第一日目 4節 自力脱出(アイミネア)
ようやく、棒の一本が外れた。
四人の少女が疲れきってへたりこむ中、ガートルードだけが休まなかった。棒が一本外れたので、その隙間から腕が出る。背伸びをして、腕をいっぱいに伸ばし、その器用な指先を巧みに動かして棒を縛り付けている縄をはずす。その動きはとても的確で、まるで指先に目がついているようだとアイミネアは思った。すぐにいくつかの棒がぐらぐらとゆれ始める。
「棒、何かに使えるかも。誰か落とさないように掴んで」
ガートルードに言われるとすぐに、はじかれたようにシャティアーナとミネルヴァが立ち上がった。ガートルードの両脇に立って、揺らぎ始めた棒を抜き取っている。アイミネアは握っていた、先ほど外れた初めの棒を眺めた。『宴』で使われる棍棒よりだいぶ軽く、細く、アイミネアの小さな手にしっくりとなじんでいる。
「これ、武器に認定されるかしら」
つぶやくと、ルーカが首をかしげた。
「さあ。喉もとに突きつけたって、棍棒と同じような効果は期待できないわね。でもまあ、一応持っておいても悪くはないかも」
「そうね」
うなずいて、アイミネアはそれを握ったまま立ち上がった。窓を戒めていた棒のうち、何本かは既に取り払われ、隙間が広がっていた。もう少し開けば、あそこからみんなが出られる。そう思った矢先、ガートルードがぴたりと動きを止めた。その表情は真剣で、なにやら気になるものを探り当てたようだ。
「――だめだ」
ややあって、ガートルードは低くつぶやいた。ミネルヴァとシャティアーナが顔を見合わせる。
「だめだって? 何が?」
「これ以上はずさないほうがいいみたい。感触が――変」
ガートルードは背伸びをやめて、ため息とともに、出していた右腕を引っ込めた。その手には、ほぐされた糸の先が握られていた。
「変って?」
「これ見て。今はずした部分は全部、この紐一本でくくられていたの。で、残りの大半は他の紐で結わえられてる。で……その先に、何か、わなが仕掛けられてる――かもしれない」
「わな?」
「鳴り子みたいなものだと思うんだけど。端っこを触ったら、かすかな音がしたの。誰か聞こえなかった?」
残りの四人は顔を見合わせた。どの顔も、何も聞いてないと語っている。ガートルードは自信なさそうだったが、自分の説を曲げる気はなさそうだった。
「本当よ。はずしたら大きな音で知らせる仕組みだと思う」
「え、ちょっと待ってよ。それじゃここから出られないってことじゃないの」
ルーカがぱっと立ち上がった。ガートルードは幾分、身構えたように見えた。ルーカから目をそらして、窓の外に残っているほどけた紐を手繰り寄せ始めたりなどしている。ルーカは一歩、ガートルードに詰め寄った。
「ねえ、あたしたちその音聞こえなかったのよ。あんただってちょっと触っただけでしょ? もうちょっとで出られるじゃないの、あとほんの二本か三本。ううん、一本でもなんとか出られる。何とかならないの?」
「だから、残りの棒は全部一本の紐でくくられてるの」
ガートルードは紐を手繰り寄せるのをやめて、真っ向からルーカを見た。
「あたしを信じないの? 残りの一本をはずしただけで大音量で鳴り子が発動して、誰かが様子を見に来てご覧なさいよ。ここからじゃ棒を元通りにするのなんて無理。逃げようとしたのすぐばれちゃって『処刑』されちゃうわよ。それでもいいの?」
「なによその言い方。鳴り子だって本当にあるかどうかわからないじゃないの――」
「触ればわかるわよ!」
二人はにらみ合った。もとからこの二人は仲が悪い。日ごろの悪感情が、ここに来て一気に噴出した格好である。アイミネアは部屋の中をぐるりと見回した。ガートルードがああいうのなら、もう窓から出る案は却下するしかない。別の抜け道を探し出せば、二人はすぐに喧嘩をやめるだろうというのは、ここ最近わかってきたことである。この部屋は比較的崩れていないほうだが、探せばどこかから出られるかもしれない。最上階ということもあるし、天井から出るという手も――
「ちょっとちょっとやめてよ」
アイミネアが部屋の中を見回し始めたのと同じくらいに、ミネルヴァが二人の間に割って入った。あの子も苦労するな、とアイミネアは背後にそれを聞きながら思った。あの子がいてくれて本当に助かった、とも。
「喧嘩したってしょうがないでしょ? 別の抜け道を――」
「そんなものあるわけないじゃない!」
ルーカが叫んだ。どうしてあの人はああも怒りっぽいんだろう、と、もとは寝台だったらしい家具の残骸を覗きながらアイミネアは思った。
「この部屋ほとんど崩れてないじゃないの、壁からじゃ外の声も聞こえないくらいよ。窓以外に出られそうなところなんてないじゃないの。あの窓だってもう少し広げなきゃ、あんな隙間からじゃアイナくらいしか出られないわよ」
「あたしだって無理よ!」
いきなり水を向けられて、アイミネアは思わず振り返った。その拍子にがつん、と寝台の残骸に足をぶつけ、顔をしかめる。
「あら大丈夫よ、あんた頭が通れば何とかすり抜けられるじゃない」
「あたしは猫か!」
叫びながらも、でも何とか通れるかもしれないな、と思ってしまう自分が悔しい。アイミネアは耳がこすれないくらいの幅なら、自分が横向きになって通り抜けられるということを知っていた。しかしそれは頭が少し大きいとか、胸や腰にボリュームがないとか、そういう事実を示すことなのであまり認めたくはない。
「シャティアーナ、あんたここから出たいんでしょ。あるかどうかわからないような鳴り子を敬遠して、みすみす出られるチャンスを逃すつもり?」
ルーカがシャティアーナに水を向け、アイミネアは再び寝台に振り返った。どの道、あそこからはシャティアーナが出られないのだから――華奢なくせにめりはりのある体型が羨ましい――別の抜け道を探すしかないのだ。再び探索にいそしみ始めたアイミネアをよそに、シャティアーナは落ち着いた口調で言った。
「……あたしにも音は聞こえなかった。けど、ガートがそう言うなら、これ以上解くのはやめましょう」
「なんでよ!」
「ガートは地図作成隊だもの。わなとかの構造に詳しいわ」
「あんたね――」
言い募ろうとしたルーカの言葉を、ごとん、という重々しい音がさえぎった。アイミネアが残骸と四苦八苦して立てた音だ。決してわざとではない。しかし今大きな破片を動かしたおかげで、床の崩れた部分が露出して、アイミネアはみんなを振り返った。
「し――声を低くして。床の崩れてるところを見つけた」
四人は顔を見合わせ、こちらに駆け寄ってきた。崩れかけた床からすうっと空気が通ってくる。一番大きくて重い、寝台の土台に手をかけると、みんな何も言わずに手伝ってくれた。ずりずりと重苦しい音を立てて、土台が動く。
「穴が……」
シャティアーナが低くつぶやき、ガートルードがかすかな音で口笛を吹いた。
一番大柄なルーカでさえ無理すれば通れそうな穴が、壁に沿って開いていた。
* * *
「寝台の破片だけ残されてるのがおかしいと思ったのよね」
見苦しいとは思いながら、アイミネアはどうしても、手柄話をしたくてたまらなかった。もちろん声を潜めて、ではあったが。
「すごいわ、アイナ」
シャティアーナがにこにこして言ってくれる。ガートルードがにやっと笑って肩を叩いてくれた。ミネルヴァは満面の笑みだ。ルーカは……彼女の方は、怖くて見られなかった。憎憎しげな顔でもされたら厭な気分になってしまう。
「そうか、この穴をふさぐためだったってわけね」
ミネルヴァが言い、座り込んで、穴を覗き込んだ。茶色かかったさらりとした髪が、アイミネアの目の前を流れ、穴から下にこぼれる。ミネルヴァは可愛い顔立ちをしていた。やわらかそうなさらさらの髪をひじくらいまで伸ばした彼女の外見は、楚々とした可憐な風情で、十四歳にして戦闘組の中でも一目置かれる存在にはとても、見えない。
ミネルヴァはすぐに身を起こし、誰もいないみたい、とつぶやいて、止めるまもなくひょいと穴のふちに手をかけた。ほとんど体重を感じさせない軽やかな動きで、穴の中に滑り込む。床までは結構な高さがあったが、穴のふちにぶら下がったミネルヴァはまったくためらわずにぽん、と飛び降りた。着地もスムーズだった。降り立った彼女のあとを追いかけて、髪がふわりと舞い降りていく。
「猫みたい」
ガートルードが感心したようにつぶやき、アイミネアはその形容の端的さにうなずいた。本当に、ミネルヴァは猫みたいに軽やかに動く。
「ちょっとそこで待っていて。偵察してまいります!」
抑えた声でミネルヴァは言い、ほとんど足音も立てずに部屋を横切っていった。その姿は、すぐに視界から出て行ってしまう。
アイミネアは彼女の姿を追うように、穴の中に頭を突き出して、部屋を見回してみた。
ミネルヴァが降り立った部屋も、あまり崩れていなかった。殺風景なのは同じだが、五人が押し込められた『姫の間』よりも整っているくらいだ。本当なら、グスタフは、ここに媛隊を入れたかったに違いない。そうしなかったのは、多分、高い場所の方が助け出しにくいと思ったからだろう。自力脱出を試みた者は――いたかもしれないが、それでも成功させたものは――いない。媛を閉じ込める場所は、逃げ出しにくい場所よりも、助け出しにくい場所を選ぶほうが普通だ。
――……?
アイミネアはふと眉をひそめた。今、何か、頭に引っかかった。……なんだろう?
しかしそれについて深く考える間もないうちに、慌てたミネルヴァが視界に戻ってきた。足音を立てないのはさすがだが、穴の下で焦ったようにぱたぱたと手を振っている。どうやら引き上げてくれと言っているらしい。アイミネアはガートルードと目を見合わせ、すぐに、ガートルードが床に腹ばいになり、穴の中に両手を突き出した。
アイミネアは急いでガートルードの後ろに回って、彼女の肩に手をかけて両足を踏ん張った。穴の反対側では、ルーカとシャティアーナが同じことをしている。ミネルヴァはガートルードとルーカの手を掴んで、身軽に、部屋の中に戻ってきた。
「扉の外に人がいっぱい」
息を切らせて、ミネルヴァは囁いた。
「あの部屋から逃げるのは無理みたい。この部屋と違って扉が薄くて、廊下の声が漏れてた。五人くらいはいたと思う。窓にもここと同じように棒が渡してあって」
「なによそれ」
重い荷物を引っ張り上げたルーカも、息を切らしていた。そのおかげで声は弱められていたが、その口調の鋭さは変わらない。ミネルヴァはちょっと、身をすくめるようにした。ルーカが言い募る。
「ここからもダメだっていうの。五人の見張りですって? 東軍だって今、初戦に進軍中のはずでしょ。そんな人数を割いてるわけないじゃないの」
「でも、聞こえたの」
ミネルヴァは困ったようにそういい、さっきどけたばかりの家具の破片に手をかけた。元通り、穴を閉じようというのだろう。彼女はルーカの剣幕に気後れしたようだったが、自説を曲げる気はないようだった。
「じゃあどうすればいいっていうのよ! 入り口からもダメ、窓からもダメ、床下からもダメだなんて――」
「あのさあ」
うんざりしたように言ったのは、ガートルードだった。目はルーカを見据えている。いよいよ、噴火するのかもしれない。険悪な雰囲気に、アイミネアはミネルヴァにちらりと視線をやった。ミネルヴァの、救いを求めるような視線とぶつかってしまう。二つも年下の、そのかわいらしい少女に、しかしアイミネアは困ったように首を振ってやることしかできなかった。
「さっきからえらそうなことばかり言って。あんたはどうなのよ? ぜんぜん何もしてないじゃないの」
抑えた声だったが、ガートルードの口調も鋭い。二人は穴を挟んで向かい合っていた。毛が逆立っているように見えるのは――目の錯覚だろうな、多分。ミネルヴァのわきへ行きながら、アイミネアはそんなことを思う。
「あたしは食糧補給隊よ。あたしの仕事は今はないの!」
「アイナだって伝令隊よ。でもちゃんと自分にできることしてるじゃない」
「アイナはね。あんたはどう? 鳴り子だなんていい加減なこと言って」
「いい加減ですって? じゃあ自分で確かめてみたら。どうせ鳴り子を大音量で鳴らすのが落ちでしょうけど」
低めていた声が次第に高くなる。アイミネアは首をすくめながら、シャティアーナとミネルヴァの協力を得て、二人の間の穴をふさぐべく家具の破片を動かした。ずりずり。重い。気分まで重くなる。せっかく床の穴を見つけても、グスタフの方が上手だったってわけだ。その考えはアイミネアの気持ちを暗澹とさせた。いったいどうやったら、グスタフを出し抜くことができるというのだろう。
――……何か、変。
再び、アイミネアの脳裏を違和感が過ぎった。なんだろう。何が、引っかかるのだろう。
考えながらも、三人の努力で、穴が元通りふさがれた。二人の言い合いは、穴がふさがれた後はいよいよ大きくなって続いている。穴が開いていたら、やっぱり無意識に遠慮するのだろうが、ふさがれた今では、昼間に外で怒鳴りあうくらいの音量にまで高まった。髪の毛をつかみ合わないのが不思議なくらいだ。
ミネルヴァはおろおろしている。
アイミネアは、もし扉の外にいる見張りが、この声を聞きつけて扉を開けたらと気が気ではない。しかしこうなってしまった以上、下手にとめるのは逆効果だ。口を挟むタイミングを計りながら、苛立ちで頭をかきむしりたくなる。
シャティアーナは、つと立ち上がって、窓辺へ行ってカーテンを引いた。石造りの建物では、晩夏とはいえ夜は結構冷える。窓板がはずしてあるのだからなおさらだ。そのカーテンはかなり分厚く、媛隊が風邪を引かないようにとの、東軍の心遣いであるらしい。
しかし、今は真昼間だ。どうしてカーテンなんか、と思ったアイミネアは、すぐに、万が一この口論を聞きつけて、扉の外の見張りが顔を出したときに備えるためだと気づいた。
そのとき、カーテンを握り締めたままのシャティアーナが、低めた声で言った。
「アイナ。……お願いがあるんだけど」
アイミネアはびっくりして、シャティアーナを見つめた。言い合いをしていた二人も口をつぐんでこちらを見ている。シャティアーナは二人には目もくれず、じっとアイミネアを見ていた。
「窓から出られるかどうか、試してくれないかしら」
言葉につられて立ち上がりながら、アイミネアはまじまじとシャティアーナを見つめてしまった。彼女は目をそらさない。
「でも、あたしだけ出られても……」
言いかけたアイミネアに、シャティアーナはちょっとだけ、困ったような顔をした。
「それしかないと思うの。出口はもうひとつあると思う。あの扉は――とこの部屋の唯一の出口を指し――外からかんぬきをかけてあるんでしょう。アイナが外から回って、はずしてくれれば」
「無理よ。見張りがいるじゃないの」
攻撃的に言ったのは、やはりルーカだ。しかしシャティアーナは首を振った。
「そうかしら。本当にいると思う? 外の音が聞こえないのは、扉がしっかりしているせいもあるんだろうけれど。隙間もなくぴったり閉まっているからと言って、音を完全に遮断できるわけじゃないわ。大きな音を立てれば、かすかな音くらいは、聞こえるはずでしょう」
「外で大きな音を立ててないだけじゃ――」
「中では立ててるわ」
シャティアーナの言葉に、アイミネアは、なるほど、と手を打ちそうになった。今の口論はかなりすごかった。というのは、もちろん口には出さない。
「中で音が聞こえれば、様子を見ようと扉を開けるくらいするんじゃないかしら。見張りなんてつまらない役だもの。それをしないのは、見張りの数が少なくて、扉を開けたとたんに逃げられるのを恐れているか」
「それとも、誰もいないか」
ミネルヴァがつぶやき、シャティアーナがうなずいた。アイミネアは、シャティアーナが口論をとめなかったのは、それを確かめていたからだろうか、と思った。口論に驚いて、見張りが顔を出すのではないかと。そのために、カーテンまで引いて。
「さっきルーカが言ったでしょう」
シャティアーナは低めた声のまま、続けていた。
「初戦の只中に、それほどの人数を見張りに割くわけがないって。あたしもそう思う。一人でも多く、戦闘に参加させたいだろうと思う。でも下には五人いた。五人だって驚くくらいの数だわ。でも必要だったのよ、五人いれば、あたしたちもここから逃げようとは思わないから。三人だとわからないけど」
みんなが、シャティアーナの言葉にうなずいている。ルーカもガートルードも、思い切り口論して気が済んだのか、今は妙におとなしい。アイミネアはこっそり、ため息をついた。そうね、とうなずいてみせる。この人並みはずれて小柄な自分が、あの細い隙間から出られさえすれば、外から回って扉を開けることができるというわけだ。
さすがのグスタフも、このアイナ様の小ささだけは勘定に入れなかったということか。それならば、とアイミネアは立ち上がった。グスタフの唯一の計算違い、やってみせようじゃないの! と。