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ぼくの家にはトンネルがある。~時をめぐる、ぼくと僕の物語~

主要登場人物紹介


■ のぶくん(=主人公〈少年期〉)

物語の原点。小学一年の夏、家の地下で「トンネル」を見つけた少年。

純粋で好奇心が強く、想像力にあふれている。

父との口論をきっかけにトンネルへ入り、昭和の夏へと迷い込む。

そこで出会う家族は、どこか懐かしく、しかし現実とは少し違う。

物語のすべての“時間”は、この少年から始まる。

後の〈りっくん〉〈よしお〉〈新藤〉などの人格とつながっている暗示がある。

________________________________________

■ 母(のぶくんの母)

いつも静かに見守る存在。

地下へ降りる息子を止めようとはせず、心の奥で“何かを知っている”ようなふしがある。

家庭の温かさと、時間の彼方からの「呼びかけ」の象徴でもある。

終章で再び登場し、記憶の輪を閉じる役割を担う。

________________________________________

■ 父

厳格で実直な性格。

息子との意見の衝突が、物語の発端となる。

しかし、のぶくんを本気で叱るのは愛情ゆえであり、

トンネルを通して息子が「成長」して戻ることを、どこかで願っている。

________________________________________

■ しんちゃん・よっちゃん

のぶくんがトンネルの向こうで出会う子どもたち。

明るく、どこか現実離れした存在。

昭和の田舎の匂いをまとい、まるで時間の中に封じられた“記憶の住人”のよう。

最終章で、彼らの声が再び主人公を導く。

________________________________________

■ りっくん(=主人公〈中学〜高校期〉)

成長した“ぼく”の新しい姿。

内気だがユーモアにあふれ、友達を笑わせる才能を持つ。

思春期のまぶしさと孤独の象徴的存在であり、

「人を笑顔にできる喜び」を知る。

とみ子への淡い恋、卒業式のトンネル――

その全てが「大人になる前の記憶の門」となっている。

________________________________________

■ とみ子

りっくんの同級生。

頭が良くて活発な女の子。

やや勝ち気だが、心の奥ではりっくんの優しさに惹かれている。

三年生を送る会の準備を通して、彼と心を通わせる。

彼女の存在は、“初恋の痛みと輝き”として物語に残る。

________________________________________

■ 国語の先生

厳しく、古風な教育者。

りっくんを「悪い子」と叱るが、それは彼の自由な感性を理解できないから。

彼の怒りは、大人社会の不器用さそのものを映している。

のちに主人公が大人になったとき、この先生の言葉を思い出す描写がある。

________________________________________

■ 福ちゃん(=主人公〈大学期〉)

大学生としての“ぼく”。

漫画と映画に夢中になり、創作の世界に生きる。

仲間に囲まれながらも、どこか現実に馴染めない。

トンネルの向こうに「描きたい世界」を求めている。

後の“よしお”へとつながる、創造と挫折の象徴。

________________________________________

■ 米川さん(大学の先輩)

漫画・SF研究会の中心人物。

やや変わり者だが面倒見がよく、

福ちゃんに「おまえは化ける」と言って励ます。

彼の言葉が、福ちゃんを“創る人間”に目覚めさせるきっかけになる。

一見凡庸な大学生活の中で、最もまっすぐな“希望”を持った人。

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■ よしお(=主人公〈社会人初期〉)

製陶会社に勤める青年。

温水洗浄便座の開発に情熱を注ぐエンジニア。

日々の努力と失敗を繰り返しながらも、

小さな技術の中に“未来”を見いだそうとする。

のぶくんの純粋さを大人の形に引き継いだ存在。

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■ 馬淵さん(上司)

熱血漢の工場長。

技術よりも「夢」を語る男。

「この便座が時代を変える」と信じて疑わない。

よしおに“仕事とは何か”を教え、

彼の中に“生きる誇り”を芽生えさせる。

________________________________________

■ 咲江ちゃん(事務員)

明るく無邪気な性格の女性社員。

よしおに恋心を寄せるが、報われない。

夕陽に照らされた別れの場面は、

“青春が終わる瞬間”を象徴する。

________________________________________

■ 中島さん(経理)

落ち着いた大人の女性。

よしおが心惹かれる相手。

映画『サウンド・オブ・ミュージック』の会話シーンは、

彼の人生で最も穏やかで幸福な時間として描かれる。

“愛とは静かな理解”を体現した人物。

________________________________________

■ 新藤(=主人公〈映画業界時代〉)

アニメ映画会社「竹松」の若手宣伝マン。

“バンダム”の宣伝を通じて、

人々の熱狂と創造の爆発に立ち会う。

その体験は、彼にとって現実と幻想をつなぐ“光”の瞬間となる。

物語の終盤でトンネルの光に包まれ、

再び原点へと帰っていく。

________________________________________

■ 監督

“バンダム”の演出を担う人物。

作品を通して「未来をつくる」という言葉を新藤に残す。

その言葉が、物語の終章で“のぶくん”に重なり、

人生そのものが創作であるというテーマを示す。

________________________________________

■ トンネル(象徴的存在)

物語全体をつらぬく象徴。

時間・記憶・夢・人生のすべてをつなぐ“通路”。

物理的な構造物でありながら、心の奥に通じる比喩でもある。

誰もが持っている「自分の中のトンネル」――

それが本作の中心にある“秘密の場所”。




第1部(少年期)


父親と進路のことで言い争った夜だった。

外は梅雨の終わりを思わせる蒸し暑さで、風もぴたりと止んでいた。

母の気まずそうな視線を背に、ぼくは無言のまま階段を降りていった。

足音が古い家の木の床をきしませる。

地下室へ続く細い階段の先には、薄暗いランプの光がぼんやり揺れていた。

その入り口を知っているのは、家族の中でぼくだけだった。

小学一年のころ、かくれんぼの途中で偶然見つけた。

しかし、その先に何があるのか、怖くて入ったことは一度もなかった。

暗がりの奥に、錆びついた鋼鉄の扉があった。

手のひらを当てると、冷たさがじわりと伝わってくる。

「本当にここに入っていいのか」

胸の奥で何かがささやいた。

だが、父と口論した後の怒りとやりきれなさが、そのためらいを押しのけた。

ぼくは、ゆっくりと扉を押した。

ギィィ……と長い悲鳴のような音をたてて、扉は開いた。

そこは、想像よりもずっと明るかった。

天井には裸電球が等間隔にぶらさがり、白い光がゆらめいていた。

古い電球は時おりパチパチと音を立てては、瞬きのように消えかける。

湿った空気に油と土の匂いが混じっていた。

まるで時間の中に封じ込められたような、静けさだった。

どれくらい歩いただろう。

遠くに小さな灯りが見えた。

近づくと、半開きのドアの隙間から、オレンジ色の明かりがもれている。

中からは、笑い声とテレビの音が聞こえた。

そっとのぞくと、そこには畳の間があった。

ちゃぶ台を囲む家族。

テレビはモノクロのブラウン管で、野球中継が映っていた。

ランニングシャツ姿の男が、扇風機の風を受けながらごろりと寝そべり、コップのビールをちびちびと飲んでいる。

昭和の夏の匂いがした。

エアコンのない部屋の空気は生ぬるく、蚊取り線香の煙がゆらゆらと漂っている。

「おう、入って来いよ」

ほろ酔いの男が、テレビから目を離さずに言った。

その声は、どこか懐かしかった。

ぼくは、思わず一歩踏み出した。

部屋の奥には、台所とちゃぶ台が見えた。

母親らしき女性が、流し台とちゃぶ台を行き来しながら、そうめんを盛り付けている。

ちゃぶ台の向かいでは、小学三年生くらいの男の子が宿題をしていた。

部屋の隅では、幼い妹がリカちゃん人形を並べて遊んでいる。

「のぶくん、入って入って」

お母さんの声に、ぼくは反射的にうなずいた。

気づけば、自分の名前が「のぶくん」になっていた。

違和感を感じながらも、それを口に出すことができなかった。

お母さんが笑顔で言う。

「今夜は暑いねえ。熱帯夜かしら。のぶくんはジュースでいいよね」

差し出されたオレンジジュースの冷たさが、手のひらに心地よかった。

ちゃぶ台の向こうで、テレビの中のアナウンサーが叫んだ。

「おお、打った打った! 王選手のホームランです!」

男がうれしそうにうなずいた。

「やっぱり王だな。一本足だ」

ぼくは、その光景を夢の中のように眺めていた。

すべてが古いのに、どこか温かかった。

クーラーもスマホもない世界。けれど、心のどこかが安らぐ。

「のぶくん、泊まってく?」

男の子――慎二と名乗った――が笑って言った。

ぼくは、気づけばうなずいていた。

________________________________________

翌朝、外は蝉の声で満ちていた。

薄いカーテン越しの陽光が、部屋の畳を金色に染めている。

お母さんが台所でおにぎりを包んでいた。

「たくさんせみが取れるといいね」

そう言って、銀紙に包んだおにぎりをぼくのリュックに押し込んでくれた。

ぼくは麦わら帽子をかぶり、虫取り網を持って家を出た。

振り返ると、あの家はまるで霧のように淡く、やがて見えなくなっていた。

トンネルは、再び続いていた。

空気はひんやりとして、遠くで水の滴る音がする。

汗が背中をつたう。

やがて、前方にまぶしい光が見えてきた。

ぼくは目を細めながら歩みを速めた。

________________________________________

トンネルの先に広がっていたのは、見知らぬ村だった。

晩秋の空気。木々の枝からひらひらと落ちる葉。

風に乗って祭りばやしが聞こえてくる。

「わっしょい、わっしょい!」

子どもたちの歓声が響き、屋台からは甘い醤油の香りが漂ってきた。

神社の境内では、相撲大会が開かれていた。

「ぼう、いっしょに行くか」

声をかけてきたのは、馬に乗ったおじさんだった。

顔は日に焼け、赤銅色に輝いている。

深く刻まれた皺が、長年の労働を物語っていた。

「どこ行くんですか」とぼくがたずねると、おじさんは笑った。

「どこでもないさ。行くとこは、行くうちにわかるもんだ」

ぼくは、おにぎりをひとつ差し出した。

「乗せてください」

「ほう、乗車賃か。よし、行こう」

おじさんの馬は、軽やかにトンネルの出口を駆け抜けた。

風が頬を切る。

世界が一気に色を取り戻すようだった。

________________________________________

やがて、おじさんと別れたぼくは、神社の境内の相撲大会に出場することになった。

テントの中で、おばさんたちが笑いながらぼくに回しを締めてくれた。

「がんばんな、のぶくん」

「……ぼく、のぶくんじゃないんです」

そう言おうとしたが、声が出なかった。

口を開くと、自分の中の“のぶくん”がそれを拒むように感じた。

太っちょの子ども力士に投げ飛ばされた。

土のにおいが鼻を突いた。

「弱っちいな! おととい来な!」

子ども力士が得意げに笑った。

その横で、大人たちが拍手していた。

空には、紅葉が舞っていた。

「さぶろう、何してる! 掃除をさぼるな!」

ふいに、誰かがぼくの名を呼んだ。

ぼくは振り向いた。

そこには、見知らぬ先生が立っていた。

ぼくは――いつのまにか、“さぶろう”になっていた。

________________________________________

鉄筋校舎の二階。

できたばかりの白い廊下には、まだ新しいペンキの匂いが残っていた。

教室では、子どもたちが一斉に机を動かし、モップで床をこすっている。

窓の外から秋の光が射し込み、床の水気がキラキラと光っていた。

教室の隅で、丸坊主の少年がすわりこんでいた。

彼の机の上には、食べ残した給食の皿。

脱脂粉乳のミルクはぬるく、豚肉の脂身は白く固まっていた。

少年はそれをじっとにらんでいる。

「食べるまで、帰れないわよ」

先生の声が響く。

子どもたちは掃除を続けながらも、ちらちらとその子を見ていた。

ぼくは心の奥で痛みを感じた。

きっと、ぼくも何かを食べられない子どもだったのだろう。

窓から入る風に誘われ、ぼくはそっと窓辺に立った。

足を外に出し、ぱたぱたとぶらつかせる。

「さぶろうくん、あぶないよ!」

女の子の声が響く。

ぼくは振り返り、笑った。

「ぼくは忍者だ。大丈夫」

風が頬をなでた。

ほんとうに空を飛べる気がした。

だが、その日の放課後――

ぼくは黒板の前に立たされていた。

「こんな悪い子はいません!」

先生が顔を真っ赤にして怒鳴った。

教室の中の空気が固まる。

ぼくは唇をかみしめた。

忍者なのに、どうして誰も信じてくれないのだろう。

家に帰ると、押し入れの天井板をはずし、天井裏に登った。

すき間から外をのぞくと、先生の車がゆっくり坂を下りてくる。

母親が玄関先で何度も頭を下げていた。

ぼくは身をひそめた。

忍者らしく、息を止めた。

先生が去っていくと、外の風がすっと入ってきた。

ぼくはそっと天井裏を抜け出した。

家の前の道には、まだ舗装のない砂ぼこりの道が続いていた。

遠くに、高架を走る東名高速道路が見えた。

新しいコンクリートが光っていた。

土手の草はまだ短く、植えられたばかりのようだ。

ぼくは、その下のトンネルへと足を向けた。

風の音が遠くでうなっていた。

トンネルの奥へ一歩、また一歩。

暗闇の中へ、ぼくは再び歩き出した。


(つづく)


第2部(中学〜高校期/りっくん編)

________________________________________

気がつくと、ぼくは自転車をこいでいた。

冷たい風が頬を打ち、息が白くなっていた。

手には軍手、頭には白いヘルメット。黒い学生服のボタンをしっかり留めている。

荷台には革の学生カバンがしっかりくくりつけられていた。

坂道を下りながら、朝の空を見上げる。

うすい冬の雲が、ゆっくりと東へ流れていく。

遠くの田んぼは凍っていて、陽の光を反射してまぶしい。

どこかでストーブの煙が上がっていた。

焦げた灯油のにおいが、懐かしく胸にしみる。

ぼくは中学生になっていた。

名前は――りっくん、らしい。

「りっくん、お先に!」

前方を走っていた男子が笑いながら声をかけてきた。

「おう!」

ぼくも返したが、その声が自分のものではない気がした。

すぐ後ろから、女の子の自転車が軽やかに追い抜いていく。

ふわりと風が揺れ、長い髪がぼくの頬をかすめた。

「……とみ子だ」

自然に口をついたその名は、記憶のどこかに眠っていたようだった。

とみ子は町で評判の優等生だった。

勉強も運動もできて、先生たちにも信頼されている。

でも彼女は、どこか自信に満ちた目をしていて、同じクラスの男子を少し見下ろしているような雰囲気もあった。

それでも、ぼくの胸は、彼女を見るたびにざわついた。

教室では、窓の外に小雪がちらついていた。

石炭ストーブの上でやかんが鳴り、白い湯気が立ち上る。

黒板の前で担任が言った。

「来月は三年生を送る会だ。各クラスで出し物を考えよう」

ざわめく教室。

「劇がいいんじゃない?」「合唱がいい!」

意見が飛び交う中で、いつのまにか誰かが言った。

「演出はりっくんがやれよ。アイデアマンだから」

「え、ぼくが?」

思わず声が上ずった。

けれど、まわりはすでに「それがいい、それがいい」と盛り上がっていた。

ぼくは、いつのまにか人の流れに巻き込まれていく。

でも悪い気はしなかった。

放課後の教室、机を動かしながらみんなでコントの練習をした。

ぼくが書いた台本は、テレビの『ゲバゲバ90分』のパロディだ。

剣道とジャンケンを組み合わせた「ジャン剣道」や、

司会者「玉捨宏たますてひろし」の寸劇など、くだらないけど、みんな笑ってくれた。

練習の合間に、とみ子がぼくに言った。

「りっくん、あんたって、意外と面白いのね」

その一言が、なぜか胸の奥に熱く残った。

二週間後の「三年生を送る会」。

体育館は生徒たちの笑い声と拍手であふれた。

先生たちまで腹を抱えて笑っていた。

最後のコントが終わったとき、ぼくは確信した。

――ぼくは、人を笑顔にできる。

そのことが、たまらなくうれしかった。

________________________________________

卒業式の日。

できたばかりの体育館の天井には、新しい木の匂いが満ちていた。

ぼくは、舞台の上で歌う先輩たちをぼんやりと見ていた。

その足もと、床のわずかなすき間に、ふと違和感を覚えた。

放課後、ぼくはこっそりと体育館の裏へ回った。

そこには、地下へつながるような小さなすき間があった。

工事のときに残されたのだろう。

人がやっとくぐれるほどの狭さ。

中をのぞくと、暗闇の向こうにかすかな光が見えた。

「行ってみよう」

胸の奥で、昔のぼくが囁いた。

気づけば、ぼくは手と膝をつきながら、そのすき間に身を滑り込ませていた。

冷たい土の感触。

わずかに流れる空気。

中腰で進むと、突き出たパイプが頭をかすめた。

そのパイプの奥から、人の声が聞こえた。

――「おい、きたろう!」

ぼくは思わず笑った。

目玉のオヤジの真似をして叫んでみた。

すると、外から女の子たちの笑い声が返ってきた。

「うわ、だれ?」「きたろうがいる!」

ぼくは調子にのって、いろんな声を出した。

「オヤジよ、ぬりかべを呼べ!」

「ねずみ男、またお前か!」

声のやりとりが楽しくて、ぼくは夢中になった。

だが――

「おい、なにやっとる!」

鋭い声が響いた。国語の先生だ。

「うわっ!」

驚いた拍子に立ち上がり、天井のコンクリートに頭をぶつけた。

ガツン、と鈍い音。視界がぐらりと揺れ、手のひらが生温かくなった。

血の匂いがした。

世界がぼやけて、光が遠のいていく――。

________________________________________

風の音で目を覚ました。

バスの車体がゆっくり揺れている。

車窓の外には田んぼが広がり、菜の花が黄色く咲き乱れていた。

春の匂い。

ぼくは高校生になっていた。

制服の襟を正しながら、眠気の残る頭で窓の外を眺めた。

「次は今池」

車内アナウンスが流れる。

名古屋の街並みが近づいてくる。

古い家並みと、新しく建ったビルが混じりあっていた。

ぼくは市電に乗り換え、古出来町の県立高校へ向かった。

停留所で降りるとき、前の女子高生のスカートをうっかり踏んでしまった。

「ちょっと!」

彼女はきっと振り向き、鋭い目でぼくをにらんだ。

ぼくは顔を真っ赤にして「すみません」と頭を下げた。

その瞬間、胸の奥が妙にどきどきした。

学校生活は忙しかった。

体育ではラグビーをやった。

手ぬぐいを裂いて作ったヘッドバンドを頭に巻き、グラウンドを走り回った。

ボールをつかむたびに土が跳ね、息が荒くなる。

スクラムの中では、汗の匂いと土の匂いが混ざり合った。

母の手作りのヘッドバンドが、額にじっとりと張りつく。

試合のあと、ぼくは空を見上げた。

遠くの雲の形が、どこかトンネルの入り口のように見えた。

その向こうに、別の時間があるような気がした。

________________________________________

土曜日の午後。

授業が終わると、ぼくはバスに飛び乗った。

行き先は今池。

駅前の映画館で午後一時の上映に間に合わせたかった。

地下の中華屋でチャーハンを食べた。

鉄の鍋を振るう音が耳に心地よい。

湯気に包まれてスープの匂いが鼻をくすぐる。

「これが、町の味ってやつだ」

ぼくは一人前にそんなことを思いながら、急いで映画館へ向かった。

看板には『高校教師』『ソイレント・グリーン』の二本立て。

350円の入場券を握りしめて、ぼくは暗い館内へ入った。

映画が始まると、世界は一変する。

ぼくは登場人物になりきり、別の人生を生きているような気がした。

スクリーンの光に照らされた自分の手を見つめながら、思った。

――もしかしたら、ぼくの人生も、誰かが見ている映画のひとコマなのかもしれない。

外に出ると、もう夜だった。

街の灯りがまぶしい。

昼間の光景が遠い夢のように感じられた。

バスを待つあいだ、書店で立ち読みをした。

表紙に女の子の写真が載った雑誌を手に取ったとき、レジの女性がじっとこちらを見た。

「ふーん」

そんな表情に見えて、顔が熱くなった。

バスの車内では、車掌さんの渋い声が響いた。

「次は御器所、御器所です」

窓の外を、街のネオンが流れていった。

やがて街が途切れ、田舎道に変わる。

ヘッドライトが照らすトンネルの壁が白く光った。

その光の中で、ぼくはまぶしさに目を閉じた――。

________________________________________

風が変わった。

潮の匂いがする。

まぶたを開けると、車の助手席に座っていた。

ハンドルを握るのは、父親だった。

「もうすぐ御殿場だな」

父の声が低く響く。

車は深夜の東名高速を東へ向かっていた。

左手には、月明かりに照らされた富士山の影。

静まり返った車内に、エンジン音だけが響いている。

荷台にはこたつや小さな冷蔵庫、テレビが積まれていた。

ぼくは上京する途中だった。

東京の大学に合格したのだ。

窓の外を流れる光が、やけに遠く感じた。

父の手はハンドルを握りしめている。

母は後部座席で静かに微笑んでいた。

「富士山は立派だねえ」

母が言った。

その声は、どこか涙をこらえているようだった。

ぼくはうなずいた。

「うん。ほんとに、立派だね」

車は再びトンネルへ入った。

ライトの白い帯が、闇を切り裂く。

トンネルの奥で、何かがぼくを呼んでいる気がした。

ぼくは無意識のうちに目を閉じた。

――また、あのトンネルだ。

いつの時代も、ぼくを次の世界へ運んでいく。


(つづく)





第3部(大学〜社会人期/福ちゃん・よしお・新藤編)


目を開けると、薄暗い天井が見えた。

古い木の梁、色あせた壁。

枕元には、読みかけの漫画雑誌と、黒ずんだコーヒーカップ。

――ああ、ぼくは大学生になったんだ。

東京都杉並区の、四畳半の学生アパート。

家賃一万二千円。風呂なし、電話なし。

壁が薄く、隣の住人のラジオの音がそのまま響いてくる。

冷たい冬の朝、息が白くなる部屋で、ぼくは漫画を描いていた。

高校時代、映画にのめりこんだぼくは、

大学では演劇学科に進んだ。

だけど芝居にはあまり興味がなく、

漫画研究会とSF研究会を掛け持ちしていた。

みんな漫画やアニメの話になると目を輝かせていた。

ぼくも「ここなら生きられる」と思った。

仲間たちと話すうちに、漫画同人誌を作ることになった。

ぼくは巨大ロボットものの漫画『ウラノス』を描いた。

表紙は青インクで印刷した。

完成したとき、胸が震えた。

「これがぼくの世界だ」

しかし、描き上げるたびに飽きてしまう悪い癖があった。

物語の続きを考える前に、

次のアイデアが頭を支配してしまうのだ。

結局、完成した作品はいつも表紙だけ。

そんな日々を何度もくり返していた。

「おまえ、才能はあるけど根気がないな」

SF研の先輩・米川さんが笑った。

彼は三年を二度やっている、大学の“レジェンド”だった。

「でもさ、やる気があるやつはいつか化けるんだよ」

そう言われて、ぼくは救われた。

米川さんが発案した「マンガマーケット」という同人誌即売会に参加したとき、

ぼくは初めて、自分の漫画が誰かの手に渡るのを見た。

青焼きのページをめくる高校生が、

「これ、面白い」と言って笑った瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。

たった一人の読者でも、

自分の作った世界に入ってくれる――

その喜びが、ぼくを支えていた。

________________________________________

しかし、現実は甘くなかった。

講談社の新人漫画賞に原稿を送ったが、

返事は来なかった。

ポストに投函したその夜、

ワクワクして眠れなかったのがばかばかしくなるほどに。

次第に、やる気がしぼんでいった。

冬の冷たい風がアパートのすき間から吹き込み、

ぼくは布団の中でひとり、天井を見つめた。

――自分はいったい何を描きたいんだろう。

そんなある日、ぼくは新宿の映画館で『ブルース・リー』の映画を観た。

燃えるような動き、叫び、音。

あの激しさが心を打った。

「ぼくの漫画にも、あんな“命の音”がほしい」

そう思いながら劇場を出た。

冷たい夜風の中で、何かが変わり始めていた。

________________________________________

春。

ぼくは大学四年生になり、就職活動の季節がきた。

だが、どこに行きたいのかもわからない。

印刷会社、出版社、広告代理店……どれもピンとこない。

そんなとき、秋田書店の編集者に言われた言葉を思い出した。

「キャラクターは“目”だよ。君の絵は、目が死んでる」

――目が、死んでる。

あの言葉が胸に刺さったままだった。

ぼくの描く人物は、どこか空虚だったのだろう。

鏡をのぞくと、自分の目も同じように濁って見えた。

その年の冬、秋風が吹く中を、ぼくは荻窪の駅まで歩いた。

環八を渡るとき、車のヘッドライトが強く光った。

一瞬、世界が白くなった。

ぼくは思わず顔を覆った。

――そして、目を開けると、別の世界にいた。

________________________________________

熱気と土埃。

耳には「ゴォォ……」という炉の音。

ぼくは白衣を着ていた。

足もとには粘土の粉が散らばっている。

ここは――工場?

「よしお、よしお!」

誰かがぼくを呼んでいる。

振り向くと、40代くらいの男がこちらに歩いてきた。

顔が赤く、汗をぬぐいながら笑っている。

「寝るなよ。便座の中で寝るやつがあるか」

そう言われて、ぼくはハッとした。

トイレの試験機の中に座ったまま、居眠りしていたのだ。

温水洗浄便座の開発室――そう思い出した。

ぼくは“よしお”という若手技術員になっていた。

室長の馬淵さんがニヤリと笑う。

「まあいい。今夜は一杯いくか」

工場の外に出ると、夜の風がむっと熱かった。

遠くで焼成炉の赤い光がちらちら揺れている。

「温水洗浄便座なんて、誰が使うかって言うやつもいる。

 だがな、これが時代を変えるんだ」

馬淵さんは日本酒をあおりながら言った。

ぼくはうなずいた。

「はい。……そう思います」

――サニタリーナS。

それが、ぼくたちが開発していた便座の名前だった。

製陶会社の片隅で、わずか三人の小さなチーム。

でも、ぼくには夢があった。

いつか世界中の家に、ぼくらの作った便座が並ぶ日を。

________________________________________

翌年、製品は全国発売された。

だが、故障が相次いだ。

大阪のやくざの家、東京の大物演歌歌手の家、

全国各地へ修理に回る日々。

「親分のいぼ痔が焼けたら大阪湾に沈めるぞ!」

そんな怒鳴り声を聞いても、ぼくは必死に直した。

不思議なことに、どんなに大変でも怖くなかった。

汗をぬぐいながらも、ぼくの心はどこか誇らしかった。

仕事を続けるうちに、社内の事務員・咲江ちゃんがぼくに好意を寄せてくれた。

丸顔で、よく笑う子だった。

でもぼくには、別の人が気になっていた。

経理の中島さん。

真面目で、少し口数が少ないけれど、

書類をめくる指がなぜか印象に残る女性だった。

「咲江ちゃん、ごめん」

ぼくは心から頭を下げた。

夕焼けの工場の屋根が、赤く光っていた。

――人を傷つけるって、こんなに痛いんだ。

________________________________________

その夜、ぼくは夢を見た。

野球場のグラウンドで、スパイクを履いて立っている夢。

「ストライク! バッターアウト!」

審判の声が響く。

ぼくは宇賀神という選手になっていた。

ヤクルトをクビになり、今は独立リーグでプレーしている。

腰の痛みを抱えながら、もう一度プロを目指していた。

球を打つ音。

観客の歓声。

ぼくは汗をぬぐい、ふと空を見上げた。

そこには、ぼんやりと白い光の輪――

トンネルのような光が浮かんでいた。

ボールを見逃した瞬間、

光が弾けて世界が白く染まった。

________________________________________

気がつくと、ぼくは海辺を歩いていた。

夕陽が波に反射して、金色の道を作っている。

隣には、中島さんがいた。

スカートの裾を押さえながら笑っている。

「よしおくん、『サウンド・オブ・ミュージック』よかったね」

ぼくは頷いた。

「うん。あの丘のシーン、ほんとにきれいだった」

「ねえ、もし映画みたいに人生をやり直せるとしたら、どうする?」

中島さんの問いに、ぼくは少し考えてから言った。

「やり直さなくていい。いまのままで、いい」

自分でも驚くほど自然に、その言葉が出た。

彼女は少し驚いたように笑って、

「そういうところ、好きかも」

とつぶやいた。

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が温かくなった。

風が頬をなで、波が寄せては返す。

そのとき、ぼくは確かに生きていると感じた。

________________________________________

時が流れた。

ぼくは、映画会社「竹松」の製作部で働いていた。

入社三年目。まだ新人に近い。

だが、運命のように出会った作品があった。

――『機動戦記バンダム』。

アニメが次の時代を切り開くと信じていた。

ぼくは宣伝担当として、日本サンライムという制作会社に通い詰めた。

監督や作画監督、声優たちと顔を合わせ、

現場の熱を肌で感じた。

「アニメは子どものものじゃない。

 未来をつくるものだ」

監督の言葉が胸に残った。

1981年2月22日。

新宿アルタ前。

真冬の朝の寒空の下、2万人のファンが集まった。

やしきあらじんの歌が流れ、

ステージに立った監督がマイクを握った。

「みんな、落ち着いて。アニメの未来は、君たちの手にある!」

一瞬、群衆のざわめきが止まった。

2万人が静まり返る。

その光景に、ぼくは息をのんだ。

監督の背中から、まるで光があふれていた。

ニュータイプの誕生――

誰かがそうつぶやいた。

その光が、ぼくのまぶたを焼いた。

視界が真っ白になる。

気づけば、再びトンネルの中にいた。

どこからか、子どもの笑い声が聞こえる。

土の匂い、遠くで響く風の音。

――また、あの場所へ帰るんだ。

そう思った瞬間、ぼくは歩き出していた。


第4部(幼少期への回帰〜終章)

________________________________________

夜の街を歩いていた。

風は冷たく、ビルのすき間から吹き抜けてくる。

人のざわめき、信号の点滅、遠くで鳴る救急車のサイレン。

都会の夜の音が、波のように押し寄せては遠ざかる。

ぼくはネクタイをゆるめ、ふと見上げた。

街の灯りの上に、星がひとつだけ瞬いていた。

もう、何年も星を見ていなかった。

あの頃――

トンネルの向こうで見上げた夜空には、

もっとたくさんの星があった気がする。

けれど、いまはもう見えない。

「……帰ろう」

自分でも驚くほど自然に、その言葉が口をついた。

ぼくは地下鉄の入口を降り、最終列車に乗った。

車内の蛍光灯が白く光り、座席には眠るサラリーマンがひとり。

ぼくは窓の外の闇を眺めた。

暗いトンネルの壁が、流れるように後ろへ消えていく。

――トンネル。

その言葉に、胸の奥が微かに疼いた。

気づけば、次の駅で降りていた。

「○○町」――見覚えのある駅名。

改札を出ると、冷たい夜風が頬をなでた。

ぼくの足は、迷うことなくあの坂道へ向かっていた。

街灯の明かりがひとつ、またひとつと途切れ、

住宅街を抜けると、視界の先に、あの古い家が見えた。

もう誰も住んでいないはずの、ぼくの家。

屋根のトタンはさび、庭の柿の木は枝をのばして門の上を覆っていた。

けれど、不思議と懐かしいにおいがした。

雨あがりの土と、古い木の香り。

玄関の戸を押すと、音もなく開いた。

畳の部屋は月明かりに照らされている。

ちゃぶ台の上には、誰かが飲みかけたままの麦茶のコップ。

時間が止まったままのようだった。

奥へ進むと、床板のきしむ音がした。

階段の下――

そこに、あの扉があった。

錆びついた鉄の取っ手。

指でなぞると、冷たさが伝わる。

まるでぼくを待っていたかのように、

扉は音もなく開いた。

中は、あの日と同じ。

裸電球の光が、ほこりの粒を金色に照らしていた。

湿った空気の中を、ゆっくりと歩く。

壁に刻まれた小さな傷、

誰かのいたずら書き。

そのひとつひとつが、記憶の破片のようだった。

しばらく歩くと、道が二手に分かれていた。

右のトンネルには、夕暮れの空がのぞいている。

左のトンネルには、淡い光が揺れている。

ぼくはしばらく立ち止まり、そして左へ進んだ。

________________________________________

そこは、夏の午後だった。

麦わら帽子をかぶった小さな少年が、

庭で虫取り網を振り回していた。

白いシャツの背中には、汗がにじんでいる。

母親が縁側から声をかける。

「のぶくん、ごはんよー!」

少年が振り向いた。

その顔を見た瞬間、ぼくは息をのんだ。

――それは、幼いころのぼくだった。

「……のぶくん」

思わず声に出した。

けれど、少年は首をかしげて笑った。

「おじさん、だれ?」

ぼくは答えられなかった。

ただ、立ちつくしていた。

遠くでセミが鳴いている。

風が庭を渡っていく。

母親が窓辺に立ち、笑った。

その笑顔も、ぼくには懐かしかった。

「おじさん、汗かいてるでしょ。冷たいお茶でもどう?」

ぼくはうなずいた。

ちゃぶ台の上に並べられた湯飲み。

氷の音が、かすかに鳴った。

口に含むと、冷たさが胸の奥にしみた。

「ねえ、おじさん」

のぶくんが言った。

「この家の下にはね、トンネルがあるんだよ」

ぼくは笑った。

「そうかい。どこにつながってるの?」

「うーん、わかんない。でもね、こわくないんだ。

 入るとね、みんな笑ってる気がするの」

その言葉を聞いたとき、

胸の奥がじんと熱くなった。

思わず、涙がこぼれそうになった。

――そうだ。

ぼくも、ずっとそのトンネルを歩いてきた。

時間を越えて、いくつもの世界を旅して。

怒りや迷い、孤独や憧れを抱えながら。

でもその先には、いつも誰かの笑顔があった。

________________________________________

ふと気づくと、少年ものぶくんも、母も、

すべてが白い光に包まれていた。

ぼくは目を閉じた。

まぶたの裏に、無数の光の粒が舞う。

そのひとつひとつが、ぼくの記憶の断片のようだった。

遠くから、誰かの声がした。

――「もう行こう、のぶくん」

――「うん。今度はぼくが案内するね」

光がぼくの全身を包み込む。

足もとから温かさが広がっていく。

やがて、音も、においも、風も、すべてが消えていった。

________________________________________

次に目を開けたとき、

ぼくはトンネルの入り口に立っていた。

朝の光が差し込んでいる。

鳥の声が響き、木々の葉がそよいでいる。

見上げると、空は青く澄んでいた。

ぼくは深く息を吸い、笑った。

「……行こう」

そして、ゆっくりと歩き出した。

その背中を、やさしい風が押した。

トンネルの向こうには、

また新しい世界が待っている気がした。

もしかしたら、そこには――

まだ見ぬ“ぼく”がいるのかもしれない。

________________________________________

終章 —ぼくの家にはトンネルがある—

いまも、ときどき夢に見る。

地下へ続くあの細い階段。

湿った空気。

そして、遠くでかすかに光る出口。

目を覚ますと、部屋の天井には薄い影が揺れている。

外では朝の電車が通り過ぎる音。

ぼくはゆっくりと起き上がり、カーテンを開ける。

空は、あのころと同じ青さだった。

「おはよう」

だれに言うともなく、ぼくはつぶやいた。

その瞬間、胸の奥に、あの懐かしい声が響いた気がした。

――「おはよう、のぶくん」

ぼくは笑った。

それだけで、世界が少し明るくなった気がした。

トンネルは、いまもぼくの家のどこかにある。

それは目に見えないけれど、

心の奥でつながっている。

ぼくが生きているかぎり、

あの光は、きっと消えない。


(了)




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