05,小市民
男が帰った後、俺は居間でガタガタ震えていた。
「嘘だよな。嘘に決まっている」
でも、本当ならどうするのか。鞄を返すのか? 男が来て、そのすぐ後に鞄が送られてきたら、俺が犯人だと分かってしまうではないか。
証拠がないのだから、黙っていればバレることはない。贅沢だと思われない程度にお金を使って、3年くらい経過してから高価な物を買うようにすればよいのだ。
だが、大金を持って俺が楽しい生活をしているときにも、ヒロシさんは悲惨な状況になっている。それでいいのか?
たとえば、逆の立場だったらどうなるだろうか。
ヒロシさんが大金を得て優雅な暮らしをしている。そのときに俺が苦痛の毎日を送らされていると知ったら、彼はお金を返そうとするだろうか。
俺を仲間だということにして無実の人間を絶望に引きずり込もうとした人間だ。俺が無惨な状況になっていたとしても、せせら笑って毎日のように豪遊するだろう。
ヒロシさんに同情する必要はない。
結局、この社会は資産の奪い合いだ。どのようにして女や他人のお金を手に入れるかというゲームなのだ。お人好しとバカが淘汰される、それがこの資本主義社会。お金持ちという者は合法的に他人から搾取してきたから、お金持ちになったのだ。
人生において搾取され続けてきた落ちこぼれ人間は貯金もできないし、女もできない。結婚もできなくて家庭を持つこともできないのだ。そのような無能な人間は、お金持ちから見れば軽蔑の対象でしかない。
俺は大金を手に入れた。歳は取ってしまったが、やっと勝ち組に入ったのだ。自分が良ければそれでいいし、他人などどうなっても構わない。
ヒロシさんがどうなっても俺には関係ない。もともと、ヒロシさんが組のお金を盗んだのであって俺が盗んだわけではない。自業自得というものだ。
それに彼は俺にお金が入った鞄を渡した。
つまりそれは、鞄の所有権を俺に譲渡したということだろう。俺は鞄をもらってしまっても構わないということなのだ。
無理矢理自分を納得させたが、体の震えは止まらない。
ヒロシさんが無惨な境遇になっているのに、俺は裕福な暮らしを楽しむことができるのだろうか。
就寝時に暗闇が怖くなることはないのか。病気になったり事故にあったりしたとき、あのときのバチが当たったのだと思うことはないのか。
他人を踏みつけて利益を得るようなことは自分にはできない。
とどのつまり、俺は小心者で臆病者だ。普通の小市民だったのだ。
*
目が覚めると薄暗い洞窟。
見上げると鳥居が立っていた。
そうか、タイムリープしたんだっけ。ミスをしないように、これは本番だ、ミスをすれば取り返しがつかない、と自分に言い聞かせていたので現実だと信じ込んでしまった。
「現実でなくて良かった……」
立ち上がろうとしたが、脱力感がひどくて立つことができない。
「もう、タイムリープは必要ない……」
自分という人間を知ってしまったから、大きく道を外れることは不可能なのだ。
30日の昼過ぎ。俺は赤っぽい派手なトレーナーを着て山道に立っていた。
しばらく待っていると、おなじみのヒロシさんが駆け込んできた。
「これを持っていろ」
おなじみのズッシリとした黒い鞄。
ヒロシさんが走っていなくなったのを確認して、鞄を道に放り投げた。そして、俺は茂みに隠れた。
黒スーツ達4人がやってきて鞄を拾う。チャックを開けて中の札束を確認していた。
そして、二人がヒロシを追いかけ、黒スーツともう一人は鞄を持って道を下っていく。
誰もいなくなったのを見て、俺は小屋に向かう。小屋の中で灰色の地味な服に着替えて山道を降りていった。
お金は返したのだから、ヒロシさんもひどい扱いをされないだろう。
林の中、長く伸びた草をかき分けて進む。幹線道路に出てバス停に行き、バスに乗って遠くの山のふもとで降りた。車は山の奥の畑に停めておいた。道には草が生えているので、そんなに車は通らないはず。それに畑は長く使っていないことが分かるくらいに荒れていたので、目立たないと思ってそこを選んだのだ。
自宅に帰ってから翌日、ロトト6の結果を確認した。
それは外れていた。ただし、1等にはなっていなかったが2等に当選していた。キャリーオーバーがあったので、2等でも1000万円だ。それを2口買っていたので、2000万円になる。
どうして外れたのか。
カオス理論にバタフライ効果というものがある。
それは小さな出来事でも時間が経てば大きな結果に発展するというものだ。
つまり、私が当選するはずのロトトを買ったために、その影響が広がって当選番号が変わってしまったのだろう。それだけ、当選番号を決める方法は偶然性が高い方法を採用しているということ。
まあ、俺みたいな小市民には2000万円で十分だ。老後には2000万円が必要になるというから、とりあえず老後は安泰だ。
もう洞窟には行かないことにした。
自分の未来を見てみたいという欲求はある。だがしかし、そこで東北大震災のような大事故が起こることを知ったらどうするのか。
被害を少なくするために皆に知らせても信じてくれないだろうし、知らせたため、逆に被害人数が多くなってしまう可能性もある。
未来を知るのが怖い。小市民の俺にとって未来を知るのは心理的負担が大きいのだ。
* 終わり *