第15話 海の見える街
第一話 海の見える街
六日目の朝だった。
街道が丘を越えたところで、カイが立ち止まった。
「見ろ」
丘の向こうに、空があった。
いつもの白い空ではない。地平線の果てに、空と溶け合うように広がる、巨大な青。
——海だ。
僕は足を止めて、息を呑んだ。
蒼い。樹海の蒼とは違う蒼さだった。樹海の葉は深く暗い蒼で、光を吸い込むような色をしている。でも海は違った。光を跳ね返して、きらきらと白く輝いている。風が吹くたびに表面が揺れて、光の粒が散る。
魔素の粒ではない。ただの光だ。太陽の光が水面で砕けて、無数の破片になっているだけ。
それなのに、きれいだった。
「……すごい」
声が、かすれた。
「海だよ、ユーリくん」
ミラが隣に立って、同じ方向を見ていた。ミラも海を見るのは初めてのはずだ。目が大きく見開かれている。
「あれが全部、水なの?」
「全部水だ。塩水な。飲めないぞ」
カイが腕を組んで、少し誇らしげに言った。自分の故郷の海を見せている、という顔だった。
「あの海沿いに見える町が——デルガだ」
丘の下に、町が広がっていた。
灰枝とは比べ物にならない。丘の斜面から海岸線にかけて、灰色と白の建物がびっしりと並んでいる。港には何本もの柱のようなものが突き出ていて——あれは船の帆柱だ。十隻、二十隻、いやもっと多い。数えきれないほどの船が港に停泊している。
建物の屋根は灰枝と同じ装甲片だけど、壁は白い石が多い。海からの風を受けて、あちこちに布が翻っている。旗か、日除けか。
人の姿が、蟻のように小さく見えた。
「でかいだろ」
「……うん。すごく」
「灰枝の十倍はあるな。人口は——まあ、数えたことないけど、万はいる」
「万……」
辺境の集落は五十人だった。灰枝で数百人。それが、万。
「行こう」
カイが歩き出した。今までの六日間で一番、足取りが速かった。
デルガの門は、灰枝の木の柵とは全く違った。
石造りの門柱が左右にそびえていて、高さは大人の三倍はある。門柱には冒険者ギルドの紋章と、もうひとつ——剣と歯車を組み合わせた紋章が刻まれていた。反宗教国家の国章だ。
門番が二人立っていた。革鎧に剣を帯びた、いかつい男たちだ。
「身分証」
カイが冒険者証を出した。銀牌。門番の目つきが少し変わった。
僕も鉄牌を出す。ミラはギルド登録はしていないけれど、カイのパーティとして入域できるとカイが説明した。門番は頷いて、通してくれた。
「反宗教国家は冒険者に甘いんだ。遺跡の発掘で経済が回ってるからな。ギルドの身分証は最強の通行証だぞ」
門をくぐった瞬間、音が変わった。
人の声。荷車の車輪が石畳を叩く音。鍛冶の金属音。どこかから聞こえる弦楽器の調べ。そして——潮の匂い。
塩と、魚と、風の匂いが混じったもの。灰枝では嗅いだことのない匂いだった。
「なにこの匂い」
ミラが鼻をひくひくさせた。
「海の匂いだ。慣れるぞ」
「嫌いじゃないかも。なんか……開けた感じがする」
僕もそう思った。樹海の湿った土の匂いとは全然違う。乾いていて、広くて、遠くまで抜ける匂いだ。
通りは広かった。灰枝の大通りの三倍はある。両側に店が並んでいて、果物を山積みにした露店や、布を広げた呉服屋や、武具を並べた工房が軒を連ねている。
人が多い。すれ違うだけで肩がぶつかりそうになる。冒険者らしい武装した男女、荷物を担いだ商人、買い物籠を抱えた女性、走り回る子供たち。
そして——パン屋があった。
通りの角に、石窯を据えた店があった。窯から湯気が立ち上っていて、焼きたてのパンの匂いが漂っている。店先に、丸いパンや細長いパンや、表面に切れ目の入ったパンが山のように積まれている。
「パンだ……」
灰枝では、行商人がたまに持ち込む貴重品だった。一個で銅貨三枚もした。それがここでは、山積みにされて売られている。
「デルガじゃパンは日常食だ。穀物が船で入ってくるからな。一個銅貨一枚もしない」
カイがさらりと言った。
「銅貨一枚……」
「買ってみる?」
ミラが目を輝かせた。
パンを一つ買った。丸くて、表面がこんがり焼けていて、持つとほんのり温かい。
かじった。
外側はぱりっとしていて、中はふわふわで、噛むと小麦の甘みがじんわり広がった。灰枝で食べた硬パンとは別物だ。あれは水で戻さないと食べられなかったけれど、これはそのままで美味しい。
「……美味しい」
「でしょ。焼きたてだもん」
ミラも頬張りながら笑った。
カイはパンを二つ買って、歩きながら食べていた。故郷の味、という顔をしていた。
通りを進むと、港が見えてきた。
石造りの岸壁に沿って、大小さまざまな船が並んでいる。漁船、交易船、小さな渡し船。帆を畳んだものや、帆を広げて出港の準備をしているもの。船の上で人が動き回り、縄を引いたり荷物を運んだりしている。
岸壁の手前に、市場があった。
魚だ。
木の台の上に、銀色の魚が並べられている。大きいもの、小さいもの、平たいもの、細長いもの。甲殻に覆われた生き物や、触手のある生き物もある。どれも初めて見るものばかりだった。
流視で見ると、魚の体には魔素がほとんど含まれていなかった。陸の魔獣とは全然違う。魔素の粒がほぼ見えない、ただの——生き物だ。
「海の魚は魔素が薄いんだ。海水がナノ——……魔素を薄めるのかもな。だから血抜きとか面倒な下処理がいらない。そのまま食える」
カイが言いかけて、言い直した。ナノ、のあとに何を言おうとしたのか分からなかったけど、気にしないことにした。
「この魚、きれい」
ミラが一匹の魚を指さした。銀色の鱗に青い線が入った、手のひらほどの魚だ。
「鰺だな。安くて美味い。デルガの庶民の味だ」
「こっちの大きいのは?」
「鱸。白身で上品な味がする。焼いても煮ても美味いぞ」
カイが魚の名前をすらすら言った。故郷の食材だから詳しいのだろう。
「ねえ、今日の夕飯、魚にしない? 私、魚料理したことないけど」
「やってみりゃいいさ。焼くだけなら難しくない」
ミラが嬉しそうに市場を見回した。魚屋の親父と値段の交渉を始めている。
市場を離れて、ギルドに向かった。
デルガの冒険者ギルドは、灰枝のギルドとは比べ物にならなかった。
三階建ての石造りの建物で、正面に巨大なギルド紋章が掲げられている。入口の扉は開け放たれていて、中から喧噪が漏れ出ていた。
中に入ると、広い。灰枝のギルドの五倍はあるホールに、冒険者たちがひしめいている。壁一面に依頼書が貼り出された掲示板。奥にはカウンターが五つも並んでいて、それぞれに受付がいる。二階に上がる階段があり、そこに「銀牌以上専用」と書かれた札が見えた。
空気が違う。
灰枝のギルドは——なんというか、牧歌的だった。ナタリアが一人で受付をしていて、冒険者同士も顔見知りで、のんびりした空気があった。
ここは違う。視線が鋭い。カウンターの前で冒険者同士が言い争っている。奥のテーブルでは、依頼の取り合いで声を荒げている集団がいる。
僕たちが入ると、何人かの視線が向けられた。カイの銀牌を見て、すぐに目をそらす者。僕の鉄牌を見て、鼻で笑う者。
「鉄牌のガキかよ」
近くのテーブルにいた、革鎧の男がつぶやいた。
カイが軽く睨んだ。男はカイの銀牌を見て、黙った。
「こういう場所だ。気にすんな」
カイが小声で言った。
「灰枝は辺境のギルドだからのんびりしてたけど、デルガは違う。遺跡からの遺物で一発当てようって連中が集まる。競争が激しい分、荒っぽいやつも多い」
カウンターに向かった。受付は三十代くらいの男で、ナタリアとは正反対の無愛想な顔をしていた。
「移管手続き。灰枝支部からの異動だ」
カイが冒険者証を出した。僕も出す。
「灰枝? ……辺境か。書類を見せろ」
ナタリアが書いてくれた移管証明書を渡した。受付の男がざっと目を通す。
「銀牌5。鉄牌7。——パーティか」
「ああ。もう一人、薬師がいる。ギルド未登録だ。新規で入れたい」
「薬師か。登録料は銅貨五枚。——立会い試験は受けるか?」
「試験?」
「デルガ支部は新規登録に立会い試験がある。灰枝じゃないだろうが、ここじゃ最低限の実力確認をする。免除もできるが、試験なしだと銅牌10からのスタートだ」
「私、受けるよ」
ミラがカイの後ろから顔を出した。
「薬師としての登録なら、試験は鑑定と調合で合ってますか?」
「ああ。薬師枠なら鑑定三問と調合一品。通れば銅牌8からだ」
「受けます」
ミラが即答した。受付の男が、少しだけ目を細めた。感心したのか、呆れたのか、よく分からない表情だった。
「……手続きは明日の朝だ。身分証の書き換えに半日かかる。今日は宿を取れ」
ギルドを出た。
「ミラさん、試験大丈夫?」
「たぶんね。薬草の鑑定と調合なら、師匠に叩き込まれてるから。——それより宿だよ。荷物重い」
六日間の旅の疲れが、足に溜まっていた。
宿は港の近くで見つけた。
「潮風亭」という名前の、白い壁の二階建て。一階が食堂で、二階が客室だ。部屋は二つ取った。カイが一人部屋、僕とミラが——。
「男女で同室はまずいだろ」
カイがため息をついた。
「俺とユーリで一部屋、ミラが一人部屋だ」
「えー、私一人?」
「お前一人だ。安心しろ、壁が薄いから何かあれば聞こえる」
部屋は狭かったけれど、窓から海が見えた。
荷物を下ろして、窓を開けた。潮風が入ってくる。遠くに水平線が見える。夕方に近づいて、海の色が藍色に変わり始めていた。
「……きれいだな」
「お前、きれいって言いすぎだぞ」
カイが自分の背嚢を床に放り出しながら言った。
「そうかな」
「そうだ。——まあ、気持ちは分かるけどな」
カイが窓の外を見た。
複雑な顔をしていた。きれいだと思っているのか、懐かしいのか、それとも——。
「カイさん。ここが、カイさんの故郷?」
「……ああ。ここが俺の生まれた街だ」
カイの声は、いつもより低かった。
「生まれた街っていっても、俺が見てた景色はこんなきれいなもんじゃなかったけどな。——下のほうだ。もっと下の、地面の下」
それだけ言って、カイは話をやめた。
地面の下。下水道のことだ。カイが幼い頃を過ごした場所。
訊きたいことはあったけれど、今は訊かなかった。カイが自分から話してくれるまで、待とうと思った。
「さて、飯だ。ミラ、魚はどうする」
カイがいつもの調子に戻って、隣の部屋のミラに声をかけた。
「買ってきた! 鰺を六匹と、あと名前の分からない貝!」
ミラが意気揚々と部屋に入ってきた。革鞄とは別に、油紙に包んだ魚を抱えている。いつの間に買っていたのだ。
「食堂の厨房を借りられるか訊いてくる」
カイが階下に降りていった。
一階の食堂の隅に、宿泊客用の調理台があった。魔石コンロと、装甲片の鍋とフライパンが据えられている。
ミラが鰺を並べた。銀色の鱗に蒼い線。手のひらより少し大きい。
「カイさん、これどうやって捌くの」
「まず鱗を落とす。蒼牙のナイフの背で、尾から頭に向かってこすれ」
カイがミラに教えながら、自分も一匹捌いた。慣れた手つきだった。鱗を落として、腹を開いて、内臓を出す。
「魔獣と違って、血の毒がないから楽だぞ。水で洗うだけでいい」
「ほんとだ。魔素が全然ない。不思議な感じ」
ミラが手を動かしながら言った。薬師として魔獣の素材は散々扱ってきただろうけど、魚は初めてらしい。
「塩を振って、焼く。それだけだ」
カイがフライパンに獣脂を引いた。鰺を並べて、魔石コンロの火にかける。
じゅう、と音がした。
匂いが立ち上った。
——知らない匂いだ。
装甲猪の肉を焼くときの、濃厚な脂の匂いとは全然違う。もっと軽くて、さっぱりしていて、でもしっかりと食欲をそそる匂い。
「いい匂い……」
「だろ。鰺の塩焼きだ。デルガの子供が最初に覚える味だな」
カイが魚をひっくり返した。皮がぱりっと焼けて、端が少し反り返っている。
ミラが貝も調理していた。名前の分からない、手のひらくらいの二枚貝を、蒼酒と香草で蒸している。
「師匠に教わった蒸し方の応用なの。貝も蒸せば口が開くって、市場のおじさんが言ってたから」
貝が一つ、ぱかっと開いた。中から湯気が立つ。
食堂のテーブルに料理を並べた。
鰺の塩焼きが六匹。貝の蒼酒蒸し。それから、さっき買ったパンと、宿の食堂で出してくれた根菜のスープ。
「いただきます」
鰺にかぶりついた。
——美味しい。
白い身がほろりと崩れて、口の中に広がった。淡白で、でも旨みがしっかりある。皮はぱりっとしていて、香ばしい。噛むと、じわっと脂が出てくる。装甲猪の脂とは違う、軽い脂だ。くどさがなくて、いくらでも食べられそうだった。
「……美味しい」
もう一口。今度は身をほぐして、塩味だけで食べた。魚の味そのものが、こんなに美味しいなんて知らなかった。
「魚ってこんなに美味しいんだ……」
「だろ」
カイが得意そうに笑った。
「これでもまだ安い魚だぞ。鱸の刺身とか食ったら、もっとびっくりするぞ」
「刺身って、生で食べるやつだよね。本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だ。明日食わせてやる」
ミラが貝を一つ僕の前に置いた。
「はい、これも食べてみて」
貝の殻を開くと、中にぷりっとした身がある。蒼酒の香りと香草の匂いが湯気と一緒に立ち上る。
口に入れた。
弾力がある。噛むと、潮の味と蒼酒の風味が混じり合って、なんとも言えない旨みが口に広がった。
「これも美味しい……」
「でしょ? 貝って初めて調理したけど、蒸すだけでこんなに美味しいんだね。海ってすごいね」
ミラが自分の分の貝を頬張りながら、幸せそうに笑った。
パンをちぎって、スープに浸して食べた。焼きたてではなくなっていたけれど、それでも美味しい。パンの生地がスープを吸って、柔らかくなって、口の中で溶ける。
灰枝では、パンは特別な食べ物だった。
ここでは、これが普通なのだ。
「カイさんは、子供の頃からこういうもの食べてたの?」
「……いや」
カイが少し間を置いた。
「俺がガキの頃食ってたのは、残飯と——まあ、そういうのだ。ちゃんとした飯を食えるようになったのは、冒険者になってからだな」
また、複雑な顔をした。すぐにいつもの表情に戻ったけれど。
「だから食い物は大事にしろよ。食えるってのは、当たり前じゃないんだ」
「……うん」
カイの言葉が、少しだけ重かった。
鰺をもう一匹食べた。やっぱり美味しかった。
食後、ミラが薬草の整理を始めたので、僕とカイは宿の外に出た。
日が沈みかけていた。
港の向こうに、海がある。水平線が茜色に染まっている。空の高いところはまだ白くて、低いところだけが赤い。海面がその色を映して、揺れている。
潮風が心地よかった。
「明日、ギルドの手続きが終わったら、街を案内してやる」
「うん」
「遺物市場にも行こう。灰枝にはなかったろ。デルガの遺物市場は反宗教国家で最大だ。遺跡から出た遺物が山ほど並んでる。——お前の目で見たら、面白いものが見つかるかもしれないぞ」
「楽しみだ」
海を見ていた。
光の粒が、水面に散っている。夕日の最後の光を受けて、海が金色に光っている。
きれいだった。
樹海の蒼とも、魔素の光とも違う。ただの水と光がこんなにきれいだなんて、知らなかった。
「カイさん」
「ん?」
「いい街だね」
カイが黙って、しばらく海を見ていた。
「……ああ。いい街だよ。——今はな」
その声には、言葉にならない何かが混じっていた。
海からの風が、二人の間を吹き抜けた。潮の匂いと、遠くの波の音。
デルガの夜が、静かに始まろうとしていた。




