第2話
葵の心臓が早鐘を打つ。
懐中電灯の光が螺旋の染みを照らすたび、その表面が波打つように動く。黒い染みはまるで液体のように床を這い、ステージの木製の床に新たな模様を刻んでいく。
ユウトが後ずさり、赤いキャップを握り潰す。
「葵、これ、絶対おかしいって。カズさんに報告しよう」
「待って。もうちょっと見てみる」
葵は恐怖を押し殺し、染みに近づく。
振動は強くなり、ヘッドセットから流れる音楽のビートと奇妙に同期している。彼女は手を伸ばし、染みの縁に触れる。
冷たく、まるでゼリーのような感触。
指先に何か粘つくものが絡みつき、葵は慌てて手を引く。指先には黒い糸のようなものがまとわりつき、ゆっくりと彼女の皮膚に染み込んでいく。
「何?何これ!」
葵が叫ぶと、ユウトが彼女の手を掴む。だが、黒い糸はすでに消え、葵の肌は元通りだ。ユウトの顔が青ざめる。
「葵、大丈夫?なんか、変な感じしたんだけど……」
「平気。たぶん」
葵は平静を装うが、胸の奥でざわめく不安を抑えられない。彼女はヘッドセットのスイッチを切り、カズに報告する前に自分で確かめようと決める。
ステージ裏の暗闇に目を凝らすと、染みはさらに広がり、壁にまで這い上がっている。壁の剥がれたコンクリートに、黒い模様が血管のように脈打つ。
その時、ステージ上でバンドのパフォーマンスが最高潮に達した。観客の叫び声がライブハウスを揺らし、照明が狂ったように点滅する。
葵は一瞬、染みが光に反応して縮こまるのを見た気がした。彼女はユウトに囁く。
「この染み、音楽に反応してるかも。音がデカくなると動く」
「マジで?じゃあ、スピーカー止めたらどうなるんだ?」
「試してみる価値はある」
二人はステージ脇のコントロールパネルに急ぐ。そこでは、音響スタッフのミホがヘッドフォンを着け、ミキサーを操作している。
ミホは二十代後半、紫の髪をポニーテールにし、革ジャンを羽織った女性だ。
彼女は葵たちに気づくと、眉を上げる。
「何?」
「ミホさん、ちょっとスピーカーの音量下げてみて。実験したいんだ」
「今?バカ言わないで。客が盛り上がってるのに」
「お願い!変なことが起きてるの」
葵の必死な声に、ミホは渋々頷く。彼女はスライダーを下げ、メインスピーカーの音量を半分にする。瞬間、ライブハウスの空気が変わった。観客の歓声が一瞬途切れ、ざわめきが広がる。
葵はステージ裏に走り、染みを確認する。黒い模様は動きを止め、静かに床に沈んでいる。
「やっぱり……。音と連動してる」
葵が呟くと、ユウトが震える声で言う。
「でも、なんでこんなのがここに?この建物、なんかヤバい歴史あるんじゃね?」
「知らない。でも、調べたくなった」
葵はスマホを取り出し、ライブハウスの歴史を検索する。だが、ネットは繋がりにくく、ページはなかなか開かない。
その間、ミホが音量を元に戻し、音楽が再び爆音で響く。染みが再び蠢き、今度は葵の足元にまで這い寄ってくる。彼女は飛び退き、ユウトと一緒にコントロールパネルに戻る。
「ミホさん、これ、音で動いてる!止めないとヤバいよ!」
「証拠あんの?」
葵は染みの写真を撮ろうとスマホを向けるが、カメラには何も映らない。染みは光を吸収するように黒く、まるでそこに穴が開いているようだ。ミホが苛立つ。
「ふざけないで。こんな時にバカな話持ち込むな!」
その時、客席から再び叫び声が上がった。今度はパフォーマンスではない。
葵は懐中電灯を手に客席に飛び込む。群衆の中心で、男が床に倒れている。白いシャツに黒い染みが広がり、彼の手が不自然に震えている。葵は近づき、彼の顔を見る。目は白目を剥き、口から黒い液体が滴っている。
「救急車!早く!」
葵が叫ぶと、ユウトが慌ててカズを呼びに行く。だが、男は突然立ち上がり、フラフラとステージに向かう。彼の動きはまるで操り人形のようだ。
観客は混乱し、押し合いながら出口に殺到する。葵は男を追おうとするが、ミホが彼女の腕を掴む。
「葵、危ない!あいつ、なんかおかしいよ!」
男はステージに上がり、マイクを握る。だが、声の代わりにスピーカーから流れ出したのは、低い唸り声だった。音は次第に高まり、ライブハウスの壁を震わせる。葵は耳を押さえ、床に膝をつく。染みが一斉に動き出し、ステージを覆い尽くす。
「これ……。何?」
葵の声は音楽にかき消される。彼女はステージ裏に逃げ込むが、そこにも染みが広がっている。黒い模様は天井にまで這い上がり、まるでライブハウス全体を飲み込もうとしている。ユウトが葵の手を引っ張る。
「葵、逃げよう!ここ、もうヤバすぎる!」
だが、葵は動けない。彼女の足元に、黒い糸が再び絡みついていた。糸は彼女の肌を這い、腕を登っていく。葵の視界が揺れ、頭の中にノイズのような声が響く。
「響け……。もっと響け……」