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エピローグ(グスタフ)

 それは三日後、銀の月が望を迎えた夜のことだった。

 集落のあちこちで、そろそろ若者たちが『求歌』を歌い出しているのが遠く聞こえてくる。

 一家は食後の団欒を迎えていた。一つだけ灯されたランプの下で、グスタフは地図を描いていた。隣で厳しい顔をしてのぞき込んでいるのは、グスタフとシャティアーナの父親である。

「……で、お前はどこでライラと会ったんだ」

 父の問いに、シャティアーナが身を乗り出した。そうすると、左手首に巻かれた包帯が目に入る。爪が割れたという親指には特に厳重に包帯が巻かれ、頬にできた傷を隠すあて布も痛々しい。でもシャティアーナは怪我をしたことには全くこだわっていないようだった。まだくっきりと若草色の紋様が残った腕を伸ばして、彼女は大きな地図の北東部分に描かれた、鬱蒼と深い森の一点を指さした。

「この辺り。あたしが森から出てきたら、ライラがこう……走って、来て」

「鉢合わせしたってわけか。運が悪かったな」

 父親は今度はグスタフを見ながら言った。

 グスタフはうなずいた。そう、あれは本当に運が悪いとしか言いようがない。ライラはシャティアーナの鉢巻を取ったが……その時には、西軍の先発隊がそこに到達してしまったのである。ゴルゴンは既に『戦死』していたから、その時点で東軍の敗北が決まってしまった。グスタフがギルファスに勝とうと、負けようと。『宴』はそこで終わってしまっていたのである。

「でもな、ライラが抜け出すことを予測できなかったのは、お前の責任だぞ」

 淡々と言われて、グスタフはもう一度うなずいた。自分は副将という立場にいたのだから、ライラがあのような行動に出ることを予測できなかったのを、責められても仕方がない、と思う。

 終わってからこうして地図を描いていると、『宴』の帰趨がよくわかる。

 ゴードの采配の見事さに、今更ながらに舌を巻く。銀狼と媛という目立つ囮を限りなく有効に使って、その裏で緻密に軍を動かしている。まだまだ俺はゴードには勝てない。そんなことを思っていると、父が、身を乗り出した。

「お前は甘いんだ。ギルファスが来るとわかっていたんなら、そのルートにゴルゴンを配置すべきじゃなかった。どんなに懇願されても、『宴』の勝利を純粋に望むのなら、ゴルゴンはどこか安全な場所に配置しておくべきだったんだ」

「……はい」

 それもその通りだと思ったので、素直にうなずく。すると父親は苦笑した。

「まあ、後から言うのは簡単だ。……それにしてもな。一騎打ちをしたのは責めないが、せめて夜明け前には決着をつけるべきだったんじゃないかと思うんだが」

 今度はグスタフも、苦笑するしかなかった。

 そう、ギルファスとの一騎打ちは夜明けまで続いた。『宴』が終わって、宴会も始まって……それでも戦い続けた彼らの周りに集まってきた人々が、どちらが勝つかと賭に興じ、それどころかほとんどが酔いつぶれて眠ってしまったということにすら、気づかなかったというのだから!

「楽しかったか?」

 存外優しい声がする。グスタフは今度も素直に、うなずいた。

「とても」

「……そうか」

 父は愉快そうに笑った。

 ギルファスは、本当に強かった。今でもギルファスの棍棒が当たった体のあちこちが痛んで、その痛みの一つ一つにギルファスの強さを思い出す。元から勝てるとは思っていなかったし、あの三日間で、ギルファスは一回りもふた周りも大きくなったようだった。

 副将として純粋に『宴』の勝利だけを目指すのならば、あそこでギルファスを全員で倒してから小屋を崩しに向かうべきだった、と、終わってから大人たちにも言われたし、自分でもそう思う。

 それでも、後悔なんて沸き起こっては来ない。

 やらねばならないことを精一杯やった。ギルファスもそうだ。

 だから、……あんなに楽しかったのだ、と。思う。

 

 と――

 一際大きく、『求歌』が聞こえてきて、グスタフは目を見開いた。

 はじめは隣の家から聞こえてくるのだと思った。けれど、この声は。今日は少し冷えてきたから、今は窓は閉じられている。でも、その窓の隙間から、聞き慣れた旋律が滑り込んでくる。

 ギルファスの声だ。グスタフは驚いた。ギルファスが、歌っている。この家の、すぐ側で。

 がたん、と大きな音がした。

 机の上に身を乗り出していたシャティアーナが、立ち上がっていた。ランプの淡い明かりに照らし出された妹の白い頬は、今は真っ赤に染まっていた。信じられない、と言った顔で、口をかすかに開けて、声のする方へ顔を向けている。表情の変化に富んでいるとは言い難い妹にしては、珍しかった。

「お……お母さん」

 シャティアーナは部屋の隅で編み物をしていた母親を振り返って、どうしよう、と言った。

「あの、あたしね、花、用意してないの。まさか歌う……なんて、思ってもいなくて。どうしよう。どうしたらいい? 白い花なんて、今から用意できないわ!」

 うろたえるシャティアーナは、ちょっと思いがけないくらい可愛かった。

 母親は落ち着いた様子で、静かにしなさい、と言った。編み物を置いて立ち上がり、いたずらっぽく笑う。

「こんなに早く花を降らせていいの? まだ歌い始めたばかりじゃないの。少し焦らせてやった方が箔がつくというものよ」

「お母さんたら!」

 悲鳴のような声を上げる娘にくすくす笑って見せながら、母親は手招きをした。

「落ち着いて。とっておきの方法を教えてあげるから。あんたの枕をほどいて、白い羽だけ探すのよ。ああ、その手じゃ無理ね。いらっしゃい、手伝ってあげる」

 シャティアーナを促して出ていきながら、彼女は夫に向けて悪戯っぽい一瞥を投げた。父親を見やると、彼は苦虫をかみつぶしたような顔をしてそっぽを向いている。グスタフは思わず笑みを噛み殺した。シャティアーナに許嫁をつけたのは他ならぬ自分でありながら、いざこのような事態が起こると不機嫌になると言うのはどういうわけだろう。

 噛み殺したつもりだったが、父にはわかってしまったらしい。すごい目つきで睨まれて、グスタフはさらに笑いがこみ上げてきて、それをごまかすために立ち上がった。そっと部屋を横切って、わずかに窓を押し開く。窓は軋むこともなく静かに開き、涼やかな風が部屋の中に舞い込み――それと共に、ギルファスの静かな歌声が、流れ込んでくる。

 三日目の夜に聞いた、アイミネアの、静かな歌声を思い出す。

 あの哀切な歌声を思い出すと、今でも体中にしびれが走るような気がする。彼女の窓辺では今頃、誰かが、この歌を歌っているのだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、グスタフは目を閉じる。

 そしてギルファスの頭上に舞い降りる白い羽のことを思って――そっと、頬を緩めた。



――『天の深さを知る蛙』 完

これで本編は完結となります。お付き合いありがとうございました。

このあと、おまけの短編でアイミネアの話(3話)があります。

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