番外編 三日後の夜(アイミネア)(2)
* * *
森の中は銀満月の光に照らし出されて、何もかもが淡く縁取りされてみえていた。
銀月の光は液体に似ている、と、夜森の中を歩くといつも思う。縁取りされた下生えの葉にこぼれた月の光は、今にもしたたり落ちて水音を立てそうに思える。
彼はゆっくりと歩いていた。俺は何をしてるんだろう、と考えていた。どうして歩いているんだろう。あの子は家にいなかった。彼が歌いに来ることを、知っていた、はずなのに。
それこそが彼女の答えであるのだと……わかっているのに、どうして今更、彼女を捜しているのだろう。
どうしてあんなことをしてしまったのだろうかと、後悔が胸を呵んでいた。この三日というもの、そのことを考えなかった時はない。突き動かされるようにして抱きしめてから、自分が一番驚いていた。良くあんなことが出来たものだ。あの子の気持ちは、痛いほどにわかっていたはずなのに。あの子の中に自分がいないことなんて、分かり切っていたことだったのに。
アイミネアの体は、余りにも細くて、小さくて、柔らかくて。この腕の中で、あの子は何を思っただろう。驚いて、そして――? 嫌悪を感じただろう。当たり前だ。いきなりあんなことをされたなら、怖がられても仕方がない。あんまり驚いたためだろうか、振りほどくことも出来ずに震えていた小さな体の感触は、三日経った今でもはっきりと思い出すことが出来る。
どうして、あんなことをしてしまったんだろう。
三日の間、アイミネアにはただの一度も会っていない。
狭い地区の中だ。普通に生活していたら、三日もあれば地区中の者に一度は会う。よほど閉じこもっていない限り。相手が、こちらを、避けてさえいない限り。
これからもずっと、避けられ続けるんだろうか。
それならば、と彼は思った。
それならば、どうしてあの時、あの子を放してしまったんだろう?
あのまま、時間が止まっていたら。どんなに幸せだっただろう。
「麗しき、人よ」
優しい、綺麗な声が聞こえて、彼は足を止めた。幻聴だろうか、とまず思った。あんまり聞きたくてたまらなかったから、木々の触れるあえかな音さえ、彼女の歌に聞こえてしまうのではないだろうか。
でも、歌は流れるように続いている。
「……わたしは誓う、この冴え冴えと白い、優しき月にかけて」
幻聴ではなかった。
確かに、アイミネアの歌だった。彼は目を眇めて、声の源を探した。アイミネアは歌が上手い。誰も聞いていないときでも彼女の歌は美しく、ルーディはそのことにただ感動した。誰に聞かせるためでもなく、ただ自分のためだけに歌う声でさえ、こんなに優しいなんて。静かな歌声は清かに流れて彼の足を導いた。程なく、月光に照らされた巨木の枝に、どうやら寝ころんでいるらしい彼女のシルエットが見えた。仰向けに寝て、足を枝の下に垂らして、月の光を全身に浴びて、彼女は静かに歌っている。
「愛しい人よ、わたしは歌う」
誰に対して歌ってるんだろう。
思ってから、彼は自嘲するように口元を歪めた。決まっている。その相手はここにはいないけど、あの子はそいつのことしか見ていないのだから。
自分の感情を持て余しながら、彼は彼女の歌に耳を傾けた。この歌を聴いているのが自分だけだと言うことが、何にも代え難い恩恵のように、思えた。
しかし、歌はすぐに止む。やめないで欲しいと頼みたくても、あの子は、それがどんな歌でも、彼のために歌うことはないだろう。盗み聞きをした報いだろうかと考えながら、彼は様々な思いを込めて、呟いた。
「……見つけた」
呟いてから、苦笑した。見つけた。見つけて、しまった。見つけて何を話すつもりなのか。まだ覚悟など何も、出来ていないと言うのに。
* * *
あんまり驚いて、ただその人の名前を呟くことしかできなかった。
「る……ルー、ディ」
どうして、ここにいるの?
とっさに思ったことは言葉にならなかった。夢かと思ったけれど、ルーディは確かにそこに立って、月の光に照らされて、アイミネアを見上げていた。ルーディは優しい顔をしている。穏やかとか、穏和だとか、人の良さそうな、とか。様々な形容をされるルーディの顔は、今はただただ優しく見える。
「アイナの家、今、大騒ぎだよ」
ルーディは普段通りの、ややかすれた声で言った。アイミネアはごくりと唾を飲み込んだ。喉が嗄れてるみたいで、声が、上手く出ない。
「お父さん、怒ってる……かな」
ではやはりルーディはあたしの家に行ったのだ。そう考えながら当たり障りのないことを何とか喉から絞り出す、と、ルーディは笑った。
「怒ってない。……と、思うけど。双子が家に来た奴らを追い返すのに大騒ぎで、それどころじゃないみたいだ」
「え……?」
「あんなにライバルが多いとは。覚悟はしてたけど迂闊だった。俺が見ただけでも四人はいたよ。名前を知りたい?」
ルーディは軽口めいた口調でそう言いながら、歩み寄って、先ほどアイミネアの上から落ちた花冠を拾い上げた。どういうことだろう、とアイミネアは呆然としたまま考えていた。ルーディの突然の出現と、話の中身の不可解さに引っかき回されていて、頭が上手く働かない。ルーディは花冠を持ち上げて、こちらを見上げて微笑んだ。
「まだ誰も歌えてないよ。今帰れば聞けると思うけど」
アイミネアは目を閉じた。ルーディが何とか、アイミネアの気持ちをほぐそうとして軽口めいた言葉を選んでいるのだと言うことはわかっていた。でも。
――冗談でも。
今は辛い。
求歌なんか聞きたくない。それが誰の歌であれ。ルーディの歌も、ライラの歌も――シャティアーナに向けたギルファスの歌でさえも、聞きたくなんかなかった。
ルーディは木の下に立ち尽くしたまま、しばらくアイミネアを見上げていた。見ないで欲しいのに、と彼女は思った。あたしのことなんか、放っておいてくれればいいのに。このまま消えてしまいたかった。見つけないで欲しかった。そうっとしておいて、欲しかったのに。
でも、ルーディはここにいる。
「どうして、ここがわかったの……?」
何とか、言葉を絞り出した。話していないと沈黙に押しつぶされそうな気がした。今この場所で、この状況で、ルーディに見つめられているということが――重くて、痛くて、辛くて。耐えられないような気がする。
木から飛び降りて、走って逃げ出したいくらいだ。
と、ルーディは花冠を差し出してきた。アイミネアが手を伸ばせば、受け取ることが出来る距離だ。
「聞いたから」
「……誰に」
「アイナの家に行く前に、ライラに会ったんだ」
腕を差し伸べたまま、ルーディが言う。アイミネアは自分の手が震えているのを感じていたが、ルーディの体勢が辛そうだったので、ほとんど無意識のうちに手を伸ばして、ルーディから花冠を受け取った。
それだけで、ルーディは嬉しそうに笑った。
アイミネアは反対に泣きたくなる。
なんて顔をするんだろう。
「アイナの様子がいつもと違ったみたいだって、言ってたから。ここで会ったのは夕方だって言うし、もしかしたら帰ってこないつもりなのかも知れない、と思って」
「……」
「ごめん、アイナ。いきなりあんなことをしたら、怖がられても仕方ないよな」
「怖くなんか」
反射的に呟いたが、最後まで言うことは出来なかった。自分が怖がっていないとは言えない。どうして怖いのかわからないけれど、ルーディの口から自分への言葉を聞いてしまうのは怖い。
ルーディはこちらに背を向けて、数歩、歩いた。そのまま立ち去るのかと思ったが、ルーディは少し離れた場所に立つ木の根本に座り込んで、背中を木に預けて、こちらを見上げた。枝の上に座り込んだアイミネアからは、月の光の関係で、ルーディの顔がよく見えた。でも、ルーディからはきっと、こちらはよく見えないだろう。
――優しい、なあ……
今、アイミネアが、顔を見られたくないのだと言うことを知っていて、その場所に座ってくれたのだと言うことがよくわかった。
ああ、もう、泣きたい。
アイミネアは木の枝の上で体をずらせた。木の幹に背を預けて、ルーディと向かい合う格好に落ち着いた。膝を抱えてライラがくれた花冠に顔を付けると、柔らかな感触にいい匂いが漂う。
「俺、スパイ、だっただろ」
ルーディのかすれた声が夜気に響いた。
「どうしたらいいのかわからなかったんだ。どうしたらアイナに軽蔑されずにいられるか、わからなかった。これが本当の戦争だったらどんなにいいかと思ってた。本当の戦争だったら、俺は少なくとも、アイナの味方でいることを、迷うことなんてなかった」
そうだ。ルーディはスパイだったんだ。
アイミネアは花冠に顔を埋めたまま、ルーディの言葉を聞いていた。膝の隙間からルーディの顔が少し見える。ルーディはあの優しい顔のまま、まっすぐにこちらを見上げている。返事をするべきだろうか、と思ったけれど、何と言っていいのかわからなかった。
アイミネアはまだ、スパイの籤に選ばれたことはなかった。
自分がもしスパイだったなら、と彼女は考えた。ルーディのように出来ただろうか。ルーディはギルファスにも気づかれることなく、あの優しい顔のままで、スパイであることを全うした。軽蔑だなんてするはずがない。スパイの職務をやり遂げたルーディのことを、すごいと思いこそすれ、軽蔑だなんて。
アイミネアは花冠から顔を上げた。
そう、ルーディはちゃんとやり遂げることが出来た人なのだ。それだけの行動力を持った人だったんだ。あたしは今までグスタフと、自分の幼なじみであるギルファスのことしか見てなかった。ルーディがそんなことが出来る人だなんて、今まで全然知らなかった。
「でも、やっぱり……今の方が怖いかな」
ルーディは穏やかな口調でそう言った。
「怖い……?」
「怖いよ。これからもずっと、アイナが俺のことを避け続けるのかと思うと」
「……」
思わず枝の上に座り直した。そんなことしない、と言いたかった。でも、今の状況は何なんだ、と思うと何も言えなかった。
そうだ。
あたしは逃げ出したんだ。
怖くて、怖くて、ルーディの歌を聴きたくなくて。木の上によじ登って、無様にも震えていたんだ。
なんて卑怯な奴だろう。
「アイナ」
ルーディは真剣な顔をしてアイミネアを呼んだ。
「俺は、アイナが好きだ」
まっすぐな声に、胸が痛む。
「……うん」
どうして体が震えるんだろ。どこかで疑問に思いながらも、彼女は何とか、声だけで頷いた。全身がこわばってしまっていて、瞬きすら上手くできないみたいだった。体は金縛りになってしまっているのに、全身の感覚だけが研ぎ澄まされていく。
研ぎ澄まされた感覚の中に、ルーディの透明な声が染み通ってくる。優しい声。かすれた声。ルーディは泣き出したくなるほどに優しい。穏やかで、暖かくて、頼もしくて。ドルシェに追いかけられていたとき、ルーディが後ろに割り込んでくれて、どんなに安心できたことか。
――でも、あたしは、ルーディに恋は出来ない。
ほとんど泣き出しそうになりながら、アイミネアはそう思った。思ってから、たじろいだ。それが真実なのだと、悟ってしまったからだ。
グスタフがあたしを見ることがないのと同じように。
あたしは、ルーディに恋は出来ない。
「でも、」
優しいままの声で、ルーディが言った。
「花を降らせて欲しいとまでは望んでないんだ」
「……」
「ただ、知っておいて欲しかったんだ。それで、出来るなら、少しだけ」
……少し、だけ?
何だろう……? 出来るなら、少しだけ。何を望んでいるんだろう。
アイミネアは息を詰めてルーディの言葉を待った。




