第19話 鏡蝶の間
第五話 鏡蝶の間
翌々日。僕たちは再び遺跡に潜った。
ミラに一日休めと言われたので、昨日は宿で過ごした。ミラが朝昼晩と軟膏を塗ってくれて、薬草茶を飲まされた。おかげで今日は、頭の重さも目の痛みもない。
遺跡の下層への階段を降りる。前回と同じ道だ。灰色の壁に囲まれた、広い回廊。
ルークが先頭を歩いている。足音がしない。
「前回見つけた通信室の回路を辿りたい。外部に伸びていた回路が、遺跡の内部ではどこに繋がっているのか。ユーリ、紋視は——」
「大丈夫。今日はちゃんと休んだから」
「無理はするな。使うのは必要な場面だけだ」
「分かってる」
ミラが横から僕の顔を覗き込んだ。
「目、赤くなってない?」
「なってないよ」
「本当に? 嘘ついたら薬草茶三杯追加だからね」
「本当に大丈夫だって」
カイが鼻で笑った。
「お母さんかよ」
「お母さんで何が悪いの。ユーリくんはすぐ無茶するんだから」
僕はそんなに無茶をしているだろうか。たぶん、している。
回廊を進み、通信室を通過して、さらに奥へ。前回の探索では引き返した地点を越える。天井が少し低くなり、通路の幅も狭まっていく。
僕は紋視を使った。壁の中の回路を見る。脈動している。ただ——。
「回路の密度が上がってる。さっきまでの回廊より、だいぶ細かくなった」
「深部に近づいているな。重要な区画が近い」
ルークが壁に手を——触れないように、数指の距離を保ちながら——近づけた。
「気をつけろ。活きた回路の密度が高い場所は、罠の可能性も高い」
カイが剣の柄に手をかけた。
回廊が、唐突に終わった。
壁に突き当たったのではない。広い空間に開けたのだ。
天井が一気に高くなった。六人分の背丈はありそうだ。今まで見たどの部屋よりも広い。広間と呼ぶべき空間だった。
そして——。
「……きれいだ」
声が出た。
広間の中央、空中に、何かが漂っていた。
小さな光の粒。無数に。天井近くから床の近くまで、淡く光る粒子が舞っている。
——いや、違う。光の粒だと思ったものは、粒ではなかった。
「蝶だ」
ルークが呟いた。
手のひらほどの大きさの蝶が、何十匹も——いや、百匹以上が、広間の中を舞っていた。翅が光を反射している。灰色の遺跡の中で、蝶の翅だけが虹色に輝いていた。僕たちのランタンの灯りを受けて、翅の表面が七色に変化する。青、紫、緑、金——角度が変わるたびに色が移り変わっていく。
「鏡面蝶だ」
ルークが足を止めたまま、低い声で言った。
「危険度C。翅に鏡のような構造を持つ魔蟲。魔法を反射する」
「魔法を反射?」
ミラの声が緊張で高くなった。
「翅の表面が多層膜になっていて、特定の波長の魔素を跳ね返す。個体は小さいが、群れで行動する。群れると翅が重なり合って——」
「反射の壁を作る、か」
カイが剣を抜いた。静かな金属音が広間に響いた。
蝶たちが、一斉にこちらを向いた。
百を超える蝶が、同時に翅を広げた。
虹色の光が爆発したように広がった。ランタンの光が翅に反射して、広間全体が万華鏡のように輝く。壁にも天井にも、虹色の光斑が踊った。
幻想的で、美しくて——そして、危険だった。
「散るな。固まれ」
カイの声が飛んだ。蝶の群れが一つの意思を持つかのように、僕たちを取り囲むように広がっていく。
「ミラ、魔法は使うな。反射されるぞ」
ルークの警告が間に合わなかった。
ミラの手が淡い緑色に光った。戦闘の気配を感じて、反射的に治癒魔法を構えてしまったのだ。放たれた光が蝶の翅に当たり——鏡のように弾かれて跳ね返ってきた。
「きゃっ——!」
ミラが身を屈めた。跳ね返った治癒魔法がミラの頭上を通過して壁に当たり、淡く緑色に光って消えた。
「大丈夫!?」
「う、うん。当たってない。——ごめん、つい」
「謝るのは後だ。魔法は封印しろ」
カイが前に出た。
蝶の群れが密集し始めた。翅を重ね合わせるように寄り集まり、反射面が連なって壁を作る。虹色に輝く、蝶の翅でできた壁だ。
「あれに魔法を撃ったら全部跳ね返ってくる。やべえな」
僕は紋視を使った。一匹の蝶に焦点を合わせる。
翅の中に——回路があった。
ただの鏡ではなかった。翅の膜の中に、極めて細かい回路が走っている。何層にも重なった薄い膜が、それぞれ違うパターンの回路を持っていた。遺跡の壁の中の回路と似ている。
「ルークさん。蝶の翅の中に回路がある」
「回路?」
「壁の回路と同じようなものが、翅の膜の中に走ってる。何層にもなってて——」
目が、痛んだ。短い鋭い痛み。でも、まだ大丈夫だ。
「——それぞれの層で、回路のパターンが違う。上の層は粗くて、下の層に行くほど細かい」
「多層構造の反射膜か。……なるほど。回路のパターンに規則性は?」
翅の回路を追う。上の層は太い線が数本、平行に走っている。下の層は細い線が網目状に交差している。
そして、気づいた。
「パターンがある。上の層の回路は一方向にだけ走ってる。その方向と垂直な角度からの魔素は、たぶん通り抜ける」
「一方向?」
「翅の回路が横に走ってるなら、横方向からの魔法は反射するけど、縦方向——翅の端の方向からなら反射されない。たぶん。回路がない方向だから」
ルークの目が光った。
「偏光構造だ。特定の方向の波だけを反射する——面白いな。ということは、反射の死角がある」
「うん。でも、群れになると翅の向きがバラバラだから、全方位を反射できてしまう。一匹一匹には死角があっても、群れ全体では死角がない」
「だったら魔法は使えないのか」
カイが苛立った声を出した。
「いや。群れを崩せばいい」
ルークが腰のベルトから何かを取り出した。細い糸の巻かれた筒と、小さな金属の球だ。
「粘着糸と音響球だ。音に反応する性質があるなら——」
「ある」
紋視で見ると、蝶の翅の回路が音に呼応して振動していた。
「音で翅の向きが変わる。大きな音を出せば、一瞬だけ全部の蝶が同じ方向を向く」
「よし」
ルークが金属球を握った。
「聞いてくれ。手順を説明する」
ルークが手早く作戦を伝えた。音響球で蝶の群れを音源の方向に向かせる。翅が音源を向いた瞬間、死角が僕たちの側に向く。その隙にカイが物理攻撃で群れを散らし、ルークが粘着糸で蝶を絡め取る。
「ユーリ、お前の役割は方向の指示だ。蝶の翅がどっちを向いているか、俺たちには分からない。お前の目だけが頼りだ」
「分かった」
「ミラは後衛で待機。魔法は使うな。万が一ユーリに蝶が寄ったら、物理的に払え」
「うん」
ミラがうなずいた。手にはランタンではなく、革鞄の肩紐を握っている。革鞄で蝶を叩く気だ。頼もしいのか、おかしいのか、よく分からなかった。
「行くぞ」
カイが低く言った。
ルークが音響球を広間の奥に投げた。
甲高い破裂音が広間に響いた。壁と天井に反響して、音の波が広がる。
蝶が反応した。百を超える蝶が、一斉に翅を音源の方向に向けた。虹色の光が一方向に集約されて、広間の奥が眩しく輝いた。
——今だ。
「カイさん、右斜め前! 翅の端がこっちを向いてる!」
カイが飛び出した。
剣を横に薙ぐ。物理的な衝撃に、蝶は反射できない。翅が千切れ、虹色の鱗粉が空中に舞い散った。五匹、六匹が床に落ちた。
だが、群れはすぐに立て直した。翅が広がり、再び反射の壁が形成されていく。
「ルークさん、左側の群れが集まり始めてる!」
ルークが粘着糸を投げた。扇状に広がった糸が蝶に絡みつき、十匹ほどが翅を動かせなくなって落ちていく。
二つ目の音響球。破裂音。蝶が音源を向く。
「今! カイさん、左前方!」
カイの剣が閃いた。群れの薄い部分を正確に突いて、横薙ぎに八匹を叩き落とす。
「よっし!」
ルークが三つ目の粘着糸で天井近くの一団を絡め取る。群れが崩れ始めた。半分ほどに減った蝶たちが天井付近に退避して、最後の反射壁を作ろうとしている。
「固まってくれるなら都合がいい」
ルークが最後の道具を取り出した。粘着糸の筒ではない。もっと大きな——網だ。粘着糸を編んで作った投網。いつの間に準備していたのか。
「カイ、もう一度音を頼む。何でもいい、大きな音を」
カイが剣の腹で壁を叩いた。重い金属音が広間に響いた。
天井の蝶が一瞬、音源——カイの方を向いた。
ルークが網を投げ上げた。粘着糸の網が天井近くで広がり、密集した蝶の群れをすっぽりと覆った。
蝶が網に絡まり、翅を動かせなくなり、ゆっくりと落ちてくる。虹色の光が、網の中でちらちらと明滅していた。
「終わりだな」
カイが剣を下ろした。
広間の床に、蝶が散らばっていた。
虹色の翅が、ランタンの光を受けて、まだきらきらと光っている。散った鱗粉が空中に漂い、光の粒子が雪のように舞い落ちていた。さっきまで戦っていたことが嘘のように美しかった。
「ユーリくん、目は?」
「大丈夫。少しだけ使ったから、そんなにひどくない」
「少しだけ、ね。まあ、前回よりはましか」
ミラが僕のこめかみに指を当てて、体温を確かめるように触れた。満足したのか、手を離して革鞄を開けた。
「さて。回収だね」
素材回収は、丁寧に行う必要があった。
「翅粉には素手で触るな。赤く腫れて、三日は治らない。手袋をしろ」
ルークの注意で全員が手袋をはめた。ミラが革鞄から薄手のものを出してくれた。
まず翅粉の回収から。空中に舞っている鱗粉を、油紙の袋で掬い取っていく。虹色の細かい粒子だ。
「この翅粉が、金牌の魔法使いが使う魔法触媒の材料になるんだよ」
ミラが説明してくれた。
「魔法触媒?」
「うん。高位の魔法を発動するとき、触媒があると魔素の制御が格段に楽になるの。鏡面蝶の翅粉は、魔素の反射制御に使われる。すごく高価だよ」
「どれくらい?」
「油紙一包みで銀貨五枚くらいかな」
銀貨五枚。僕たちの宿代が一泊銅貨三枚だから——銀貨一枚が銅貨百枚として——五百泊分。途方もない金額だった。
「……すごい」
「だろ。だからこいつらは倒しがいがある」
カイが蝶の死骸を丁寧に拾い上げた。乱暴に扱いそうな見た目に反して、素材回収のときのカイの手つきは繊細だ。冒険者としての経験が手に染み付いている。
翅は一枚ずつ慎重に外した。蝶の体と翅の付け根を、ミラが持っている小さなナイフで切り離す。翅を傷つけると価値が下がるから、体の方を切るのがコツだとカイが教えてくれた。
「翅自体も装飾品として売れる。この虹色の光沢、見てみろ」
カイが一枚の翅を掲げた。ランタンの光を受けて、翅の表面が青から紫、紫から緑へと色を変えた。まるで宝石を薄く延ばしたような、この世のものとは思えない美しさだった。
「きれいだね……」
ミラが目を細めた。
「貴族の令嬢が髪飾りに欲しがるんだよ。完品なら一枚で銀貨二枚。今日は百匹以上いたから——」
「取らぬ蜥蜴の鱗算用だぞ、カイ」
ルークが横から口を挟んだ。
「全部が完品じゃない。剣で叩いた分は翅が割れている。それに——」
ルークは一匹の蝶の翅を手に取って、油紙越しにランタンに翳した。光が翅を透過して、虹色の模様が油紙に映った。
「——これは……多層構造の反射膜だ。人工物に近い精度だぞ」
ルークの声が変わった。さっきまでの冷静な口調ではなく、抑えきれない興奮が滲んでいる。
「見ろ。翅の断面——肉眼でも分かるくらい、何層にも分かれている。それぞれの層の厚みが均一で、間隔も一定だ。自然にこの精度は生まれない」
「自然に生まれないなら、何なの?」
ミラが首を傾げた。
「分からない。だが、遺跡の壁の中の回路と、この蝶の翅の構造が似ていることは確かだ。ユーリは紋視で回路が見えたと言っただろう。この蝶は——遺跡の産物かもしれない」
「遺跡の産物?」
「遺跡に生息する理由が説明できる。外の森にはいない蟲だ。遺跡の環境に適応した——あるいは、遺跡の回路と何らかの関係がある生物だ」
ルークが翅を丁寧に油紙に包んだ。大切そうに、壊れ物を扱うように。
「面白い。実に面白い」
翅粉は湿気に弱い。油紙の袋を二重にして、口をしっかり閉じた。翅は完品のものだけを選別し、一枚ずつ油紙に挟んで平らに重ねた。
「百十三匹。完品の翅が四十二枚。翅粉は油紙袋に六包み」
ルークが数を数えた。
「銀貨に換算すると?」
「翅粉六包みで三十枚。完品の翅が八十四枚。合わせて百十四枚。四人で割れば一人あたり銀貨二十八枚と少し」
カイが口笛を吹いた。
「一日の探索でそれなら上出来だ」
「素材の鮮度が落ちる前にギルドに届けたいけどね」
「帰りに持ち込もう。今は——もう少しだけ、この広間を調べたい」
ルークが広間の壁を見ていた。
回収を終えて、広間の隅に腰を下ろした。カイが水筒を回す。
「小休止だ。ミラ、何かあるか」
「あるよ。今日はちょっと用意してきたの」
ミラが革鞄から布の包みを取り出した。中身は——硬パンと干し肉と、小さな壺だった。
「はちみつ。市場で買ってきた」
「はちみつ!」
思わず声が出た。辺境にいた頃は高級品で、年に一度くらいしか食べられなかった。
「硬パンにつけて食べると美味しいんだよ。——はい、ユーリくんから」
木のへらではちみつを掬って、硬パンに塗ってくれた。
齧った。
硬パンの素朴な穀物の味に、はちみつの濃厚な甘みが加わって、口の中が幸せになった。遺跡の冷たい空気の中で食べる甘いものは、体の芯まで温めてくれるような気がした。
「……美味しい」
「でしょ」
ミラが嬉しそうに笑った。
カイも硬パンにはちみつを塗って、豪快に齧っている。ルークは——ルークも食べていた。表情はあまり変わらないけど、二口目に手を伸ばす速度が速かったから、気に入ったのだと思う。
ミラが革鞄から小さな布袋を取り出した。乾燥した葉が入っている。
「薬草茶を淹れるね。鎮痛効果があるやつ。水出しでいいの」
革の椀に水と葉を入れてしばらく待つと、水が薄い緑色に変わった。
「はい、ユーリくん」
「僕から?」
「紋視使ったでしょ。予防だよ。頭痛くなってからじゃ遅いの」
一口飲んだ。苦かった。でも、はちみつを垂らすと苦味がまろやかになった。
全員が薬草茶を飲んだ。カイは顔をしかめていたけど、ミラに睨まれて全部飲み干した。ルークだけは苦味を気にする素振りもなく、淡々と飲んでいた。
「ルークさん、さっきの話の続きだけど」
僕は椀を両手で包みながら言った。
「蝶が遺跡の産物かもしれないって」
「ああ。翅の構造が精密すぎる。自然界の蝶の翅にも構造色はあるが、あれほど均一な多層膜は見たことがない。遺跡の回路技術と同じ原理で作られている可能性がある」
「ってことは、昔の人が蝶を作ったの?」
ミラが聞いた。
「作ったのか、遺跡の環境が生んだのか。どちらにせよ、遺跡と無関係ではない」
ルークが懐から翅を取り出し、油紙越しに見つめた。
「遺跡は、ただの建物ではない。その中に生態系がある。回路が生きていて、蝶が棲んでいて、水が流れている。遺跡全体が——一つの環境だ」
広間に沈黙が落ちた。虹色の鱗粉が、まだ空中にわずかに漂っている。ランタンの光を受けて、きらきらと舞い落ちていく。
「……全部、繋がってるのかな」
声に出すつもりはなかったのに、口をついて出た。
「繋がっている。少なくとも、そう考えるのが自然だ」
ルークがうなずいた。
「遺跡の回路、外部へのネットワーク、そしてここに棲む蝶。全てが同じ仕組みの上にある。……面白いな」
ルークの目が、広間の天井を見上げた。鱗粉の残滓が、最後の光を放ちながら床に降りていく。
「ここを造った者たちは、建物だけではなく、中の生き物まで含めた一つの体系を作り上げた。俺たちが見ているのは、その残骸——いや、まだ動いている体系の一部だ」
食事を終えて、僕たちは広間を後にした。
帰路、僕は紋視を使わずに歩いた。ミラとの約束だ。目は少しだけ重たかったけれど、痛みはない。
遺跡は建物ではなく、環境だとルークは言った。回路が生きていて、水が流れていて、蝶が棲んでいる。前回見つけた外部への接続。遺跡が他の遺跡と繋がっている。そしてその中には、回路と同じ構造を持つ蝶がいる。
この世界のどこかで、全部が繋がっている。まだ、その全体像は見えない。
でも——。
「ユーリ、何ぼうっとしてんだ。転ぶぞ」
カイの声で我に返った。
「ごめん。考え事してた」
「遺跡の中で考え事すんな。足元が危ない」
「はーい」
「返事が軽い」
「カイさんに言われたくないなあ」
ミラが笑った。カイが「うるせえ」と返して、ルークが何も言わずに前を歩いていった。
遺跡を出ると、昼過ぎの日差しが眩しかった。
鞄の中の翅粉と翅を、今日中にギルドの鑑定所に持ち込む。それだけで、しばらくは宿代と食費に困らない。
遺跡の奥の、鏡面蝶が舞う広間。虹色の光と、翅の中の回路。ルークの言った「一つの環境」という言葉。
全部を覚えておこう、と思った。いつか、これらの断片が一つの絵になる日が来る気がしたから。




