第4話
ライブハウスの床に走る亀裂から、黒い霧のようなものが立ち上る。
葵とユウトは後ずさり、鉄製の扉に背を押しつける。霧は甘ったるい匂いを漂わせ、鼻腔を侵す。葵の腕に絡みついた黒い糸は脈打つように動き、彼女の皮膚を這う。頭の中のノイズが再び響き、視界が揺れる。ステージの喧騒は遠くなり、代わりに低くうねる音が耳の奥で渦巻く。
「葵、しっかりしろ!ここから出なきゃ!」
ユウトの叫び声が、葵を現実に引き戻す。
彼女は歯を食いしばり、ポケットからカッターを取り出す。黒い糸を切り裂こうとするが、刃は糸をすり抜け、虚しく空を切る。糸はまるで彼女の意志を嘲笑うように、腕を這い上がり、首筋に達する。
冷たい感触が心臓を締め上げる。
「ユウト、扉!開けて!」
葵が叫ぶと、ユウトは扉の錆びたハンドルを力任せに引く。だが、扉はびくともしない。黒い染みが扉の表面を覆い、まるで生き物のように蠢いている。
ユウトはライターを再び取り出し、炎を染みに近づける。炎が触れると、染みは焼け焦げ、甲高い音を立てて縮こまる。扉の隙間がわずかに開き、二人は全力で体を押し込む。
廊下に出ると、ライブハウスの空気はさらに重く、湿気を帯びていた。
客席の混乱は収まらず、観客の何人かは黒い染みに覆われ、操り人形のような動きでステージに吸い寄せられている。スピーカーは沈黙しているのに、床から響く振動は止まらない。
葵はヘッドセットを叩き、カズに叫ぶ。
「カズさん、どこ?建物がヤバい!」
ノイズ混じりの声が返ってくる。
「葵、入口だ!客を外に出してる!お前も急げ!」
葵とユウトは入口を目指すが、客席の群衆はまるで壁のように立ちはだかる。黒い染みに侵された者たちが、葵たちに手を伸ばす。彼らの目は虚ろで、口から黒い液体が滴る。
葵は懐中電灯を振り回し、道を切り開く。だが、染みは床を這い、彼女のスニーカーに絡みつく。足が重くなり、まるで沼に沈むような感覚に襲われる。
「ユウト、走って!私が食い止める」
「バカ言うな!一緒に行く!」
ユウトは葵の手を掴み、精いっぱい引っ張る。二人は客席を抜け、入口の鉄扉に辿り着く。だが、扉は半開きで、黒い膜が隙間を塞いでいる。カズが外から叫ぶ声が聞こえる。
「葵!ユウト!早く!」
葵はカッターで膜を切り裂こうとするが、刃は弾かれ、膜はさらに厚くなる。ユウトがライターの炎を当てるが、膜は焼けるどころか、炎を吸い込むように黒さを増す。
葵の腕の黒い糸が再び動き、彼女の意識を揺さぶる。ノイズが頭に響き、過去の映像がフラッシュバックする。
古いライブハウス、熱狂する観客、ステージの染み。
だが、今度ははっきり見える。演奏者たちが染みに飲み込まれる瞬間、彼らの体は溶け、黒い液体となって床に沈む。ステージ中央には、巨大なレコードのような円盤が浮かび、螺旋の模様が光る。円盤は音を吸い込み、振動を増幅し、ライブハウス全体を共鳴させる。
葵は分かる。この建物は、音を餌に何かを育てる装置なのだ。
「ユウト……。音を、全部殺さなきゃ……」
葵の声は弱々しい。彼女はヘッドセットを外し、床に叩きつける。
ユウトが頷き、懐中電灯で周囲を見回す。入口近くに、非常用の発電機がある。ライブハウスの照明や機材はすべてその電力に依存している。ユウトが叫ぶ。
「葵、あれを止めれば、全部止まるんだよな!」
二人は発電機に走るが、黒い染みがすでにその周りを覆っている。発電機の表面に、螺旋の模様が浮かび、まるで心臓のように脈打つ。
葵はカッターを握り、染みを切り裂こうとする。だが、刃が触れるたび、染みは彼女の手を食いちぎるように広がる。ユウトがライターを投げつけ、炎が発電機に燃え移る。染みが悲鳴のような音を上げ、縮こまる。
「今だ!」
葵は発電機のスイッチを切る。ライブハウスの照明が消え、暗闇が二人を包む。振動が一瞬止まり、静寂が訪れる。
だが、すぐに床から新たな音が響き始める。低い、うねるような音。染みは発電機の停止をものともせず、壁を這い、天井から滴る。
「ダメだ……。これ、音だけじゃない」
葵の声が震える。彼女の腕の黒い糸が首を這い、耳元で囁くようなノイズを響かせる。彼女の視界が再び揺れ、ライブハウスの過去がフラッシュバックする。円盤の中心に、黒い影が浮かぶ。それは人間の形をしていたが、顔はなく、ただ黒い螺旋が渦巻いている。影は音を吸い込み、成長する。
葵は悟る。この建物は、音と人間の感情を餌に、影を育てる牢獄なのだ。
「葵、外だ!外に出れば!」
ユウトの声で葵は我に返る。彼女は最後の力を振り絞り、鉄扉の膜に体当たりする。膜は柔らかく、彼女の体を飲み込むように沈む。ユウトが後ろから押し、二人とも膜を突き破る。外の冷たい空気が肺を満たす。カズが二人を掴み、道路に引きずり出す。
「生きてるか!何だったんだ、あれ!?」
カズの声が遠く聞こえる。葵は振り返り、ライブハウスを見る。建物は静かに佇み、まるで何もなかったかのようだ。だが、窓の隙間から、黒い染みが蠢くのが見える。葵の腕の黒い糸は消え、ノイズも止まっている。だが、彼女の心臓はまだ早鐘を打つ。
「まだ、終わってない……」
葵が呟くと、ライブハウスの奥から、低い振動音が響き始める。