番外編 三日後の夜(アイミネア)(1)
夜露が、冷たい。
――何、やってんのかな、あたし。
浮かぶのは、そんな自嘲するような呟きだけだった。木の上に寝そべって原っぱを見つめるあたしは、端から見たらどう見えるだろう。きっとさぞ滑稽だろう、なんて、考えても仕方のないことばかりが、脳裏に浮かんだ泡のように、膨らんで、はじけて、消えていく。
頭上には、銀色のまん丸い月がかかっている。
白い白い月の光に照らされて、原っぱはまるで光の海のようだった。原っぱを埋め尽くすように咲き誇る白い花弁の花々が、たっぷりと月の光を浴びて輝いている。地区中の女の子たちが籠に一杯ずつ摘んだと言うのに、この原っぱを埋め尽くす白い花はさほど減ったようには見えなかった。圧倒的な量の花々の前では、人間の活動などほとんど取るに足りないちっぽけなものでしかない。
月光を吸い込むように花びらを広げる花々に、月の光が降り注ぐ。月光を浴びた花びらは、かすかに夜露を含んでビロードのようになめらかだ。綺麗な花。可憐な花。見てると何だか怖いみたい。
――あたしね、歌いに、行こうかなって。
夕方会ったライラの声が、耳に甦ってきた。
花畑の中に座り込んだライラは、花を籠に入れてはいなかった。摘んだ花で、花冠を編んでいた。人気のなくなった原っぱに座り込んで、物思いに耽りながら。やってきたのがアイミネアだと悟ると、ライラはまるで手に持った白い花のように、晴れやかな透明な笑顔を見せた。
「よかった、来ないのかと思ってた」
その言葉で、ライラがアイミネアを待っていたことを悟る。アイミネアは何も言わずにただじっとライラを見つめた。ライラとは――少なくとも待ち伏せをされるほどには――仲良くもないし、もちろん仲が悪くもない。
「あの、あたし、あの……今日ね、歌おうと、思って」
ライラは照れくさそうにしながらも、そう、はっきりと言った。
話を聞く内に、少し、事情が飲み込めてきた。ライラには心に秘めた人がいて、その人の窓辺で、今夜、歌おうと言うのだ。その方法を思いついたのは、アイミネアのおかげだったのだとライラは言った。
「アイナが最後の日に、小屋の窓辺で歌ったって聞いて、あ、その手があったかって、思ったのよね」
アイミネアはぎくりと身をこわばらせた。ライラはもしかしたら、あの窓辺でアイミネアが何を考えていたのかを、知っているのではないかと、思って。
「やだな、あたしは別に、そんなつもりで歌ったんじゃないのに」
慌ててごまかすように呟く、と、ライラは晴れやかに笑った。
「わかってるよ。でもあたしにとっては、何て言うのかな……背中を押してもらえた感じ、だったの。だからアイナには言っておこうと思って。ね、内緒にしといてね。照れくさいから。でも待ってても絶対歌いに来てくれないと思うから、自分から行ってやるんだ。早めに行かないと出かけちゃう、かな」
相手が誰なのかまでは聞けなかった。ライラの言葉はアイミネアの胸に突き刺さってくるようだった。『待ってても絶対、歌いに来てくれない』、『だから、自分で歌いに行くのだ』。あんな風に、胸を張って言えたら。
あの日、あの窓辺で、求歌を歌って、――吹っ切った、つもりだった、のに。
「よく、決心したね」
胸の痛みを断ち切るように、アイミネアは言った。男の子が歌うことを決意するのも大変な勇気がいるそうなのに、ライラは、今まで誰も思いも寄らなかったことをしようとしているのだ。窓辺に行くまでに、何人もの男の子たちに会うだろう。男の子たちの声に混じって、ライラの高い声が響くなんて。震えはしないだろうか、上手く歌えるだろうか、相手は、ライラに、答えてくれるのだろうか。数々の不安が湧いてきたけれど、ライラの晴れやかな顔を見ていると、ああ、覚悟してるんだな、と思えて。頑張って、と思う気持ちと共に、羨ましくて、哀しい。
ライラは一応できあがった花冠の間に、どんどん花を継ぎ足して、太く華やかに仕上げていく。
「うん、決心したのはね、シャティのおかげだったの。……悔しいけど」
「シャティの?」
そして、悔しい、って? 首を傾げるアイミネアに、ライラは複雑な笑みを見せた。
「知ってる? シャティはね、ギルファスのことが大好きなんだよ」
そう、なの?
アイミネアは曖昧に頷いた。ギルファスの気持ちは知っている。でも、シャティアーナがどうなのか、までは、アイミネアは知らなかった。あの二人が両思いだと言うなら、それは本当に嬉しいことだと思うけれど、今はどうしてライラがそんなことを言い出したのか、の方が気になる。
「三日目にね」
「うん」
「森のそばで、あたしが鉢巻を狙ってるって、知ってたのに。あたしに背中を向けて、東軍に、叫んだんだよ。あたしはここよ、って。あとで考えたら、あれ、東軍の目を、ギルファスから逸らさせるためだったんだね」
「……うん」
「どうしてそんなことができるのかなって、不思議だったんだ。シャティ、今年、すごかったじゃない? どうしてシャティばっかり、あんなすごいことができるのかって、『宴』の最中はうらやんでばかりだった。……でも、あの時」
――初めて、わかったの。シャティがすごかったのは、「後悔しない」って決めてたからじゃないのかな、って。
呟いたライラの言葉は小さいばかりでなく、意味がよくわからなかった。しかし聞き返すのもはばかられた。二人の『媛』は最終日、森のそばで対峙したのだと言う。あそこで何が話し合われたのか、そしてライラがどんな心境になったのか、アイミネアにはよくわからない。でも。
「後悔しないためには、どんなに怖くても、先に進むしかないんじゃないかな、って。シャティはそれを知ってたから、あんなにがんばれたのかなって、思った、んだ」
そう言って笑ったライラの笑顔が余りにも晴れやかだったので、アイミネアは疑問を飲み込んだ。そっか、と呟くと、ライラはふわふわの髪の毛を揺らして、うん、と頷いた。
「だから、あたしも、頑張ろうと。思って」
呟いたライラの頬には、潔い決意の表情が浮かんでいた。
あれから、もう数時間が過ぎている。
「ライラ、今頃、歌ってるのかな……」
木の枝の上に、まるであの日のギルファスのように寝そべったまま、アイミネアはぼんやりと呟いた。ライラからもらった花冠はアイミネアの頭に載っていた。いい匂いが頭上から漂ってくる。
この原っぱは居住区からは少しはずれている。だから、もう歌が始まっていてもおかしくない時間であるにも関わらず、夜の静寂を破るものは何もなかった。虫の声。夜鳥のささやき声。さやさやと風が花を揺らし、梢をそよがせて通る音。静けさが、迫ってくる。
一体、こんなところで何をしているんだろう。
アイミネアは頬を枝に預けた。
隠れてる、つもりなのだろうか?
でも、誰から。
初めからこんな木の上にのぼろうと思っていたわけではなかった。日の高い内はずっと家にいて機を織っていたのだ。ただ、夕方になって。まだ花を摘んでいなかったことに、気づいて。ほとんど自動的に摘みに来てから、何のためにこんなことをしているのか、と我に返ってしまったのだ。我に返ったらもう、花を摘むなんて出来るはずがなかった。何のために、と頭の中の冷たい自分が囁く。何のために花を摘むというのだろう? たとえ誰かが歌ってくれたとしたって、誰の上に花を降らせるというのだろう。
グスタフは、絶対に、歌いに来てなどくれるはずがないのに。
諦めたのに。あの時、窓辺で、求歌を歌って。歌声と一緒に、この苦しい気持ちも全部、夜気に吐き出してしまうつもりで歌った、のに。
どうして今になって、こんなに胸が苦しいんだろう。
グスタフはもう少ししたら、首都に行くことに決まっている。数年前、高等学校の入学枠がミンスター地区にまで広げられたのだ。ミンスター地区の地位が向上するかどうか、戦争をせずに少しでも発言力を高めていけるかどうか、が、グスタフにかかっているのだと言われている。もしグスタフが誰かのことを好きで、求歌を歌いたいと思っていたって、グスタフは絶対歌わないだろう。相手が誰であれ。もうすぐ、グスタフはここを出ていく。一度出ていったら今度いつ帰れるかわからない、そんな場所に、一人で旅立って行くんだから。
だから、あの夜、歌って忘れようと思ったのに。
重いため息をついて、枝の上に仰向けになる。花冠を落とさないように掴んでお腹の上に乗せると、ふわりといい香りが漂った。梢の間から、丸い、白い月が見える。先ほどよりもかなり高くなったようだ。こんな時間に一人で外にいるなんて、『宴』以外ではあまりしたことがない。
みんな、心配、してるかな。
そうは思うのだけれど、せめて真夜中が来て、みんなが家に帰るまで――人通りがなくなるまで、帰れそうもなかった。
今頃、きっと、弟二人は大騒ぎだろう。まだ『宴』へ参加を許されていないほどに幼い双子の弟は、いつも目の届くところにアイミネアがいないと落ち着かないらしい。懐いているというよりは、二人はどうやらアイミネアの保護者を気取っているらしいのだ。姉ちゃんには僕たちがいないとダメなんだ、と十も年下の弟二人に言われてしまうと、姉としてどのような態度をとればよいものか、いつも判断に悩んでしまう。
出てくるときには、彼らにとっては兄のような存在であるギルファスが、ちゃんと歌いに行けるのかどうか、行ってけしかけた方がいいのではないか、身だしなみチェックをしてやった方が、いやそれより姉ちゃんの窓辺に誰かがやってこないように罠を仕掛けた方がいいのではないか、と大騒ぎしていた。心配しなくても誰もやってこないわよ、と言って罠をしかけるのはやめさせたのだが、その時にずきりと胸がうずいたのは確かだった。あのまっすぐなまなざしが脳裏に甦って来てアイミネアの胸を刺した。たぶん彼は来るだろう。そう思うのはうぬぼれではない。あんな目で見つめられて、それでもルーディが歌いに来ないなどと信じられるほどには、楽観的にはなれなかった。
『……どうすれば』
押し殺したような、ちょっとかすれた声が耳に甦ってくる。
『どうすれば、……俺』
あの時、ルーディは何を言おうとしていたんだろう。
――ルーディ……
アイミネアは枝の上に両手をついて、その間に顔を埋めた。
そうか、あたしは、ルーディから逃げてここに来たんだ。
自分のことなのに、ようやくそれに思い至る。そこまで自分が混乱しているのが滑稽でさえあった。
ルーディに抱きしめられたことを思うと、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまう。ルーディは見た目は小柄なのに、想像よりずっと大きかった。力が強くて、アイミネアのちっぽけな体は、あの圧倒的な力の前で全く抵抗できなかった。怖かった。もしルーディがアイミネアに危害を加えようと思っていたら――ルーディが害意を持っていないとわかっていても、抵抗もできないほどの力を持った存在を前に、アイミネアはただただ萎縮するしかなかった。
――でも、厭、じゃ、なかった。
唐突に、アイミネアはそう思って、そして、愕然とした。
そうだ。
厭、じゃ、なかった。
東軍の中を逃げ回っていたとき。机の下で、アルスターに、抱きすくめられたときには。怖くて、そして何より身がすくんだ。走って逃げ出したかった。アルスターはいい人だってわかっているし、ああしなければ仕方がなかったということだってわかっている、でも、鳥肌が立った。さわらないで、って、思ってしまった。アルスターに密着している部分の産毛が全て逆立ったような――出来るなら押しのけて逃げ出したいほどの、嫌悪、だった。
でも、ルーディは。
「どうして……?」
うめくような呟きが漏れた。ルーディは厭ではなかった。アイミネアはあのかすれた声が好きだった。穏和で、人との和を重んじる性格も好ましかった。グスタフと、ギルファスと、三人で楽しそうに遊んでいるところを見るのは、こちらまで楽しくなってくるようで――
ああ、そうか。
あたしもあの三人の中に、入りたかったんだ。いつも。
だから、こんなに哀しいのかも知れない。グスタフに思いを告げることができないのが苦しいんじゃない。グスタフがこちらを向いてくれないことだけが辛いのではなくて、いつか、グスタフが――あの三人の輪を抜けて、首都へ旅立ってしまうことが。あの完璧な三人が、三人ではなくなってしまうことこそが、こんなにも哀しいのかも知れない。
「麗しき人よ」
唐突に歌が喉から滑り出た。
「……わたしは誓う、この冴え冴えと白い、優しき月にかけて」
仰向けに寝そべったまま、アイミネアは口ずさんだ。綺麗な旋律。これは誓いの歌だ。そして求める歌だ。この歌を聴いて欲しい、そして出来るならあなたの白い腕を伸ばして、白い花を。
「愛しい人よ、わたしは歌う、そのすべらかに白い、あなたの腕の――」
涙が、こぼれた。
自分がなぜ泣いているのか、それすらももうわからなかった。ただただ哀しかった。アイミネアにとって「麗しい人」というのはあの三人の中にいるグスタフだった。いつまでも、あの楽しそうな三人のままでいて欲しかったのに。ゴードやガスタールのように、他の大勢の大人たちのように、いつまでも、一緒にいて欲しかったのに。隣に並んで立てなくても構わない。それはもう諦めた。でも。
置いていかないで。
花冠に顔を埋めて彼女はただ涙を流した。グスタフの前には無限の未来が広がっている。男の子はみんなそう見える。自分の足でちゃんと立って、どこへでも身軽に歩いていける。あたしも男の子に生まれたかった。あたしはどこへも行けない気がする。いつまでもこのちっぽけな体のまま、一人だけ取り残されていくような気がする。男の子に生まれたかった。そうしたら、こんな思いに囚われて、木の上で泣かなくても良かった。
がさり。
下生えが揺れた音がして、アイミネアは驚いて身を起こした。
お腹の上に載っていた花冠が、ばさり、と地面に落ちる。
「……見つけた」
ややかすれた、優しい、静かな声が――木の下で、聞こえた。




