第13話 樹海の逃走
第十三話 樹海の逃走
樹海の中を走り続けて、どれくらい経っただろう。
息が切れて、膝が笑っている。喉が焼けるように痛い。毎日の訓練で体力はついたはずだけれど、全速力で走り続ければ限界は来る。
木の根に足を取られて、僕は地面に倒れ込んだ。
蒼い葉が視界を覆う。土の匂いと、苔の湿った匂い。粒が周囲を静かに漂っている。敵意のある光はない。魔獣の気配も——ない。
少なくとも、すぐ近くには。
仰向けになって、荒い息を吐いた。
どのくらい横たわっていたか分からない。
流視で周囲を探ると、南の方角に——光が一つ。
カイだ。
動いている。走っている。こちらに向かっている。その後ろに、もう一つの光。セラス。追いかけている。だが、距離がある。カイが少しずつ引き離しているように見える。
カイが、僕の後を追ってきてくれている。
立ち上がった。足が震えていたけれど、歩き始めた。カイが来る方角に向かって。
数分後、茂みをかき分けてカイが現れた。
左腕を押さえている。袖が焦げていて、その下の肌が赤く腫れている。火傷だ。魔法の直撃ではないが、かすったのだろう。
「カイさん! 腕が——」
「大したことない。かすっただけだ。——あいつ、追ってきてる。だが少し距離を開けた。樹海の中は慣れてないようだ」
「ミラさんは」
「ギルドの連中が匿ってくれるだろう。あいつらも聖騎士に冒険者を引き渡すほど腰抜けじゃない。——問題は俺たちだ」
カイが周囲を見回した。
「ここはどの辺りだ」
「灰枝から南東に——たぶん一里くらい。中層に入りかけてる」
「中層か。まずいな。魔獣が出る」
カイが腕の火傷を舐めた。痛そうに顔をしかめる。
「ユーリ。あの聖騎士の動きは読めるか」
「うん。光が——ゆっくり近づいてきてる。走ってない。歩いてる。慎重に来てる」
「樹海の中は魔獣がいるからな。流石に警戒するか。——よし。距離があるうちに移動するぞ」
カイが立ち上がった。腕が痛いはずだが、表情には出さない。この人はいつもそうだ。
樹海の中層を、流視で安全な道を探しながら進んだ。
魔獣の気配を避けて、魔素の薄い場所を選んで歩く。僕の得意分野だ。蒼苔の採取で毎日歩いていた縁の道とは違うけれど、流視さえあれば大きな魔獣には出会わない。
だが——セラスの光は、じりじりと近づいてきていた。
「速い。樹海の中なのに、速い」
「聖騎士の体術は一流だからな。魔法で身体も強化できるんだろう。——くそ、振り切れないか」
カイが歯噛みした。
そのとき、流視が別の光を捉えた。
「——カイさん、止まって」
「どうした」
「前方に、魔獣。大きい」
大きい、どころではなかった。
光の塊が、木々の間にわだかまっている。密度は棘背蜥蜴と同等かそれ以上。体躯は——棘背蜥蜴の倍はある。背中に棘のような突起が並んでいて、そこから青白い粒が散っている。帯電している。
「棘背蜥蜴……じゃない。でも、似てる。もっと大きい。背中の棘が——六本以上ある」
「六本以上? 普通の棘背蜥蜴は四本だぞ。——まさか、上位種か」
カイの声が低くなった。
「棘冠蜥蜴。危険度B。棘背蜥蜴の上位種で、棘の帯電が比べ物にならない。電撃を広範囲にばら撒く。鉄牌向けの依頼でも複数パーティ推奨の——」
「それが、僕たちの前にいる」
「……最悪のタイミングだな」
引き返せない。後ろにはセラスがいる。迂回するにしても、この密度の樹海の中で上位種の縄張りを回り込むのは時間がかかる。
「静かに迂回する。刺激しなければ——」
背後で、光が弾けた。
白い閃光。セラスの魔法だ。追いついてきたのではない。樹海の中で何かに——蒼牙狼か小型の魔獣に遭遇して、排除したのだ。
だが、その光と音が——
棘冠蜥蜴が、頭をもたげた。
重い振動が地面を伝わってくる。巨体が動き始めた。帯電した棘が、青白い火花を激しく散らしている。威嚇だ。縄張りに侵入した何者かを、排除しようとしている。
「来る! 棘が——八本、全部帯電してる!」
棘冠蜥蜴が姿を現した。
巨大だった。体長は人の背丈の三倍近い。灰色の鱗が装甲のように全身を覆い、背中の棘が王冠のように逆立っている。棘の先端から青白い電撃が走り、周囲の空気がびりびりと震えた。
カイが剣を構えた。左腕の火傷が痛むはずだが、構えは揺るがない。
「ユーリ、弱点は」
「探す——棘の間に……脊椎の付け根に粒が集中してる。そこが核かもしれない。でも棘に囲まれてて、近づけない」
「棘を落とせばいいのか」
「棘は帯電してる。触れたら感電する」
「詰みじゃねえか」
棘冠蜥蜴が咆哮した。地面が揺れる。棘が一斉に放電して、青白い電撃が周囲にばら撒かれた。木の幹に当たった電撃が焦げ跡を残す。
僕とカイは別方向に転がって避けた。電撃の後に一瞬だけ——棘の放電が止まる間がある。
「カイさん! 放電の直後に一瞬、棘の電気が弱まる! その間に——」
「短すぎる! 一人じゃ——」
そこに、白い光が割り込んだ。
セラスだった。
追いついてきたのではない。棘冠蜥蜴の咆哮を聞いて、走ってきたのだ。
セラスの表情が——変わっていた。無表情ではない。目が鋭く、口元が引き締まっている。戦闘の顔だ。
「——下がりなさい」
僕たちに向けた言葉ではなかった。蜥蜴に向けている。
短い詠唱。二語。
白い光が凝縮されて、細い槍のような形になった。それがセラスの手から放たれて、棘冠蜥蜴の脇腹に着弾した。
鱗が砕けた。だが——貫通しない。蜥蜴の装甲は厚い。
蜥蜴がセラスに向き直った。棘が帯電する。
「あの棘、来ます! 右の三本が先に——」
声が出ていた。考える前に。流視が捉えた棘の動きを、そのまま叫んでいた。
セラスが反応した。
右に身を躱す。三本の棘が空気を裂いて飛び、セラスの立っていた場所を貫いた。残りの棘が追撃——セラスが白い光の壁を展開して、棘を弾いた。
僕の声を、聞いたのだ。敵であるはずの僕の声を、迷わず信じて動いた。
「——ありがとう」
セラスがこちらを一瞬だけ見た。小さく呟いた声が、戦闘の喧騒の中で聞こえた。
カイがその隙を見逃さなかった。
放電の合間。蜥蜴がセラスに注意を向けている間に、カイが死角から走り込んだ。左腕が使えないから、右手一本で剣を振るう。鱗の薄い脇腹——セラスの魔法が砕いた場所を、さらに深く切り裂いた。
蜥蜴が悲鳴を上げて暴れた。尾が振り回される。カイが後ろに跳んで避ける。
「脊椎の付け根! あと少し上!」
僕が叫んだ。
セラスとカイが——同時に動いた。
セラスの白い光が棘を打ち払い、カイの剣が背中に突き立つ。脊椎の付け根——粒が集中していた核を、刃が貫いた。
棘冠蜥蜴が痙攣して——倒れた。
巨体が地面を揺らし、帯電した棘が最後の火花を散らして消えた。
三人が、荒い息をつきながら立っていた。
蜥蜴の死骸を挟んで、カイと僕が片側に、セラスがもう片側に。
沈黙が落ちた。
セラスが剣の柄に手をかけていた。細剣——使わなかったが、いつでも抜ける態勢だ。カイも剣を構えたまま。
「……続きをやるか?」
カイが低い声で言った。
セラスは——黙っていた。
長い間、黙っていた。
それから、手が剣の柄から離れた。
「……今日のところは、退きます」
「は?」
「民間人を巻き込む戦闘は、聖騎士の規範に反します。灰枝の町中で術を使ったのは——私の判断ミスでした」
「随分殊勝じゃねえか」
「事実です。——ただし」
セラスの淡い瞳が、僕を射抜いた。
「あなたの目のことは、報告します。禁忌に触れる能力は、管理しなければならない。それが——この世界を守ることだから」
「守る? 何から守るんだよ」
僕の口から、言葉が出ていた。
「僕の目が、何を脅かすっていうの。見えるだけだよ。粒が見えるだけ。それの何が——」
「知らないほうがいいことがあるのです」
セラスの声が、わずかに震えた。
「知ってしまったら——戻れなくなる。あなたも、あなたの周りの人も。かつて、知ってしまった国があった。その国は——もう、ない」
神罰。
あの光の柱で消えた国の話をしているのだ。
「……あなたは、見たんですか。その国が消えるところを」
セラスの表情が——一瞬だけ、崩れた。苦しそうに、唇を噛んだ。
「……質問には答えません。——次に会うときは、あなたを連れ帰ります。覚悟してください」
セラスが背を向けた。白い装束が夕暮れの樹海に消えていく。
光が——遠ざかっていく。あの美しく、整然とした光が。
僕はその背中を見送りながら、一つだけ確信していた。
あの人は、悪い人じゃない。
苦しんでいる。自分のしていることに、本当は苦しんでいる。
——でも、だからといって、捕まるわけにはいかない。
「……行ったか」
カイが剣を鞘に収めた。左腕を庇いながら、ふう、と息をついた。
「上位種を三人で倒したのに、誰も素材を回収しないのは初めてだぜ」
「……素材」
棘冠蜥蜴の死骸を見た。巨大な体躯。棘鱗は上位種だから品質が高い。流視で見ると、鱗に残った粒の密度が——普通の棘背蜥蜴の倍はある。
「棘鱗は上位種だと格段に品質がいいよ。帯電能力が残ってるから、武器に使えば雷の付与ができる。背中の棘は——」
「回収してる場合じゃないだろ。あの聖騎士が戻ってくるかもしれない」
「……そうだね」
でも、もったいない。冒険者として、素材を目の前にして立ち去るのは——すごく、もったいない。
カイが僕の顔を見て、笑った。
「お前、今すごく惜しそうな顔してるぞ」
「……してない」
「してる。棘だけ持っていくか。軽いから」
結局、棘を二本だけ回収した。上位種の棘は帯電能力が残っている分、素材としての価値が高い。一本で銀貨二枚は下らないとカイが言った。
戦闘後の素材回収。どんな状況でも、冒険者の習慣は変わらない。




