚いでしょう。これくらいじゃ倒れやしません」
女将の声は落ち着いていた。港街で嵐を何度も経験してきた人の声だ。
でも、外の音は落ち着いていなかった。
風が、叫んでいた。
建物の隙間を通り抜ける音が、甲高い悲鳴のように響く。雨はもう雨ではなかった。横殴りの水の壁だ。窓の板の隙間から水が染みてきて、床に水たまりができた。ミラが布を持ってきて、隙間に詰めた。
遠くで何かが壊れる音がした。木が折れるような、重い破壊音。
「港のほうか」
カイが耳を澄ませた。
「船が流されてるのかもしれない」
ルークが言った。
僕は流視で外を見ようとした。壁越しに、外の魔素の流れを感じ取ろうとする。
――見えた。
渦が、すぐ上にあった。
デルガの上空で巨大な魔素の渦が回転している。中心部は異常に密度が高く、光を帯びているように見えた。渦の腕が街の上に伸びていて、そこから魔素が降り注いでいる。
普通の嵐なら、こんなことは起きない。天候が荒れても、魔素がこんなふうに集中することはない。
渦の中心に、何かがある。
意思のようなもの。天候を操作しているような、規則的な脈動。自然の嵐にはない、均一なリズムで魔素が回っていた。
「……ルークさん」
「なんだ」
「嵐の中心に、魔素の渦がある。すごく大きくて、密度が高い。それで――中心の脈動がすごく規則的なんだ。自然の嵐じゃありえないくらい、きれいな周期で回ってる」
ルークの眉が動いた。
「規則的? それは――人為的ということか」
「人為的かどうかは分からない。でも、自然にこうなるとは思えない」
ルークが考え込んだ。
「天空の神、という言い伝えがある。天候を司る神がいて、嵐も日照りもその神の意思だと。——もしそれが、何らかのシステムの干渉だとしたら、規則的な脈動にも説明がつく」
「システム?」
「推測だ。だが、自然現象でない嵐なら、原因がある。その原因を探る必要がある」
外で、また何かが壊れる音がした。今度は近い。宿の壁が大きく揺れた。
嵐は、夜まで続いた。
風は弱まるどころか、時間とともに強くなった。宿の屋根の一部が剥がれかけて、カイとルークが二人で屋根裏に上がり、応急処置をした。ずぶ濡れで降りてきた二人に、ミラが乾いた布を渡した。
「ひでえ嵐だ。港のほうはもっとやべえだろうな」
カイが髪から水を絞りながら言った。
「潮位が上がってきてるって、さっき通りかかった人が言ってたよ」
ミラが言った。
「高潮か。港が沈むぞ」
「沈んだことがあるのか」
「ガキの頃に聞いた話だ。デルガの港は地形的に高潮に弱い。入り江になってるから、波が集中する」
そして――嵐の最中に、それは起きた。
夜の十時を過ぎた頃だった。
僕は食堂の隅で毛布にくるまって、眠れずにいた。風の音がうるさくて、建物の揺れが止まらなくて、とても眠れる状態ではなかった。
流視を使うつもりはなかった。目を休めろとミラに言われていたから。
でも、流視は――勝手に動いた。
目の奥が、ずきんと脈打った。
視界が変わる。暗い食堂の中に、魔素の粒が淡く浮かび上がった。いつもの流視だ。でも、見えているものがいつもと違う。
下だ。
地面の下に、何かがある。
僕は床を見た。木の板の向こうに、石の基礎があって、その下に土がある。さらにその下に――。
光。
巨大な光が、地面のずっと下にあった。
それは魔素の光だった。圧倒的な密度の魔素が、地下深くで脈動している。一つの巨大な塊が、デルガの街の下に横たわっている。脈動は強く、規則的で、波のように押し寄せてくる。
嵐の魔素の渦と呼応するように、地下の光が明滅していた。空の渦が脈打つと、一拍遅れて地下の光が応答する。空と地下が、会話しているように。
「地面の……ずっと下に、すごい光がある」
声が震えた。
カイが目を開けた。
「何だって」
「地面の下。すごく深いところに、巨大な魔素の塊がある。脈を打ってる。嵐と……同じリズムで」
ルークが毛布を跳ね除けて起き上がった。
「詳しく話せ。どれくらい深い。どれくらいの範囲だ」
「深さは……分からない。でもすごく深い。何十歩分も下。範囲は――」
僕は流視の焦点を広げようとした。地下の光の輪郭を捉えようとする。
「――広い。この宿の下だけじゃない。もっとずっと広い。港のほうまで、ひょっとしたらデルガの街全体の下に」
「街全体の下に……」
ルークの声が低くなった。
「それは遺跡だ。デルガの地下に遺跡がある」
「遺跡?」
「脈動する巨大な魔素の塊。それがデルガの街全体に及ぶ範囲で存在する。——そして嵐と呼応している。これは……ノードだ」
「ノード?」
「ネットワークの中継点。前にデルガ近郊の遺跡で見つけた、外部に伸びる回路を覚えているか。あの回路の接続先が、この地下にあるのかもしれない」
ルークが立ち上がった。ルークの顔に、あの表情が浮かんでいた。未知のものに出会ったときの、抑えきれない興奮。
「嵐が地下の遺跡を刺激している——いや、逆か。地下の遺跡が嵐に反応している。魔素パルスだ。遺跡が何かに反応して、魔素を放出している」
「何に反応してるんだ」
カイが聞いた。
「嵐の中心にある、規則的な脈動。ユーリが言った、自然にはありえないほどきれいな周期。それが遺跡を起こしたんだ」
嵐の風が、窓板を叩いた。建物が揺れる。蝋燭の炎が大きく傾いた。
地下の光は、脈動を続けていた。空の渦と呼応しながら、何千年もの眠りから覚めたように。
嵐は、明け方にようやく弱まり始めた。
風の唸りが少しずつ低くなり、雨の勢いが衰えていった。窓の板の隙間から差し込む光が、薄い灰色から白に変わっていく。
誰も眠れなかった。
女将が朝食の支度を始めた。残り物の食材で作った雑炊だった。硬パンを砕いて、干し肉と根菜を鍋で煮込んだもの。嵐の間に火が使えなかったから、温かいものが出るだけでありがたい。
僕は両手で椀を包んだ。陶器越しに伝わる温かさが、冷えた指に染みた。
雑炊を啜った。硬パンが煮崩れて、とろりとした舌触りになっている。干し肉の塩気と根菜の甘みが溶け合って、素朴だけど体が欲している味だった。
「……美味しい」
「でしょ。こういうときの温かい食事って、特別だよね」
ミラが隣で椀を両手に包んでいた。同じことをしている。冷えた体を、食事で温めている。
カイが雑炊をかき込んで、二杯目を注いだ。
「腹が減ったまま嵐を越すのはきつい。飯があるだけましだ」
「女将さん、ありがとうございます」
「いいのよ。こういうときはお互い様ですからね」
女将が笑った。嵐の夜を越えた人の、疲れているけど穏やかな笑顔だった。
外に出たのは、風が完全に収まってからだった。
宿の扉を開けて、僕たちは言葉を失った。
通りに瓦礫が散乱していた。屋根の破片、折れた看板、引きちぎられた幌。水たまりがあちこちにできていて、通りの半分が浸水している。向かいの建物の窓が割れて、中が水浸しになっていた。
「ひでえな……」
カイが呟いた。
港のほうに目を向けると、もっとひどかった。
防波堤を越えた波が港の一帯を洗い、倉庫の壁が崩れていた。係留してあった漁船が何隻か岸壁に打ち上げられ、横倒しになっている。船体が割れて、木材の破片が海面に漂っていた。
冒険者ギルドから伝令が走ってきた。若い職員が息を切らしている。
「緊急招集です! 全冒険者に復旧作業への参加を要請します! ギルド前に集合!」
ギルドの前には、すでに大勢の冒険者が集まっていた。
鉄牌から銀牌まで、普段は遺跡に潜っている連中が、泥だらけの通りに並んでいる。誰もが疲れた顔をしていたが、作業を断る者はいなかった。
ギルドの職員が指示を出した。港の瓦礫撤去、浸水した倉庫の排水、負傷者の救護、避難所の設営。四つの班に分かれて動く。
「カイさんとルークさんは瓦礫撤去班、ユーリくんと私は救護班ね」
ミラが手際よく振り分けた。
「なんで俺が力仕事なんだ」
「力があるからでしょ。行って」
カイが肩をすくめて、瓦礫撤去班のほうに歩いていった。ルークが黙ってその後に続く。
港は、惨憺たる有り様だった。
倉庫が三棟半壊していた。壁が崩れ、中の荷物が散乱している。塩漬けの樽、魚の干物、麻袋に入った穀物。海水に浸かって駄目になったものも多い。
カイが率先して瓦礫に取りかかった。崩れた壁の石材を一つずつ持ち上げて、脇に積んでいく。銀牌の冒険者の腕力は伊達じゃない。他の冒険者が二人がかりで動かす石を、カイは一人で持ち上げた。
「おい、そっちの梁を先にどけろ。下に荷物が埋まってる」
カイの声が港に響いた。指示を出しながら、自分も手を止めない。こういうとき、カイの行動力が頼もしい。普段はぶっきらぼうで大雑把だけど、やるべきことが明確なときのカイは誰よりも頼りになった。
ルークは崩れかけた倉庫の構造を見て、安全に撤去できる順序を判断していた。
「この柱を先に抜くと天井が落ちる。東側の壁から崩せ」
罠師の知識が、こんなところで役に立つ。建物の構造を読む目は、遺跡でも瓦礫でも同じだった。
僕とミラは、避難所に向かった。
港近くの集会所が臨時の避難所になっていた。嵐で家を失った人たち、怪我をした人たちが運び込まれている。
ミラの顔が引き締まった。
「ユーリくん、手伝って。まず怪我の軽い人と重い人を分けるから」
ミラは薬師の顔になっていた。革鞄を開けて、薬草と軟膏と包帯を広げる。手際がいい。流浪の薬師として、こういう場面を経験してきたのだろう。
漁師の男が腕に深い切り傷を負っていた。船が壊れたときに木材の破片で切ったらしい。血が止まらない。
「動かないで。消毒するから、ちょっとしみるよ」
ミラが薬草を煎じた液で傷口を洗い、止血の軟膏を塗った。それから包帯を巻く。手つきに迷いがない。
「——これで大丈夫。でも、しばらく力仕事は駄目だからね。化膿したら私を呼んで」
「すまねえ、嬢ちゃん」
「嬢ちゃんじゃなくて薬師だよ。はい、次の人」
年配の女性が転んで膝を打っていた。腫れている。ミラが手を膝にかざすと、淡い緑色の光が灯った。治癒魔法だ。魔素の柔らかな光がミラの手のひらから女性の膝に流れていく。
「……ああ、痛みが引いていく。ありがとう、ありがとうねえ」
「大丈夫ですよ。打ち身だけですから」
ミラが微笑んだ。疲れているはずなのに、患者の前では笑顔を絶やさなかった。
僕は包帯を切ったり、水を運んだり、ミラの指示で動いた。戦闘ではない。魔素も流視も関係ない。ただの力仕事と、人の世話だ。でも、これも冒険者の仕事なんだと思った。魔獣を倒すだけが冒険者じゃない。街が壊れたとき、人が傷ついたとき、動ける者が動く。それも、仕事だ。
昼過ぎになって、ギルドから配給が届いた。
硬パンとスープだった。大きな鍋に入った豆のスープを、木の椀に注いで配る。硬パンは一人に一つずつ。質素な食事だ。でも、復旧作業で疲れた体には、温かいスープがありがたかった。
避難所の人たちと一緒に、僕たちも食事を取った。
カイとルークが港から戻ってきた。二人とも泥だらけで、汗と潮水でぐしょぐしょだった。
「倉庫二棟の瓦礫は片付けた。三棟目は構造がやばいから、明日以降に専門の職人が来るまで手を出すなって話だ」
カイがスープの椀を受け取って、一口で半分飲んだ。
「あっつ——うめえ。豆のスープか」
「配給だよ。贅沢は言えないけど」
ミラが自分の椀を包んだ。
「贅沢なんて言わねえよ。温かいだけで十分だ」
カイが硬パンをスープに浸して齧った。硬パンがスープを吸って柔らかくなると、そのまま口に押し込む。行儀が悪いけど、この状況で行儀を気にする人はいなかった。
隣に座った漁師のおじさんが、カイに声をかけた。
「あんた冒険者さんだろ。助かったよ。あの石材、うちら漁師じゃ動かせなかった」
「まあ、力だけはあるんでね」
「嵐で船が三隻やられちまった。修理には何週間もかかるよ。——でも、人が無事なら、船はまた作れる」
おじさんがスープを啜った。
そうだな、とカイが短く言った。
避難所には、いろんな人がいた。
漁師。商人。職人。その家族。子供たち。みんな嵐で家を壊されたり、水浸しにされたりした人たちだ。
子供が三人、避難所の隅で身を寄せ合っていた。一番小さい子が泣いていた。ミラがそちらに歩いていった。
「どうしたの。怪我した?」
「……おうちが」
「おうちが壊れちゃったの?」
小さな子がうなずいた。
ミラが革鞄から小さな飴の包みを取り出した。
「はい。これ食べて元気出して。——大丈夫だよ。大人たちがちゃんと直してくれるから」
飴を受け取った子供が、泣きやんだ。隣の子が「ぼくも」と手を伸ばして、ミラが笑って二つ目を渡した。
僕はそれを見ていた。
ミラも、幼い頃に集落を失ったことがある。嵐ではなく、もっとひどいかたちで。それでも、ミラは子供に笑いかけることができる。強い人だ、と思った。
スープの椀が空になった。底に沈んだ豆の欠片を匙で掬って、最後の一口を飲んだ。質素な食事だった。でも、みんなが同じものを食べて、同じ場所で休んでいる。嵐の後の、不思議な連帯感があった。
午後の復旧作業は、通りの排水だった。
浸水した通りの水を掻き出す。桶で水を汲んで、排水溝に流す。地味な作業だ。冒険者も住民も一緒になって、黙々と水を掻く。
日が傾く頃には、主要な通りの水はおおむね引いていた。
僕たちは宿に戻った。全身が泥と水で汚れている。カイは髪の先から靴の中まで泥水だらけで、ルークの眼鏡は水滴で曇っていた。ミラは薬箱の中身をほとんど使い切っていた。
「やっと終わった……」
僕は宿の部屋の床に座り込んだ。体中が痛い。腕が重い。背中が張っている。遺跡を探索したときとは違う種類の疲労だ。
「魔獣を斬るより疲れたな」
カイが壁に背を預けて言った。
「作業量が違うからな。休め」
ルークが眼鏡を拭きながら言った。
ミラが水差しを持ってきた。
「はい、みんな水飲んで。脱水になるよ」
革の椀に水を注いで、一人ずつ渡してくれる。冷たい水が喉を通ると、体の芯まで潤う感じがした。
「ミラさん、薬箱の中身、足りる?」
「うーん。止血の軟膏がほとんどなくなっちゃった。明日、市場で材料を買い足さないと」
「市場、やってるかな」
「嵐の後は物資が不足するから、むしろ早く開くんだよ。商人ってそういうものなの」
ミラが微笑んだ。
窓の外を見た。嵐は完全に去っていた。雲が切れて、夕焼けの光が差し込んでいる。橙色の光が、泥だらけの通りを照らしていた。嵐の前と同じ光だ。でも、景色は変わっていた。
夕食は、宿の女将が残り物をかき集めて作ってくれた。
塩漬け魚と根菜の煮込みだ。嵐で仕入れができなかったから、保存食を使った料理になった。それでも、温かい食事が出るだけでありがたい。
四人で食卓を囲んだ。
ルークが口を開いた。
「ユーリ。昨夜、地下に見えた光のことだが」
「うん」
「あれは間違いなく魔素パルスだ。地下に巨大な遺跡がある。規模から推定すると、これまで僕たちが探索してきた遺跡よりもはるかに大きい」
「ノードって言ってたよね」
「ああ。ネットワークの中継点だ。各地の遺跡を繋ぐ回路が集約する場所。前に見つけた外部接続回路の行き先が、あの地下にある可能性が高い」
カイが煮込みの根菜を噛みながら聞いていた。
「つまり、デルガの下に宝の山が眠ってるってことか」
「宝かどうかは分からない。だが、これまでにない規模の遺跡であることは確かだ。嵐がなければ、おそらく気づかなかった。嵐の魔素が地下の遺跡を刺激して、魔素パルスが発生した。そのおかげでユーリの目に映った」
「嵐が遺跡を起こした、ってこと?」
ミラが聞いた。
「そうだ。逆に言えば、嵐がなければ地下の遺跡は沈黙を続けていた。何千年もの間、デルガの人々は遺跡の上で暮らしていたことになる。誰も気づかずに」
沈黙が落ちた。
僕は、昨夜見た光を思い出していた。地面の下に横たわる、巨大な脈動する光。空の渦と呼応するように、規則的に明滅していた。
空と地下が会話しているように見えた。
天空の神が嵐を送り、地下の遺跡がそれに応えた。偶然なのか、必然なのか。
「ギルドが動くだろう」
ルークが言った。
「魔素パルスがあった以上、ギルドの感知器にも引っかかっている。遺跡調査の依頼が出るのは時間の問題だ」
「調査依頼が出たら、受けるのか」
カイが聞いた。ルークが僕を見た。
「ユーリ。お前の目が必要になる。地下遺跡の規模を把握できるのは、おそらくお前だけだ」
「……うん。僕も、あの光の正体が知りたい」
それは本心だった。怖さがないわけじゃない。地下深くにある巨大な遺跡。何千年も眠っていたものが、嵐に起こされた。そこに何があるのか分からない。
でも、目の奥が疼いていた。あの光をもう一度見たいという衝動が、体の奥から湧いてくる。
カイがにやりと笑った。
「言うと思ったよ。――まあ、俺も同じだ。でかい遺跡ってのは、でかい獲物と同じだ。燃えるだろ」
「燃えないでほしいんだけど……」
ミラが苦笑した。
「怪我人はもう十分見たよ。——でもまあ、行くなら私も行く。誰かが怪我したとき、薬師がいないと困るでしょ」
食事を終えて、片付けをしているとき、ギルドの伝令が宿に来た。
書面を渡された。緊急依頼の告知だった。
――デルガ地下遺跡、第一次調査隊の編成。銀牌以上の冒険者を対象に、調査パーティを募集する。詳細は明朝、ギルドにて説明。
「来たな」
ルークが書面を読んで、呟いた。
「銀牌以上か。俺とルークは該当するが、ユーリとミラは対象外だな」
カイが腕を組んだ。
「……鉄牌だから?」
「まあ、依頼の条件としてはそうなる。だが――」
ルークが書面をもう一度見た。
「パーティ単位での応募が認められている。パーティ内に銀牌が二名いれば、他のメンバーのランクは問わない、とある」
「じゃあ、僕たちのパーティで応募できる」
「ああ。明朝、ギルドに行こう」
ルークが書面を折り畳んで、テーブルに置いた。
僕は窓の外を見た。
嵐の後の空は、嘘のように澄んでいた。星が見えた。月が出ていて、港の海面に白い光の道を作っている。穏やかで、美しい夜だった。
でも、僕の目には、まだ見えていた。
地面の下で、光が脈動している。微かに、規則的に。嵐は去ったが、一度目覚めた遺跡は沈黙に戻らなかった。
デルガの街は、眠れる遺跡の上に建っている。
明日から、その眠りの中に降りていく。




