第一日目 4節 自力脱出(アイミネア)(2)
* * *
棒の間を通って、涼やかな風が吹き込んでくる。
この窓は東向き。つまり、戦いの行われている広場の反対側に位置する。高くなりかけた太陽が照らす中、彼らはどのような戦いを繰り広げているのだろう。銀狼は、その役目をきちんと果たせているのだろうか。思いをはせてみたが、時折聞こえてくる歓声や騒音は、海鳴りのように遠く響いているだけで、戦いの様相を伝えてくれはしない。
「さ、アイナ、がんばって!」
ミネルヴァがアイミネアの後ろでそう声をかけた。ガートルードがアイミネアの右隣にひざまずき、両手を組んで足台になるべく待機してくれている。シャティアーナは、その神秘的な瞳で、アイミネアの横顔を見つめている――のが、右頬で感じられた。そんな目で見ないで欲しい。こんな期待を受けているのに、通れなかったらどうしよう?
「大丈夫、通れるって!」
ルーカが珍しく、元気付けるように言ってくれた。ありがとう、とつぶやいて、アイナは素足をガートルードの手のひらに乗せた。シャティアーナの肩につかまってバランスを取ると、ガートルードが慎重に立ち上がる。ゆっくりと、視界が上にあがっていく。
みんなが、アイミネアなら通れるだろうと、期待というよりは確信に近い気持ちを抱いている。アイミネアには、それがちょっと哀しい。
みんな思いもしないのかしら。想像もしないのかしら。あたしが、この隙間を通れるくらいガリガリのやせっぽちだということを、どんなに気にしているかってことを。
ガートルードだって女の子なのだ。シャティアーナに結構体重を預けているとはいえ、ガートルード一人で、持ち上げられてしまうこの哀しみがわからないのだろうか。十六歳になっても、肉付きは一向によくならない。まるで小さな子供みたい。可愛いとは言われても、綺麗だとはきっと一生言ってもらえないだろう。
ここを通り抜けられなければ、媛隊に未来はない。みんなの期待を裏切りたくはなかった。しかし心の奥底で、通れてしまったら哀しいだろうということもわかっている。複雑な感情が、どろどろと音を立てて、胸の中で渦を巻いている。
窓枠に左足を乗せる。できるだけ棒につかまらないようにね、と先ほどガートルードに言われていた。立ち上がった彼女の肩につかまって、少し幅のある窓枠に、体重を全部乗せて立ち上がると――果たして、棒と窓枠の隙間は、アイミネアの右耳と左耳の間と、ちょうど同じ長さだった。
――通れる。
確信して、彼女は、できるだけ窓枠にピッタリと身を寄せた。大理石の窓枠に抱きつくような格好。窓はアイミネアの身長より少し低かった。足を折ると邪魔になるので、窓枠の上に完全に腰を下ろすことにする。
窓枠に抱きついて、少しずつ体をずらす。棒を動かさないようにという配慮をしなくてもよければ、もっと簡単に通れるだろうに。みんなの前から早く姿を消したかった。こんな格好、あまり褒められたものじゃない。
するり、と音が聞こえたような気がした。
体の一番盛り上がっているところ――後頭部とお尻――が通ってしまえば、あとは足を引き抜くだけだ。窓枠に手をかけて、右足だけで立ち上がると、もうアイミネアの体の大部分は、地面からかなり離れた高い場所に晒されていた。地面までの間には、もはや空気しかない。高いところは平気だったが、それでもやはり心細い。
「やった!」
ミネルヴァが抑えた声を発し、ガートルードがシャティアーナと手を打ち合わせた。そちらに一瞬だけ笑みを見せ、隣の窓までの距離を目で測る。大理石の壁はつるつるしていたが、この高さを維持するためにか、窓枠と同じ高さの場所に支えの大きなレンガが一直線に張り出している。なんとか行けそうだった。
「気をつけて、アイナ」
「了解」
シャティアーナの声に短く応え、アイミネアは、細い細い足場を伝ってそろそろと隣の窓へと移動を開始した。
ちらりと振り返ってみると、大半の棒が残された窓の向こう側に、何か複雑な仕掛けがしてあるのが見えた。窓の下に、大きな錘がぶら下がっている。残りの紐を解いていたら、あの錘が落下して、下にある何らかの仕掛けを作動させたに違いない。どんな仕掛けがなされているのかまでは、見る余裕がなかった。地面ははるか下である。できるだけその距離を見たくはない。
ずいぶん長いこと空中にいたような気がしたが、実際はほんの数秒のことだったのだろう。
こちらの窓辺にも、『姫の間』と同じように、棒が渡してあった。結び目は外側にあったからよかったが、しばらくは怖い思いをした。片手で紐を解くのは骨が折れる。ガートルードは偉大だ、と、左手での作業に冷や汗を流しながら、アイミネアは紐を解いた。この窓には、ありがたいことに、錘は仕掛けられていなかった――どうやら、助けに来る者の目を『姫の間』からそらすためのカモフラージュだったようで、紐も簡単に解けた。こわごわと下を見て、下に柔らかな地面しかないのを確かめてから、残りの紐を引っ張って全部ほどいてしまった。ばらばらと棒が地面に落下していく。
半分ほど開いた窓から、アイミネアはするりと中にもぐりこんだ。
身軽に床に降り立ち、ほっとため息をつく。足の下に硬い床があるというのは、なんと心安らぐことだろう。自分でも意識しない間に、ずいぶん冷や汗をかいていた。
体にへばりつくシャツを気持ち悪く思いながら、部屋の中を見回す。
その部屋は、隣と違ってほとんど崩れてしまっていた。部屋の真ん中に、巨大な穴が開いている。足音を忍ばせてその穴に近寄り、中を覗き込んでみた。この部屋から崩れ落ちたらしい瓦礫が部屋の真ん中に山積みになっていて、そのまま放っておかれたようだ。
「――静かになったな」
廊下から、はっきりとした声が響いてきた。まだ幼い少年の声だ。アイミネアは息を殺して、耳をすませた。
「さっきの喧嘩、すごかったな。この扉越しに聞こえて来るんだもん。開けちゃダメって言われてなければ、覗いてみたのにな」
「あけてみてもよかったんだぞ。俺は止めない」
応えた声は低く、重々しい。少年の声は不服そうに続けた。
「そりゃグーエトは『目付』だからさ。せめてもう一人いれば、あけてみたのに」
扉も崩れていた。床の上に、以前扉だったものの残骸が散らばっている。それらを踏まないように気をつけて、アイミネアは息を殺して、廊下に頭を突き出した。
見張りは、いた。しかし一人だけだ。一瞬二人いるのかと焦ってしまったが、一人は頭に何も巻いていない。『目付』だった。となると、相手にするのは一人だけでいい。見張りはアイミネアのよく知っている少年だった。弟と同い年の、ディアスという少年である。
「あーあ、早く俺もいきてぇなあ」
ディアスがため息をついてそう言った。身をかがめたアイミネアが、斜め後ろから見守っていることも知らないで、廊下の手すりにしがみつくような格好で足をぶらぶらさせている。退屈しきっているらしい。
棍棒は。
食い入るように、アイミネアは視線を走らせる。彼の棍棒は、彼のすぐわき、手すりのところに立てかけられている。『目付』も退屈しているようだった。ディアスよりもはるかに背の高い彼は、手すりにひじをついて、西の方をぼーっと見つめていた。『宴』の一端なりとも、見えているのかもしれない。
「ねぇねぇグーエト。俺もさあ、いつか『銀狼』になれるかなあ」
ディアスの言葉に、そうだな、いつかな、などとあいまいな返事をしている。
タイミングが命だ。瓦礫で万一にも音を立てぬよう、アイミネアは慎重に動き出した。棍棒を奪って、相手が声をあげる前に、動きを封じる。伝令隊であるアイミネアは、こういうことに慣れていた。しかも相手は油断しきっている――まさかあの窓から出られるものがいるとは、想像もしていなかったに違いない。
『目付』がいてよかった。『目付』に見張っていてもらわないと、ディアスの奴、声を限りにわめきたてるかもしれないから。
ほとんど音をさせず、アイミネアはそっと廊下に滑り出た。
彼女に気づいたのは、グーエトの方が早かった。ディアスの頭越しに、目を丸くしている『目付』の顔が見える。早いところ『目付』としての仕事を思い出して、と願う前に、『目付』の動きに違和感を感じたらしいディアスがこちらを振り返る。
アイミネアは距離を一気に詰め、棍棒を掻っ攫うと、叫び声を上げようとしたディアスの口に右手を押し付けた。唾液の感触が気持ち悪いが、叫び声を上げられるよりはましだ。同時に棍棒を喉もとに突きつける。それは我ながら本当にすばやい動きで、ディアスは一瞬で動きを封じられて、目をぱちぱちさせるだけだ。
「あ――アイナ」
グーエトが信じられない、といった風につぶやいた。
「どこから出てきたんだ、お前?」
「声を出したら『戦死』」
アイミネアはグーエトを無視した。ディアスの目を見つめて、囁く。
「いい? ゆっくりと両腕を上げなさい」
ディアスが目をぱちぱちさせながら、ちらりと『目付』を見た。それからゆっくりと、両腕を上げる。
「手を離すわよ。声を立てないで。声を立てたら即座に『戦死』させるからね」
それはディアスにというよりは、『目付』に言った言葉だった。こういっておけば、実際にディアスが声を上げたら、『目付』が即座に『戦死』を宣言して、彼の叫びを止めてくれるだろう。グーエトはもう既に、無表情な『目付』の顔に戻っていた。一歩後ろに下がって、アイミネアの視線を捕らえてうなずいてみせる。
「ゆっくり後ろを向いて。手を上げたままね。一日目の午前中から、『戦死』したくはないでしょ?」
「……」
ようやく、ディアスのあどけない顔に、悔しい、といった表情が浮かんできた。アイミネアをにらみつけながら、ゆっくりと後ろを向く。彼女はディアスの肩に手を置いて、促した。
「『姫の間』のかんぬきをはずしなさい。音を立てないでね。『戦死』させて自分でやったほうがどんなに簡単かってこと、わかってくれるでしょ」
ディアスは賢明にも黙ったまま、言われたとおりにした。ごとり、と重々しい音を響かせて、かんぬきがはずされる。下がるように促すと、ディアスは素直に後ろに下がった。自分より少し背の高い彼の首もとに、重い棍棒を突きつけたまま、扉がゆっくりと開くのを待つ。
扉の陰から、一番先に姿を見せたのは、ミネルヴァだった。先ほど窓にくくりつけられていた棒を一本ずつ両手に構えている。アイミネアを目が合うと、ほっとしたように微笑んだ。
「見張り、いたのね。危険はなかった?」
「大丈夫」
ひそひそ声で話す間にも、扉から少女たちが次々と滑り出てくる。ガートルード、次にルーカが部屋から出てきた。二人とも、なぜか手に、窓にかかっていたカーテンをはずして持ってきている。そして最後にシャティアーナが出てきた。媛の顔は嬉しそうに輝いていた。普段表情の起伏に富んでいるとは言いがたい彼女がそういう顔をすると、思わず見とれてしまうほどに綺麗だ。
「アイナ。お疲れ様。どうもありがとう」
「いいえ、お役に立てて嬉しいですわ」
気取った口調で言う。ほのかな笑い声が起きた。と――今まで身じろぎもしなかったディアスが、唐突に動いた。
一瞬、対応が遅れた。首尾よく扉を開いて、気が緩んだのだろうか。棍棒を構えていた左手に衝撃が走り、思わず手のひらを開いてしまった。シャティアーナは開いた扉の中にいた。彼女に向かって、ディアスが一直線に飛びかかっていく。
「シャティ――!」
誰かが叫んだ。棍棒とかんぬきが床に落ちて派手な音を立てた。ディアスに飛び掛られたシャティアーナが、体勢を崩して仰向けに倒れこむ。今にも『目付』が媛の『戦死』を宣言するのではないかとぞっとしたとき、ディアスの体が宙を舞った。
倒れ込んだ勢いを利用して、シャティアーナがディアスを後方へ投げたのである。
どしん、と言う音がした。ディアスはかろうじて受身を取ったようだが、何がおきたのかわからず、床の上に仰向けになってきょとんとしている。シャティアーナは一回転して起き上がり、ディアスにちらりと視線を走らせた。
「大丈夫?」
抑えた声で聞くのが聞こえる。アイミネアの右に落ちた棍棒を拾い上げて、ミネルヴァが部屋の中に走りこんだ。
「大丈夫、シャティ!?」
彼女の声でようやくアイミネアは我に返った。慌てて、放り出されていたかんぬきを拾い上げる。足下でちょっとした騒ぎが起こっていた。今の物音を聞きつけて、二階の廊下に待機していた兵士たちが動き出したのが聞こえる。
「大変!」
振り返って叫ぶ、と、シャティアーナが部屋から走り出てきた。どこも傷めていないようだ。アイミネアはほっとすると同時に、感心してしまった。もし飛び掛られたのがあたしだったら、きっと『戦死』していたことだろう。
続けてミネルヴァが出てきた。アイミネアの抱えていたかんぬきを取って、閉めた扉に下ろす。がしん、と音が響いたとき、中からディアスの元気な叫び声が漏れてきた。ちきしょう、とか何とか叫んでいるのだろう。やっぱり動きを封じたりしないで、『戦死』させればよかった――などと考えながら、アイミネアは四人の後について走り出した。
脱出ルートは二通りあった。そのどちらを選んでも、大差はなかった。建物の両脇は、同じような渡り廊下を経て、別館につながっている。北から逃げるか、南から逃げるか。どちらから逃げるにせよ、東軍の迂回部隊が、建物から少し離れた場所に待機してくれているはずだ。
媛隊たちは、北側に逃げていた。二階の扉をふさいでいた見張りたちが、南側から追いかけてくるのだから、成り行き上こちらに行くしかない。
「シャティ――シャティ、怪我は?」
ディアスにあのような行動を取らせてしまった責任を感じて、走りながら、アイミネアは言った。シャティアーナはひらひらと手を振った。
「大丈夫。どこも痛くないわ」
「ごめんね、あたしが――」
言いかけたアイミネアを、シャティアーナはにこっとしてさえぎった。
「気にしないで。あの場合仕方ないわ。それにアイナのおかげで、あの部屋から出られたんだから」
「……」
でも、こんな騒ぎになってしまったのは、あたしの責任だわ。
言いかけた言葉は飲み込んでしまった。こうなった以上、ぐずぐず言っても仕方がない。名誉挽回は態度で示せ、と、父にもよく言われている――
「その角を右に」
しんがりを勤めていたミネルヴァが言った。先頭は、未だにカーテンを抱えたままのルーカである。あのカーテンは何に使うのだろうとアイミネアはいぶかしんだ。ガートルードも同じようにカーテンを抱えている。重いし、かさばるだろうに。
目の前に渡り廊下が見えてきた。あれを渡ってしまえば、別館に入れる。そうしたら、身を隠してくれる森はもう目と鼻の先だ。
「いたぞ!」
「止まれ!」
後ろから追いかけてくる兵士たちはもうすぐそばまで迫っている。踏みとどまって戦うにはその数は多かった。物音を聞いて駆けつけた人数は走るうちにその数を増やしていた。今や十人はいるだろう。それも大柄な男たちばかり、五人の少女が立ち向かうには多すぎる数だ。あの人数が追いかけてきたら、別館に入り込んでも逃げられるかどうかわからない。