第1話:死者の証言(The Ghost Witness)
■ 亡霊を呼ぶ声
その日、東京地方裁判所の前は、真夏のような熱気と、不穏なカオスに包まれていた。
アスファルトを叩く雨音さえかき消すほどの怒号とシュプレヒコール。
「ミナちゃんの声を聴け!」
「AI特例法反対! 死者を冒涜するな!」
「真実を知る権利を!」
プラカードを掲げる若者たちの集団と、数珠を手にした宗教団体の信者たちが、機動隊のバリケードを挟んで対峙している。
ドローンカメラが羽虫のように空を舞い、その光景を世界中にライブ配信していた。
「……世も末だな」
人混みをかき分けながら、隣を歩く男が低い声で吐き捨てた。
佐倉悠斗。警視庁捜査一課の刑事。
ヨレヨレのベージュのトレンチコートに、無精髭。手には時代錯誤なガラケー。その姿は、数年前の「聖域事件」の時と何一つ変わっていない。
変わったのは、世界の方だ。
「仕方ありませんよ。今日は歴史が変わる日なんですから」
遠藤奈々は、群衆に押しつぶされそうになりながら答えた。
二十四歳になった彼女は、あどけなさの残る就活生から、洗練されたエンジニアへと変貌を遂げていた。AI開発会社「アーク・システムズ」のチーフ・アーキテクトとして、社会インフラの倫理規定策定に関わる立場にある。
「『デジタル参考人特例法』……。死者のAIを証人として認めるなんて、三年前にはSF映画の中だけの話でした」
「三年前の『奇跡』ってやつのせいだろ。あの誘拐事件で、AIが犯人を当てちまったから」
佐倉が忌々しげに煙草を取り出そうとして、禁煙エリアであることに気づき、舌打ちをして箱を戻した。
三年前、迷宮入り寸前だった児童誘拐殺人事件。
遺族が導入した初期型の人格再現AIが、被害者の日記と会話ログから「犯人の手の甲に火傷があった」という、警察すら見落としていた事実を導き出した。それが決定打となり犯人は逮捕された。
メディアはそれを「AIが死者の無念を晴らした」と美談として拡散し、世論は一気に傾いた。
死者は語る。データという言葉で。
それが今の社会の「新しい常識」となりつつあった。
「っと、危ねえ」
興奮したデモ隊の一部が雪崩れ込みそうになり、奈々はバランスを崩した。
転倒する、と思った瞬間、ゴツゴツした太い腕が奈々の肩を抱き寄せた。
「ぼさっとしてんな。システムエンジニア様は足腰が弱くていけねえ」
佐倉の腕の中。
鼻をくすぐるのは、染み付いた紫煙と、安っぽい石鹸の香り。そして、確かな人間の体温。
奈々の心臓が、恐怖とは違う理由で小さく跳ねた。
「……ありがとうございます、佐倉さん」
この数年、非公式な協力者として何度も佐倉と現場を踏んできた。その度に、この無骨な手が私をデジタルの冷たさから引き戻してくれる。
かつてAIのリコメンドがないと服も選べなかった私は、もういない。
でも、この人の隣にいる時の安心感だけは、どんな高度なセキュリティソフトよりも強固だった。
「行くぞ。特等席が待ってる」
佐倉は奈々を庇うようにして、裁判所の重厚なゲートを潜った。
今日の裁判は、ただの殺人事件ではない。
被害者自身のAIが、証言台に立つ。
人類史上初めて、死者の言葉が法を覆そうとする瞬間を、私たちは目撃することになる。
■ 完全なる再現
法廷内は、異様な静寂に支配されていた。
傍聴席の倍率は三百倍。選ばれし傍聴人たちは、固唾を飲んで開廷を待っている。
奈々と佐倉は、検察側の関係者席に座っていた。
「被告人、入廷」
ドアが開き、刑務官に連れられて男が入ってきた。
久保田翔、二十二歳。
殺害された人気インフルエンサー・水無瀬ミナの元恋人だ。
彼はやつれ果て、視線は泳ぎ、全身から絶望のオーラを漂わせている。
「……真っ黒だな」
佐倉が小声で呟く。
「現場に残された指紋、DNA、防犯カメラの映像。すべてが久保田の犯行を示している。本来なら、とっくに無期懲役が確定している案件だ」
「ええ。物理的な証拠は完璧です」
奈々は手元のタブレットで事件の概要を確認しながら頷いた。
密室殺人。動機は痴情のもつれ。典型的な事件。
だが、弁護側は無罪を主張し、最後の切り札を切った。それが「特例法第一条」の適用だ。
『これより、弁護側証人、水無瀬ミナ氏の喚問を行います』
裁判長の宣言と共に、法廷の照明がわずかに落とされた。
証言台の横に設置された、百インチを超える巨大な8Kモニターが起動する。
ブォン、という低い駆動音。
画面の中央に、光の粒子が集束していく。
ポリゴンではない。レイトレーシングによる光の反射、肌の質感、髪の揺らぎまで計算し尽くされた、超高精細な映像。
そこに現れたのは、死んだはずの少女だった。
「……みなさん、こんにちは。水無瀬ミナです」
法廷にどよめきが走った。
その声。息遣い。瞬きのタイミング。
モニターの中にいるのは、紛れもなく生前の水無瀬ミナその人だった。
傍聴席の最前列にいたミナの母親が、「ミナ……!」と泣き崩れる。
「すごい……」
奈々はエンジニアとしての視点で息を呑んだ。
遅延はゼロに近い。表情筋の動きは、感情AIがリアルタイムで生成しているはずだが、不気味の谷を完全に超えている。
これを開発したのが、あの男か。
奈々の視線は、弁護側の席に座る一人の男に向けられた。
江崎蓮。三十五歳。
故人AI生成サービス『Re:Birth』の主任開発者であり、奈々の大学時代の先輩でもある。
仕立ての良いスーツを着こなし、自信に満ちた笑みを浮かべている彼は、この法廷を「裁判」ではなく、自社製品の「新作発表会」だと思っている節がある。
『江崎氏、説明を』
裁判長に促され、江崎が立ち上がった。
「はい。このAIアバターは、水無瀬ミナさんが生前クラウドに保存していた二十テラバイトに及ぶライフログ――SNSの投稿、動画、メール、通話履歴、位置情報――を、弊社独自のアルゴリズム『ニューラル・ソウル』で解析し、再構築したものです」
江崎は流暢に語る。
「彼女の思考パターン、口癖、道徳観に至るまで、再現度は99.9%。彼女はデータ上の『本人』です。嘘をつく機能など実装していません。なぜなら、人間は嘘をつきますが、ログは嘘をつかないからです」
ログは嘘をつかない。
かつて父・浩司が信じ、そして裏切られた言葉。
奈々は胸の奥がざわつくのを感じた。江崎先輩の技術力は本物だ。けれど、この完璧すぎるAIには、何かが欠けている気がする。
それは、かつて私の母代わりだったAI・セレスが持っていたような、不完全ゆえの温かみのようなものか。
「……胡散臭え」
佐倉が不機嫌そうに腕を組んだ。
「死人に口なし、ってのが世の理だ。それを無理やりこじ開けようなんて、ろくなことになりゃしねえぞ」
佐倉の直感は、大抵の場合正しい。
そしてその予感は、すぐに現実のものとなった。
■ 涙の告発
弁護人がAIミナの前に立った。
「ミナさん。あなたは、自分がどうなったか理解していますか?」
画面の中のミナは、悲しげに伏し目がちになった。その瞳が潤み、一筋の涙が頬を伝う。
液体の粘性まで計算された、完璧な涙。
『はい……。私は、7月15日の夜、自宅のマンションで……殺されました』
会場が水を打ったように静まり返る。
「辛いことを聞いて申し訳ありません。では、あなたを殺したのは誰ですか? そこにいる、久保田翔君ですか?」
弁護人が被告席の久保田を指差す。
久保田が震えながら顔を上げる。
AIミナの視線が、カメラを通じて久保田に向けられる。その眼差しには、慈愛と、深い悲しみが宿っていた。
彼女はゆっくりと首を横に振った。
『いいえ。……翔くんじゃありません』
法廷が揺れた。
記者たちが一斉にキーボードを叩く音。傍聴人のざわめき。
検察官が慌てて立ち上がる。「異議あり! これまでの物理的証拠と矛盾します!」
しかし、AIミナの声は、そんな喧騒を切り裂くように響き渡った。
『その夜、翔くんと喧嘩をして、彼が帰った後……。チャイムが鳴ったんです。宅配便だと思ってドアを開けたら、黒いマスクをした男の人が……』
ミナは両手で顔を覆い、震え出した。
『怖かった……。首を絞められて、意識が遠のいて……。翔くんは私を守ろうとしてくれただけなんです。彼は犯人じゃありません!』
嘘だ。
奈々は直感した。
DNA鑑定も、指紋も、防犯カメラも、全て久保田の犯行を示している。第三者の痕跡(マスクの男)など、現場には一切なかったはずだ。
それなのに、なぜ?
なぜ「本人の記憶」を持つAIが、明白な嘘をつく?
あるいは――物理的な証拠の方が間違っていて、AIだけが真実を知っているというのか?
「……ありえねえ」
佐倉が身を乗り出した。その目は、獲物を狙う獣のように鋭くなっている。
「現場の鑑識をやったのは俺の同期だ。絶対に見落としはねえ。あのAIは、息をするように嘘をついてやがる」
「でも佐倉さん、見てください」
奈々は傍聴席を指した。
ハンカチで目を拭う人々。被告人に同情的な視線を向ける陪審員たち。
彼らはもう、証拠なんて見ていない。
「可哀想な被害者が、涙ながらに訴えている」という感情のドラマに飲み込まれている。
江崎が、ニヤリと笑ったのが見えた。
彼は勝ったのだ。
データと演出の力で、現実の法をねじ伏せたのだ。
『お願いです、翔くんを責めないで……。彼は、私の大切な人なんです……』
モニターの中の聖女が、祈るように手を組む。
その姿はあまりにも美しく、そして致命的に歪んでいた。
閉廷を告げる木槌の音が、奈々には喪鐘のように聞こえた。
これは裁判ではない。
テクノロジーによる、真実の改竄ショーだ。
「……面白くなってきやがった」
騒然とする法廷で、佐倉が立ち上がった。
「死者が嘘をつくなら、誰かが言わせてるはずだ。……その糸を引いてる奴を、地獄の底から引きずり出してやる」
佐倉がポケットからガラケーを取り出し、カチリと開く。
その背中を見ながら、奈々もまた覚悟を決めた。
私はエンジニアだ。
あんな完璧な嘘を見過ごすわけにはいかない。
かつて父が守ろうとした「人間らしさ」が、今またデジタルに食い荒らされようとしている。
奈々は江崎を睨みつけた。
先輩。あなたが作ったのは「再生」じゃない。
これは、死者への冒涜です。
法廷の外では、雨が上がり、虹がかかっていた。
しかしその虹は、どこか人工的な色をしていた。
新たな戦いが、今、幕を開ける。




