第一話 光の粒
第一話 光の粒
光の粒が、舞っていた。
朝霧に混じって漂う、目に見えるか見えないかの微かな光。蒼い葉の隙間から差し込む朝日とは別の、もっと小さくて、もっと静かなもの。空気の中に溶けた砂金みたいに、あちこちでちらちらと瞬いている。
僕にはそれが見える。物心ついた頃から、ずっと。
樹海の縁に沿って歩きながら、足元の蒼苔を探していた。
苔は湿った岩の表面に薄く広がっていて、指で触ると冷たくてしっとりしている。蒼い。この森の植物はどれも蒼い。葉も苔も蔦も下生えも、深い海の底のような色をしている。小さい頃からそういうものだと思っていたから、別に疑問を感じたことはなかった。樹海とは蒼いものだ。水は透明で、空は青くて、森は蒼い。それだけのことだ。
光の粒は、苔のあたりにわずかに多い。地面に近いところで密度が上がって、うっすらと明るく見える。この粒を、村の人たちは「魔素」と呼ぶ。大地の恵みであり、神々の息吹であり、世界を満たすもの。子供の頃にそう教わった。
僕にとっては、ただの光の粒だった。きれいだとは思うけれど、それ以上の意味は考えたことがない。
革袋の口を開いて、岩肌から苔を丁寧に剥がす。根元から千切らないように、蒼牙のナイフの先を使って薄く削ぐのがコツだ。根を残しておけば、半月もすればまた生えてくる。毎年同じ場所で採れるのは、そうやって場所を荒らさないからだ。
ばあちゃんに教わった。「食べるぶんだけ採りな。欲をかくと、来年から採れなくなるよ」と。
革袋に苔を詰めていると、ふと視界の端で光の粒の動きが変わった。
顔を上げる。
右手の茂みの奥、三十歩ほど先。光の粒がわずかに濃い場所がある。周囲よりも密度が高くて、ぼんやりとした光の塊のように見える。何かがいる。粒の密度が高いということは、魔素をたくさん含んだ生き物がそこにいるということだ。
大きさからして——装甲猪だろう。背中に石みたいな硬い殻をかぶった、ずんぐりした獣。動きは鈍いけれど、怒ると頭を下げて突っ込んでくる。殻が硬いから、素手ではどうにもならない。村の猟師でも、仕留めるには蒼牙の槍か罠が要る。
ただ、こちらから近づかなければ向こうも来ない。装甲猪は縄張り意識が強いだけで、積極的に襲ってくる性質ではないのだ。
「……そっちには行かないから」
小さく呟いて、反対側に足を向けた。光の塊がゆっくりと遠ざかっていくのを横目で確認する。うん、大丈夫。向こうもこちらに気づいていないみたいだ。
こういうとき、この目は便利だと思う。
村の人たちにはよく「勘がいい」と言われる。魔獣に出くわさない。きのこの生えている場所を当てる。天気の変わり目が分かる。雨が降る前には、空の粒の動きがなんとなくざわつくから、それで分かるだけなのだけれど。
勘じゃない。見えているだけだ。
でもそれを説明するのは面倒だし、説明したところで「ふうん、変なの」で終わるから、僕は「まあ、なんとなく」と答えることにしている。
魔素が見える。ただそれだけのことで、魔法が使えるわけじゃない。この村にも魔法を少し使える人が何人かいるけれど、僕はまったく駄目だ。祈祷師のドーラばあさんに「お前は素養がない」とはっきり言われた。魔素が見えるのに魔法が使えないのは変だとも言われたけれど、変だと言われても使えないものは使えない。
見えるだけ。それが僕の全部だ。
蒼苔を十分に採り終えて、僕は革袋の口を紐で縛った。ついでに、道すがら目についた食用のきのこも少し摘んだ。傘が薄い灰色をした平茸で、獣脂で炒めると香ばしくて美味しい。毒きのこと間違えやすいけれど、魔素の粒の散り方が違うので、僕にはすぐ分かる。毒のあるきのこは、周囲の粒を微かに弾くような感じがする。食べられるほうは粒と馴染んでいる。
立ち上がって腰を伸ばすと、蒼い葉の天蓋の向こうに朝の空が見えた。風が吹いて葉が揺れ、木漏れ日が地面に落ちる。その光に混じって、小さな粒たちが緩やかに踊っていた。
きれいだと思った。
ただ、それだけのことだ。
集落に戻る道は、樹海の縁に沿って獣道のように細く続いている。片側が蒼い茂み、もう片側が開けた草地で、草地の向こうに集落の灰色い屋根が見えた。
通りに出ると、干し肉の匂いが漂っていた。
エダおばさんが軒先で装甲猪の肉を薄く切って竿に掛けている。猪の肉は脂が多くて、塩を擦り込んで天日に干すと、歯応えのある干し肉になる。半月ほど干せば、ひと冬は持つ保存食だ。
「ユーリ、苔は採れたかい」
「うん、けっこう採れたよ。岩場のあたりにたくさんあった」
「あんたはいつもいい場所を知ってるねえ」
エダおばさんは恰幅のいい女性で、声が大きくて、よく笑う。この村で装甲猪の解体をさせたら右に出る者はいない。夫のランドが猟師で、仕留めた猪をエダおばさんが捌いて、肉と干し肉と燻製肉を作って、村中に配る。装甲片は鍛冶のゴルドじいさんのところへ行って、壁材や鍋やフライパンになる。骨は建材に。内臓は畑の肥料に。魔石は村の共有財として貯蓄される。
装甲猪一頭で、村のあちこちが少しずつ豊かになる。この村の暮らしは、そういうふうにできていた。
「ほら、これ持っていきな」
エダおばさんが干す前の生肉を一切れ、葉っぱに包んで差し出してくれた。厚みのある赤身に、白い脂の筋が走っている。
「ありがとう、エダさん」
「いいよ。マルタに言っときな、塩は控えめがいいって。この猪は脂が乗ってるから、塩が強いともったいないよ」
うなずいて、僕は通りを歩いた。
集落は小さい。家が二十軒と少し。樹海の縁を切り拓いた、ほんのわずかな平地に身を寄せ合うように建っている。壁は装甲猪の殻——装甲片を並べて固めたもので、灰色がかった白い壁が陽の光を鈍く反射していた。屋根は棘背蜥蜴の鱗を葺いた家もあるが、うちは木の板葺きだ。蜥蜴の鱗は断熱に優れていて、夏は涼しく冬は暖かいと聞くけれど、うちにそんな贅沢をする余裕はなかった。
広場を横切ると、子供たちが走り回っていた。タクとミーシャが追いかけっこをしている。五つと三つの兄妹で、二人とも元気がよすぎて、よく転ぶ。
「ユーリ兄ちゃん! 今日も樹海行ってたの?」
「うん。苔を採りにね」
「こわくないの?」
タクが立ち止まって、大きな目で僕を見上げた。
「……別に。怖いことなんてないよ」
「おとうが言ってたよ、樹海の奥には怖い獣がいっぱいいるって。入ったら食べられるって」
「縁のほうだけだから大丈夫だよ。奥には入らない」
「ほんと?」
「ほんと」
タクが安心したように笑って、またミーシャを追いかけて走っていった。
この村の子供たちは樹海を怖がる。大人たちがそう教えるからだ。樹海には魔獣がいる、奥に入れば神の領域だ、不用意に踏み込めば命はない——そういう話を聞かされて育つ。それは嘘じゃない。樹海の奥には、装甲猪なんかよりずっと危険な魔獣がいる。光の粒の密度がとんでもなく高い場所があって、そういうところには近寄らないほうがいい。
だから大人たちの教えは正しい。正しいのだけれど——僕は、怖いと思ったことがなかった。
光の粒が見えるからだ。何がいて、どこが危なくて、どう避ければいいかが分かる。見えるものは、怖くない。見えないから怖いのだ。
……たぶん。
よく分からないけれど、たぶんそういうことだと思う。
家に帰ると、台所でばあちゃんが芋の皮を剥いていた。
「おかえり、ユーリ。早かったね」
「うん。苔がたくさんあったから。あと、エダさんが肉くれた」
「おや、ありがたいね。今日の夕飯は豪勢だ」
マルタばあちゃん。僕の育ての親だ。白い髪を後ろで束ねた小柄な老婆で、腰が少し曲がっているけれど、手先は器用で、縫い物と料理が上手い。
本当の親のことは覚えていない。物心ついた頃にはもう、この小さな家でばあちゃんと二人きりで暮らしていた。両親は僕が小さい頃に樹海で死んだと聞いている。魔獣に襲われたのか、別の事故かは分からない。ばあちゃんはあまり詳しく話したがらないし、僕もあまり聞きたいと思わなかった。
いないものはいない。それより、今いるばあちゃんと、今日の夕飯のほうが大事だ。
台所の隅に据えた魔石コンロに、ばあちゃんが小さな石を差し込んだ。親指の爪ほどの、薄く光る石——粗石と呼ばれる、一番安い等級の魔石。これ一つで三日くらい火が持つ。コンロの上に載せた装甲片の鍋が、じわりと温まり始めた。
僕の目には、粗石の中で光の粒がゆっくりと動いているのが見えた。
石の中に、細い筋のようなものがある。枝分かれしながら広がっている、規則的な模様。粒はその筋に沿って流れていて、流れるたびに熱が生まれるらしい。
魔石の中身。誰に聞いても「光るし熱を出す不思議な石」としか教えてくれないけれど、僕の目にはもっと複雑なものに見えた。筋は規則的に枝分かれしていて、まるで——なんだろう。木の根? 血管? 何かの仕組みのように見えるのだけれど、それが何なのかは分からない。
分からないから、考えても仕方がない。
「ユーリ、きのこも洗っておくれ」
「うん」
平茸を水で洗って、手で適当な大きさに裂く。ばあちゃんが獣脂——装甲猪の脂を精製したもの——をフライパンに薄く敷いて、きのこを炒め始めた。香ばしい匂いが台所に広がる。
夕飯の支度が整った。
蒼苔のスープ。蒸し芋。きのこの炒め物。それから、エダさんにもらった装甲猪の肉の塩焼き。
肉を焼くのは僕の役目だ。装甲片のフライパンに獣脂を薄く敷いて、控えめに塩を振った肉を載せる。魔石コンロの火は安定していて、強すぎず弱すぎず、肉が均等に焼ける。脂がじゅわりと染み出して、フライパンの上でぱちぱちと音を立てた。表面に焼き色がついたら裏返す。断面から肉汁が滲んで、脂の甘い匂いが立ち上る。
エダさんの言うとおり、塩は控えめにして正解だった。
焼き上がった肉を皿に載せて、二人で食卓についた。
手を合わせて、小さく祈る。「大地と神々に感謝を」——形だけの祈りだけれど、ばあちゃんは欠かさない。
装甲猪の肉にかぶりつく。繊維が太くて噛み応えがあり、噛むほどに脂の甘みがじわりと広がった。蒼苔のスープを啜ると、苔の苦みがそれを引き締めて、口の中がさっぱりする。蒸し芋のほくほくした食感が箸休めになって、きのこの香ばしさが全体を引き立てた。
質素な食事だ。都会の人間が見たら笑うかもしれない。でも、温かくて、美味しくて、悪くない。
「ユーリ」
「ん?」
「今日、樹海でなにか変わったことはなかったかい」
ばあちゃんが蒼酒——樹海の果実を発酵させた甘い酒——を小さな杯に注ぎながら聞いた。蒼みがかった透明な液体で、度数は低い。ばあちゃんは夕飯にこれを一杯だけ飲むのが習慣だった。
「装甲猪がいたけど、遠かったから大丈夫だったよ」
「そうかい。……最近ね、村の東のほうで蒼牙狼の遠吠えが聞こえるって話だよ。気をつけるんだよ」
「うん、分かった」
蒼牙狼。群れで動く獣で、装甲猪よりずっと厄介だ。蒼く光る牙を持っていて、噛まれると魔獣の血が傷口に入る。魔獣の血は人の体に良くない。体の中の何かの均衡を崩すと言われていて、高熱が出たり、傷が膿んだり、ひどいときは命に関わる。
——僕の目が、こうなった理由も、それだった。
小さい頃、樹海の縁で遊んでいた僕は、手負いの魔獣の血を目に浴びた。どんな魔獣だったのかは覚えていない。覚えているのは、赤黒い血が視界を塗りつぶして、何も見えなくなったこと。ばあちゃんの悲鳴。それから長い、暗い時間。
村の薬師が手を尽くしてくれて、目は治った。
ただし、前と同じようには見えなくなった。遠くのものがぼやける。細かい文字が読みにくい。夜は特にひどくて、暗がりでは人の顔の輪郭がやっと分かるくらいだ。
その代わりに——光の粒が見えるようになった。
魔素、と呼ばれるもの。空気の中に漂う、目に見えない粒。普通の人には見えないそれが、僕の目にはちらちらと光って見える。
ばあちゃんはずいぶん心配してくれたけれど、僕自身はそれほど困っていなかった。遠くが見えなくても、光の粒で周囲の様子は分かる。何がどこにいるか。どこが安全でどこが危ないか。文字はゆっくり読めばいいし、夜道は粒の光で歩ける。
むしろ得をしているくらいだと、僕は思っていた。
食事を終えて、皿を洗った。
ばあちゃんが魔石灯の薄い光の下で繕い物を始める。苔皮の手袋の親指のところがほつれていて、蟲糸の細い糸で縫い直している。蟲糸は高級品だけれど、行商人が時々持ってくるくず糸なら安い。それでも十分丈夫で、ばあちゃんの縫い物には重宝していた。
僕は窓辺に腰かけて、外を見た。
夜の集落は静かだ。いくつかの窓から魔石灯のぼんやりした光が漏れていて、夜の空気に溶けている。その光に混じって、夜にも粒は漂っていた。昼間より少ないけれど、確かにそこにある。
樹海のほうを見ると、粒の密度がわずかに高い。いつもそうだ。樹海はいつだって、この集落より魔素が濃い。蒼い葉が魔素を集めるのか、魔素が多いから蒼い葉が育つのか——どちらなのかは分からない。鶏が先か卵が先か。
集落の向こう、樹海の蒼い稜線の上に、星が瞬いていた。星の光は粒とは違う。もっとずっと遠くて、冷たくて、動かない。蒼い葉と灰色の屋根と、光の粒が漂う夜の空。いつもと同じ、穏やかな夜だった。
「……明日も、苔を採りに行こう」
誰に言うでもなく呟いて、窓を閉めた。ばあちゃんが顔を上げて、少し笑った。
この頃の僕は、まだ知らなかった。
あの光の粒が何なのか。蒼い葉がなぜ蒼いのか。魔石の中の不思議な模様が何を意味するのか。
そして——僕のこの目が、この世界にとってどれほど特別なものなのかを。
光の粒が舞う穏やかな日々は、もうすぐ終わろうとしていた。




