第一日目 3節 銀狼隊の面々(ギルファス)
夜が明けてしばらく経つ空は、雲ひとつなく青く澄み渡っていた。
今朝、防水布をかぶって星空を見上げながら眠ったその場所に、ギルファスは立っていた。目の前には見慣れた、起伏の多い野原が広がっている。柔らかな草に覆われた心地の良い草原は、中央がこんもりと盛り上がっていて、今朝の戦いではまずあそこを取り合うことになる。あの場所を占拠してしまいさえすれば、敵の陣までは見晴らしの良いなだらかな斜面が広がるのみで、視界を妨げるものは何もない。普段は取るに足らぬこんもりした丘が、『宴』においては戦況を左右するほどの重要な拠点になるのだった。
夜が明ける前は暗くて見えなかったが、日の光の満ち溢れた今は、あの丘の向こうに、いくつかの廃墟が突き出しているのが見えた。かつて王族や貴族たちが雅を競っていた壮麗な建物群は、今は見る影もなく壊れ、崩され、その残骸を野にさらしている。それは狩の得意なギルファスには、巨大な生き物の骸を思わせた。自分の身長の倍くらいありそうな巨大な牙猫や鉤爪たちが斃れ、地に伏し、他の生き物に肉をすべて食べられた後、妙に白い骨だけをむなしく晒しているかのように。触ると崩れそうに見えながら、実は結構頑丈で、しっかりとした手ごたえのある――そういうところまで、似通っていた。
あの中のどれかに、シャティアーナがいるのだ。
彼の許婚、一生に一度だけ組むことのできる、『宴』においての彼の片割れ。誰よりも大切で、そして彼女につりあう男になりたいと思うといても立ってもいられなくなる――大切な、少女が。
先日の話し合いの後、シャティアーナがぽつりと漏らした言葉を、ギルファスは思い返していた。シャティアーナは珍しく気弱げな様子で、迷うように視線をそらせていた。
『ごめんね、』
シャティアーナは、会議を終え解散する人々を縫ってこちらに近づいてくると、後ろめたそうな声でそういった。
『ごめんね、ギルファス。わがままを言って』
『わがまま?』
ギルファスは怪訝に思った。何を謝っているのか、何をわがままと言っているのか、さっぱりわからなかった。先ほどのシャティアーナは堂々と自分の主張を展開し、礼儀正しく、とても綺麗だった。さすが媛に選ばれるだけのことはあると、ギルファスがもう少し自分に自信があったら、そう言っていたことだろう。
『何がわがままなんだ?』
『媛の自力脱出を主張するなんて、わがままだと思わなかった? あたしが自分の手柄だけを主張して、銀狼の出番を取ろうとしているとか、思わなかった?』
ギルファスはあっけに取られた。冗談を言っているのかと思ったが、シャティアーナの表情は悲しげなまでに真剣だった。
『そんなこと思うわけないだろう』
口を出た言葉は、自分でも思いがけないくらい激しかった。もどかしかった。シャティアーナの案は素晴らしいと、ぜひそれを成功させたいと、思っているのに上手く言葉にできない自分が。普段は思った言葉がすらすらと口から出てくるのに、シャティアーナの前に出ると、なぜか言いたい言葉はのどの奥に引っかかってしまう。
動け、俺の口。
焦りつつ、自分の口を呪う。どうやるんだっけ……どうやったら、言葉というものは、口からすんなり出るようになるんだっけ?
『シャティは、俺が自由に動けるように、自力脱出を主張してくれたんだろ』
つっかえながらも、なんとか口が動いた。ぶっきらぼうな口調なのは、許してもらうしかない。
シャティアーナは迷うように目を泳がせ、そしてうつむいた。
『うん……そうなんだけど。でもそれだけじゃないの』
そして顔を上げる。頬が紅潮している。まっすぐに見つめられ、ギルファスは思わずその黒々とした瞳の色に見入ってしまった。吸い込まれそうな、深い深い――夜空の色。
『昔語りでは、乙女は、戦うのを嫌って銀狼に助け出されるのを黙って待っていたと聞いた。でもあたしは、そんなのは厭なの。待っているだけなんて厭、役に立てなくてもいいから、せめて足枷にだけはなりたくなかった。設定のためだけに、『宴』を盛り上げるためだけに、捕虜になるなんて屈辱だわ。ごめん、ギルファス……銀狼を自由にするためなんて建前なの。あれはあたしのわがままなの。そのせいで西軍を危険に晒し、敵の情報を探るという大事な仕事もほっぽり出して……』
『シャティ?』
呆然と、ギルファスは、許婚の名を呼んだ。なぜ、今、こんなことを俺に話すのだろう。わからないままに、今のシャティの言葉が、一つ一つ胸に染み入ってくる。
屈辱。設定のためだけに、捕虜になるなんて。建前、わがまま――
そんなことを考えていたのか、シャティアーナ。言葉にできない感情が、ギルファスの中にわきあがってきた。それはともすればギルファスを打ちのめしてしまいそうなほど、激しい感情だった。どうしてなんだ、と胸の奥で誰かが叫んでいる。どうしてなんだ、どうしてシャティはそんなことを考え、そして実行することができるのだろう、俺はまだ銀狼になるための心の準備すらできていないというのに!
媛になることは、そう言われてみれば、なるほど屈辱的なことかもしれない。『設定』のためだけに捕虜にされ、助け出されるのを待つだけの存在。自分では何ひとつすることもできない、お飾り的な――ちょっと見目がよければ誰でもいいというような。けれど誰もが媛になりたがる。その立場の本当の意味になど気づこうともせずに。
ギルファスが、引け目を感じたのはそのときだった。ゴードがシャティアーナを選んだのは、間違いじゃなかった。シャティはなるべくして媛になったのだ、という思いが、唐突に、天啓のように沸き起こってくる。『宴』における媛の本質を見抜き、それを厭い、選ばれてしまったからにはお飾りじゃない媛になりたいと望み、行動を起こす――そして会議の場で実際にみんなを納得させてしまえるような少女が、いったいどれだけいるというのだろう!
『ごめん……ギルファス。黙っているのは卑怯かと思って……変な話をしちゃったね』
シャティアーナは微笑んで、そして、そのまま一歩だけ後ろに下がった。ギルファスの沈黙をどう解釈したのか、それは悲しそうな微笑だった。
『がんばろうね、ギルファス。あたしは、お兄ちゃ――東軍副将に絶対負けたくない。ギルファスなら、それ、わかってくれるでしょ?』
「おい!」
背を叩かれて、ギルファスは長い物思いから我に返った。振り返ると、西軍銀狼隊の一人、ラムズが、きょとんとした顔でこちらを見上げている。ラムズは二つ年上だが、ギルファスより少し背が低い。
「どうしたんだよ、ボーっとして? 緊張してるのか?」
「ああ……いや」
目をそらして、ギルファスはつぶやいた。シャティアーナの告白を聞いたときから、ギルファスは、本当に自分が自分だけの力で銀狼に選ばれたのか、自信がもてなくなった。シャティアーナの許婚だからという理由で、ミンスター地区で一番有名なカップルを演じるのが許婚同士だったらなんと劇的なことか、という理由で、選ばれたのではないのか――。
それこそ、屈辱的なことではないか?
「ま、そんなに緊張することはないよ」
ラムズは困ったようにそう言った。誤解されているのはわかったが、さりとて誤解してくれたのはありがたい。このどろどろとした気持ちなど、例えグスタフやルーディにだって、理解されたいとは思わないのだから。
「俺も銀狼になったときは緊張したけどさ。何とかなるもんだよ、いつも通りにしてりゃいいんだから」
ラムズは二年前に、銀狼を経験している。銀狼隊はギルファスを入れて五人で編成されていたが、そのうちの二人が銀狼経験者だった。ラムズとウィルフレッドという、二人の銀狼経験者がいてくれるのは、ギルファスにとってはとても心強いことだった。
「いつもどおり……ね」
物思いを振り払って、ギルファスは微笑んだ。ラムズも嬉しそうににっこりする。
「そうそう、いつもどおりに。でもびっくりしたな、お前のような大雑把で無鉄砲で怖いもの知らずな奴でも、緊張したりするんだなあ」
「ひどいな」
苦笑する、と、後ろから割り込んできたのは、マディルスという少年だった。今年の銀狼隊では一番年下の、小柄だが元気のいい少年である。
「そうそう俺もびっくりしたよ、ギルファスが緊張してる! ってさ」
「なんだよマディまで」
「だぁいじょうぶだってギルファス、この俺がついてんだから! どんとこいさ! 大船に乗った気持ちで――」
「なに大きなこと言ってんだよ」
これまた後ろから、あきれたようなルーディの声がした。見ると、白い鉢巻を額に締め、布を巻いた棍棒を持ったルーディが顔をしかめてマディルスを見ている。彼も銀狼隊の構成員の一人だった。ギルファスの親友で、いつもは温和で場の雰囲気を悪くすることはめったにないのだが、マディルスにだけは今のように、不快な態度を見せる。
マディルスは自分と同年齢の少年で銀狼隊に入れたのが自分だけだということをとても誇りに思っていて、準備期間の間中、ことあるごとにそれを口にしていた。その言葉はしばしば、他の同年齢の少年たちを軽視する事柄にまで及び、その無神経さ――言葉が悪ければ、天真爛漫さ――は、周りとの和を重んじるルーディの癇に障るらしい。表立って諌めることはないものの、マディルスへの悪感情はどうしても彼の言動の端々に現れる。マディルスの方もそれを承知していて、それでも遠慮するような性格ではないのか、二人の対立はそのうち表面化するだろうと、ラムズが心配そうに言っていたっけ。
銀狼隊の最後の構成員、ウィルフレッドも、そのひょろりとした体をかがめるようにして、なだめるようにルーディを見ている。
「なんだよ――」
マディルスが不満げに言い募ろうとするのを、さりげなくラムズが止めた。
「そろそろ始まるぜ。ほら、ゴードが出てきた」
見ると、なるほど、ゴードがゆっくりと、勢ぞろいした西軍兵士たちの前に出て行くところだった。彼は堂々とした体躯ではなかったが、体つきには無駄がなく、姿勢も良い。西軍大将の証である純白のマントがとてもよく似合っていた。そして彼の後ろにつき従うのは、茶に白い縁取りをしたマントを羽織ったカーラである。アイミネアの尊敬するカーラ女史は背が高く、堂々としていて、とても華やかだった。
周りでざわついていた人々が、ゴードとカーラの動きに従って、しん、と静まる。ギルファスも姿勢を正した。
いよいよだ。いよいよ――始まるのだ。
「おはよう、勇敢なる西軍の諸君」
ゴードの声は低いが張りがあって、ゴードのすぐそばにいるギルファスにはもちろん、西軍の一番端にいる者にでも良く聞こえるだろう。
「いい天気でよかった。さて、いよいよ今年の『宴』が始まるわけだが――諸君らの大将として、わたしが」
ゴードは両足を踏ん張り、堂々と一礼した。
「そして副将としてはこちらの、カーラが」
「よろしく」
カーラ女史は、ゴードの左脇に立って、優雅に一礼した。それは女性のする礼ではなく、ゴードと同じ勇ましい戦士風の礼である。赤みを帯びた見事な髪を高々と結い上げ、耳の脇の長い髪だけを風になびかせた彼女には、そちらの方が似つかわしい。
彼女は長いこと、アイミネアと同じ『伝令隊』の隊長を務めていた。その手腕には目を見張るものがあり、彼女の率いる『伝令隊』はいつも勇猛で有能なことで知られていた。アイミネアには言っていないが、カーラの下で働いているアイミネアを敵に回すのは、グスタフを敵に回すのと同じくらい恐ろしい。
今年も『伝令隊』を率いたいと強い希望を出していたカーラだが、ゴードが何度も頭を下げて、副将にと頼んだらしい――ということは、西軍でまことしやかに囁かれている噂だった。
ゴードの紹介は続いている。地図作成隊隊長には、ルドルフ。食糧補給隊隊長には、ドーラ。伝令隊隊長には、ネイル――
紹介にしたがって、西軍の中から、応えが上がる。一つ一つの返事を聞くたびに、いやおうなしに興奮が高まっていく。
「最後に、南守備隊隊長にはローヴ」
「おう!」
すぐにローヴの野太い声がそれに応え、ゴードは律儀にそちらに向かってうなずいた。
「この配置に異論のあるものは、今のうちに申し出て欲しい」
紹介を締めくくったゴードの言葉に、辺りはしんと静まり返った。異論など唱えるものがいるはずはない。この配置は準備期間に知っていたことだったし、誰が見ても適切な配置だと納得できるものだったのだから。これは毎年の、決まり文句のようなものだ。ゴードは何秒間か待った後、重々しくうなずいた。
「よし、それでは――銀狼よ、どうぞ」
「……」
ギルファスは反射的に返事をしそうになって、今は言葉を発してはいけないことを危ういところで思い出した。銀狼は呼ばれて軽々しく返事をするような存在であってはならない。棍棒を握りなおし、大きく息を吸ってから、西軍と大将たちを隔てるわずかな空間を歩いていった。心臓は高鳴っていたが、ありがたいことに、足は震えていない。これから何をするべきかはわかっている。毎年、羨望と憧れを持って、この簡単な儀式を見つめてきたのだから。
二人の前にたどり着くと、棍棒を左手に逆手で持ち、先がまっすぐ地面をさすようにひじを曲げて構えた。
ゴードの目が優しく微笑んでいる。勇気付けるように微笑んでくれた後、ゴードは重々しく口を開いた。
「銀狼よ。我々は今から、青いしるしを戴く侵略者たちから、我々の愛する故郷を守る戦いに赴く」
さわやかな風が草原を渡っていく。その風を頬に受け、ギルファスは沈黙を守っていた。心臓はまだその存在が如実に感じられるほどに高鳴っていたが、脳の中は静かに――自分でも意外に思えるほどに、落ち着いている。
「銀狼よ、我々はあなたの助力を乞う。愛する故郷を侵略者どもの手から守るには、あなたの牙と爪が必要なのだ」
「条件がある」
自然に言葉がのどから滑り出た。声は震えていない。この儀式は昔語りによると、実際にあった問答らしい。誇り高い銀狼の言った言葉を、震えた弱弱しい声などで、伝えるわけにはいかない。ギルファスはゴードの目を見据え、できる限り重々しく響くように気をつけて、次の言葉を口にした。
「わたしには、お前たちの故郷を、わが身を犠牲にしてまで守ってやる義理はない。だが、わたしには青き侵略者どもと戦う理由がある」
「理由とは?」
ゴードの声も落ち着いている。ギルファスは息を吸いなおす。薫り高い風が肺の中にまで吹き込んでくる。
「わたしの愛する乙女が、奴らの手に捕らえられている」
一語一語丁寧に発音しながら、左手の棍棒を握りなおす。そう――媛が向こうにいる。シャティアーナが。銀狼になれたこの年に、媛がシャティアーナだったということは、本当に幸運なことだった。他の娘が媛だったなら、今ギルファスが感じている、この同じ気持ちになれたかどうか。
「媛を助け出すまでは、わたしとお前たちの利害は、一致していると思う」
「もちろん、お約束する。我々もあなたの乙女を愛している、彼女の身を救うために、わが軍は最後の一人になっても、勇敢にあなたについていくだろう」
普段ならば赤面するような言葉でも、赤面どころか地面を転げまわりたくなるような台詞でも、長年慣れ親しんだ儀式では、平然と聞き、そして口にすることができる。ギルファスはうなずいて、左手に構えた棍棒を、地面と水平になるようにして、ゴードの前に突き出した。
「それならば、手を組もう、西軍の勇敢な人々よ。媛を助け出すまでは、わたしはお前たちの敵を倒すこの牙と爪を、お前たちのために使うことを誓う」
「我々もあなたと乙女のために、この身と武器を使うことを誓う」
ゴードは返礼し、左手に持った棍棒を突き出した。二人の動きはまったく同時だった。逆手に持っていた棍棒を、くるり、と空中で持ち替える。間髪をいれず、順手に握った棍棒の腹を、絶妙なタイミングでかみ合わせる。かしん! と中身の詰まった音が、その場に響いた。
「目指すは東軍ガスタールの首」
「目指すは青き旗の翻る場所」
「愛する故郷と乙女のために」
「いざ――」
ゴードの晴れやかな顔に、ギルファスは笑みを返す。それは一瞬の空白。高鳴る胸の鼓動をかき消すような大声で、彼は高らかに叫んだ。
「いざ、行こう!」