番外編 三日後の夜(アイミネア)(3)
* * *
少し、だけ。
ルーディは木の上を見上げた。
アイミネアの姿は、闇に隠れて見えなかった。黒々とした木の作り出す影は周りの闇よりもよほど濃い。でも見えなくても、あの子は確かにそこにいる。いる、はず。なのに。
――本当に?
頭の中で、ひどく気弱な自分が訊ねる。
――本当に、アイナはあそこにいるのかな。
信じられない気が、した。
アイミネアが自分のためにそこに留まっているなんて、いてくれるなんて、あり得るだろうか。
――グスタフは、もうすぐここを出ていく。
そうしたら、アイミネアは、どうするんだろう。
グスタフがいなくなったこの地区に、アイミネアは留まっていてくれるのだろうか。
ルーディにとって、アイミネアほど身軽な存在はなかった。体重がないみたいだといつも思っていた。アイミネアの歌声が、伸びやかに、どこまでも夜気にほどけていくのと同じように。ミンスター地区という小さな世界の中に、いつかアイミネアの姿が、見えなくなる日が来るのではないだろうか。
それが、ルーディは心配でたまらなかった。
だから。
「少しだけ……」
呟いて、ルーディは、苦笑した。
言えるはずがない、と思った。
少しだけでも、自分の存在が、アイミネアをこの地区の中につなぎ止める足枷になれればいいのに、などと。
アイミネアの中には、自分の存在なんて、これっぽっちもないというのに。
「少し、だけ……?」
かすかな、木々の枝のこすれる音に紛れそうな小さな声が、幻聴のように耳に届く。
その声が耳に届いた、瞬間だった。
様々な感情の織りなす嵐が、唐突に胸の中にわき起こった。
その嵐はアイミネアへの思慕はもちろん、グスタフへの嫉妬や、矮小な自分への嫌悪や、何故アイミネアがこんなところで一人で泣くほどに別れを惜しんでいる存在に、なることができないのか、という暗い感情などが、さまざまに入り組んだ複雑なもので――恐ろしく激しい衝動を伴うものだった。三日前にアイミネアを抱きしめたときよりも更に強いその衝動は、もう少しでルーディを押し流すところだった。
どうしたらアイミネアをこちらに向かせることが出来るのだろう。
どうしてもこちらを向かないのなら、いっそのこと。
様々な色を含んだ激しい衝動の嵐は、一瞬で単純な欲望へと変化した。力ずくでもアイミネアを手に入れたいという狂おしいほどの欲望が鳩尾の辺りから噴き上がってくる。それを解き放とうか、解き放ってしまってもいいのではないか、と逡巡する自分を感じながら、そんなことが出来るはずがないということもわかっている。
「……アイナ」
呟いた自分の声はいつにもましてかすれている。それを聞きながら、頭のどこかの冷静な自分が、アイミネアが今自分の手の届くところにいなくて良かった、と考えていた。目の前にいたら最後、あの小さな少女を壊してしまわずにはいられなかっただろう。そんなことをしたくはなかった。アイミネアには今のままの、軽やかな存在でいて欲しいと、今生じた激しい欲望よりもずっと強く思い続けてきたのだ。
「アイナ」
ルーディは少女の名前を繰り返した。木の陰で、アイミネアが身じろぎをしたのを感じる。ルーディは、先ほど浮かべた苦笑をまだ口元に張り付けたまま、未だ残る欲望の渦を静かに、そして冷酷に、押し殺した。わずかに哀しい気持ちが沸き上がった。諦めるしかない、という、今までもずっとわかっていた事実を、ルーディは黙って受け入れた。
* * *
「ルーディ……?」
沈黙に耐えかねて、囁いた。ルーディの中に生じた激しい感情の渦の存在を、その正体こそわからないものの、アイミネアは敏感に感じとった。感じ取って、いっそう哀しくなった。ルーディがその激しい感情を、黙って、静かに押し殺すところまではっきりわかってしまったからだ。
ルーディはきっと、ずっとこうして、あたしへの気持ちを押し殺してきたんだ。
そうでなければ今まで、こんなに激しい感情の存在に、全く気づかずにいられたはずがない。
そう悟った彼女は、自分が恥ずかしいとさえ思った。アイミネアの気持ちは――本人はいざ知らず――地区の若者たちの中では結構知られている、というのは、ここ最近でわかってきたことだ。あたしはグスタフがあたしの気持ちには応えないことを知っていながら、諦めたと思っていながら、感情を隠す努力をしてこなかった。それでは諦めたとは言えない。相手に気持ちを知って欲しいと望むことは、相手に何らかの反応を強いることと同じだから。
ルーディが、『宴』での感情の発露を悔いているということまで、推測ではなく理解してしまうのは、ルーディとアイミネアがいわば同じ立場にいることから生ずる不思議な連帯感の故だろうか。アイミネアの心の内にはルーディの自制心に尊敬の念さえ湧いてきていた。だからこそ、哀しくなった。ルーディに応えることは出来ないけれど、ここまで思ってくれた相手に対して、自分の出来ることなら何でもしたいと思った。『できるなら、少しだけ』とルーディは言った。何を望んでいるのか言ってくれさえすれば。
そう思うのは、傲慢だろうか。
ふとそういう思念が湧いて、彼女は息を飲んだ。
そうだ、もし、グスタフがあたしの気持ちを知ったら。
応えられないけれど、自分に出来ることは何でもしたい、なんて、思って欲しいだろうか。
アイミネアは唇を噛んだ。飛んでもないと思った。応えてくれないのなら、他には何もして欲しくはなかった。同情なんていらない。そして、あたしの気持ちを打ち明けることでグスタフがここに留まるという奇跡が起きるとしても、自分のせいでグスタフがどこにも行けなくなると言う事態もごめんだった。
ああ、そうか、とアイミネアは思う。
もう、どうしようもないのだ。
駄々をこねても仕方がない。もう本当にどうしようもないのだ。全てはグスタフが高等学校に行くという話が出た時点で終わっていたのだ。グスタフに付いていくことも、留まってもらうことも、自分にはできない。断られるにしたって相手の心に何らかの波紋を生じるのは避けられないことだし、その波紋すらも厭わしいものだった。相手に何も望まないのならば、気持ちを打ち明けることもない。そう思うと何かひどくすがすがしい気分になり、だから、ルーディが何か全てを飲み下したような声で言葉を継いだ時の気持ちも、すんなりと理解することが出来たのだった。
ルーディは、こう言った。
「――ごめん、何でもないんだ」
アイミネアは、微笑んだ。ルーディとアイミネアの間で不思議な心のつながりが出来たのはこの瞬間だった。それは例えるならば戦友のような、奇妙な絆だった。『宴』のさなか、アルスターに出会ったときに感じた気持ちと少し似ていた。同じ目的に向かって行動する仲間が近くにいなくても、確かに存在しているのだと思うだけで気持ちが軽くなるような、不思議な連帯感。
後日、アイミネアはひょんなことから地区を出て長い旅路に赴くことになる。その時に、他の誰でもないルーディを同行に誘ったのは、この連帯感の故だった。
だがそれは後の話だ。今の時点でのアイミネアには、後日自分がそうすることなど知る由もなく、ただ自分と同じ結論にルーディが達したという事実が、単純に嬉しくて、微笑んだ。
そして彼女は、頭にライラの花冠を乗せて、木の枝を伝って地面に飛び降りた。
「ルーディ、あたしのこと、好きになってくれてありがとう」
ルーディの前に立って、彼女はそう言った。
「もう避けないから。――逃げないから。だから」
これからも、よろしく。
口から出た言葉は、もしかしたらこの場には相応しくなかったかも知れない。アイミネアの心に沸き上がっている、この不思議な感情を、全て言い表していたとも思えない。でもルーディには伝わった。彼はアイミネアを見上げて、この上もなく嬉しそうに、笑った。
これで完結です。
お付き合いありがとうございました!
アイミネアとルーディが一緒に旅に出る話についてはそのうち『魔女の遍歴』の方で出てくる予定です。




