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第三日目 5節「決着」(ギルファス)(4)

  *   *   *


 シャティアーナはぼんやりと、自分の体に描かれた若草色の紋様を一つ一つ目でたどっていた。

 若草色の紋様は、暗闇の中でも鈍い光を放つかのように良く見えた。

 綺麗だなあ、と今さら思う。そういえば、この紋様の意味を考えたことはあっても、その美醜に思いをはせるのは初めてだ。不思議だとは思っても、綺麗だと思ったことはなかった。あの模様について語るとき、エストール老はいつも「綺麗だった」と言っていたのに。

 ――そりゃあ、綺麗だったよ。

 幼い頃に聞いたエストール老の言葉が耳に甦って来る。

 あの優しかったお爺さんの声を思い返すと、いつも一緒に思い出すのは、むせ返るような葡萄の香り。

 ――刺青のようだったがね。どうして彼女があの模様を体に刻んでいたのかは、結局最後まで聞けなかった。

 でも、まあ。理由はわかる気がするけどね。

 そう言って、エストール老は照れたように笑うのが癖だった。

 ――『理由』、って?

 子どもたちが訊ねても、笑みを深くして、もう少し大きくなったらわかるよ、と言うだけで。

 シャティアーナには、わからなかった。

『宴』で見る銀狼と媛の姿は異様に目立つ。どうしてあんな目立つ刺青を、わざわざ彫ったのだろうか。そしてエストール老は、その理由を「わかる気がする」と言う。「大人になるとわかる」とも。でも、シャティアーナにはわからなかった。それがいつも、頭のどこかに引っかかっていた。

 あの時一緒に話を聞いた同じ年頃の子どもたちは、大きくなるにつれて、その理由に思い至ったのだろうか。そう思うと、焦りに似た気持ちまで沸き起こってきていた。どうしてあたしは、わかるようにならないのだろう。自分は変なのだろうかと心配になるほどで、そうなると、もう誰にも聞けなかった。

 乙女が刺青を彫った、本当の理由はわからない。

 でも、他の人たちが推察してうなずく『理由』の方は、知りたくてたまらなかった。わからなくて、もどかしくて。自分だけが置き去りにされているみたいで落ち着かなかった。

 そう――今の、今まで。

「……綺麗な模様」

 思いがけなく、思考が口から漏れていた。隣でミネルヴァがぴくっと反応したので、自分が口に出して呟いていたことに気づいた。そして落ち込んでいたミネルヴァが顔を上げたのが嬉しくて、微笑みが頬に浮かぶ。

「そう、思わない?」

「……思う」

 ミネルヴァの声は少ししゃがれていたが、彼女は一つ咳払いをして、おずおずと言った。

「似合うよ、シャティ」

「本当? 嬉しいな。ありがとう」

「ギルファスにも、似合うよね」

 呟いて、ミネルヴァはようやく笑みを見せた。シャティアーナは自分の頬が赤くなるのを自覚したが、暗いからきっとミネルヴァには見えない。そう思うと少し落ち着いて、うん、と呟いた。

 そうだ。ギルファスは日焼けしてるから、この紋様がとてもよく似合う。

 もうすぐ『宴』が終わる。この紋様は簡単には消えないが、それでも一月もてばいいほうだ。自分の模様が消えるよりも、ギルファスのあのよく日に焼けた肌から、この綺麗な模様が消えていくのが、なんだか寂しい。

 普通の人間であったはずの乙女が、この紋様を持っていた、理由。本当の理由はわからなくても、それを人々に納得させてしまえるだけの説得力を持つ『理由』。思い至ってみれば簡単なこと。どうして今までわからなかったのかと不思議に思うくらい、簡単なこと。

 他でもない、銀狼も、同じ模様を持っていたから。

 以前からそのことを知っていたはずなのに、『理由』の一つに数えようとはしていなかった。説得力があるとは思えなかったからだ。乙女が刺青を彫る『理由』として、銀狼が持っていたと言うだけでは不十分だと思っていた。だって刺青ってとても痛いと言うではないか。全身に、あんなにびっしり彫るなんて、きっとすごく大変だったはずなのだ。もっと説得力のある理由がなければ。……と、思っていたのだった。

 でも、今は。すんなり納得することができる。そしてきっと、他の人が自分を納得させている『理由』というのも、きっと同じものなのだ。銀狼と乙女は、ミンスター地区で一番有名で、二人のことを考えると胸の奥がじんとするような、恋人同士だったのだから。

 今まで、シャティアーナだけが、その説得力の強さに気づいていなかっただけだったのだ。

 こんな簡単なことに……今の今まで、気づかなかったなんて。

 誰かに対する感情が、理屈では考えられないような行動を、人にとらせてしまうことがある――ということを、シャティアーナはようやく知ったのだった。

 と、笑い声が聞こえた。

 シャティアーナとミネルヴァは、少し驚いて顔を上げた。この小屋に一つだけある東側の窓辺で、ガートルードと立ち話していたアイミネアが、発作を抑えきれないというように笑い出したのだ。媛隊の中で一番小柄で、一番頼りになる年上の少女は、おかしくておかしくてたまらないというように身をよじって笑っている。アイミネアの笑い声は心底可笑しそうで、あっけらかんと響くので、聞いているとこちらもなんだか笑い出したくなるのだ。

「アイナってすごいよね」

 ミネルヴァがそっと、囁いてきた。シャティアーナは微笑んで、頷いた。うん、そうだね、ミネルヴァ――楽しそうな笑い声を邪魔しないように、心の中だけで、呟く。本当に、アイミネアってすごい人だ。

 すると。

 笑いやんで、ガートルードと何か言葉を交わしたアイミネアが、ガートルードとまだ手をつないだまま、こちらに歩いてきた。

 驚いて腰を浮かせかけたシャティアーナに、アイミネアのくりくりした大きな目が、まっすぐに向けられる。

「ねえシャティ、」

 真剣な口調で、彼女は言った。

「もう一仕事――する気、ない?」

 

 逃げて欲しいのだ、とアイミネアは言った。

 ルーカほどじゃないけど、ミネルヴァはシャティアーナに似ている。シルエットだけなら充分騙せる。ミネルヴァに媛の衣装を着てもらって、囮になってもらって。あたしたちが何とか敵の気を引くから、その隙に、一人だけで。

 かいつまんで説明するアイミネアの言葉を、シャティアーナは呆然と聞いていた。

 呆然としながらも、自分の手が細かに震えているのを、他人事みたいにぼんやりと感じる。

 アイミネアの計画が頭の中に染み入ってくるにつれ、少しずつ、脳の奥底から、小さな呟きが湧き上がってくる。

 ――ひどい、

「問題はシャティの実の兄が敵にいるってことだよね」

 アイミネアは、今はシャティアーナとミネルヴァの目の前に胡坐をかいて、腕を組んでいる。

「シルエットだけだし、それにちょっとの間だから、大丈夫じゃないかなあ」

 ガートルードもアイミネアと同じように腕組みをして、計画を進めている。

 ――ひどい、

 ミネルヴァも乗り気だった。先ほどまで落ち込んでいたのが嘘みたいに、嬉しそうに身を乗り出している。シャティアーナはまだ呆然としていたが、唐突に、自分が泣き出しそうになっているのに気づいた。

 ――ひどいよ。

「シャティ」

 アイミネアがシャティアーナの顔を見て、困ったような顔をした。アイミネアを困らせちゃいけない、とシャティアーナは思った。アイミネアは優しいひとなのだ。二つも年上で、頼りになる、とても優しいひとなのに。困らせちゃいけないのに。確かにこのまま東軍にやられて全滅してしまうのは悔しいし、何とか一矢報いてやりたいと思うし、何よりアイミネアの望みなら、何だってやりたいと思っている、のに。

「ひどい」

 言葉が口からこぼれてしまったのは、あたしの甘えだろうか。

「シャティ」

 アイミネアが胡坐を解いて、ひざ立ちになった。小さなやわらかい手のひらがこちらに差し伸べられる。その手が頬に触れる前に、シャティアーナは震える声で、再び言葉を漏らした。

「あたし、もう、一度やったのよ。あなたとルーカを置いて、東軍から逃げたんだよ」

 東軍から、逃げ出したときには。

 自力脱出を宣言して、行動に移してしまったからには。何としてでも逃げなければと思ったから、それが西軍の勝利に不可欠だとわかっていたから、ルーカとアイミネアを置いていくことを、自分に納得させることができた。でも――それでも、辛くてたまらなかった。ルーカが『戦死』したと聞いた時には、なおさら。

 でも、また。今度はこの三人を置いて、逃げなければならないのか。

 昔語りの乙女は、皆を生き延びさせるために、自分を犠牲にしたというのに。

「わかってるよ」

 アイミネアの手のひらが、頬に触れた。

 その手はとても、冷たかった。

「わかってるよ、シャティ。聞いて。あたしにはシャティの気持ちがわかるよ。だってあたしも、ルーカとアルスターに助けてもらって、東軍から逃げ出してきたんだから」

 アイミネアの声は囁くようで、脳に少しずつ、優しい声が染み入ってくる。

「でもねえシャティ、あたしが戻ってきたとき、みんなすごく喜んでくれたよ。シャティも喜んでくれたでしょう。シャティ一人だけでも脱出したら、みんな喜ぶよ」

「それは――」

 ぐるぐると空回りを続ける思考を持て余して、シャティアーナはため息をついた。もう自分でも、自分が何を考えているのかよくわからない。でも、哀しいのだ。『宴』を勝利させるためだけに生き延びる媛ではありたくないと望んでいたのに、今ここに来て、媛だからという理由で逃げなければならない、この状態が。

 するとその思考を見透かしたかのように、アイミネアが微笑んだ。

「それにね、あたしがシャティを選んだのは、あなたが媛だからじゃない」

「え――?」

「あたしはこのまま東軍にみすみす全滅させられちゃうというのが厭なだけ。冷静に考えてみて。この状態であたしたちにできることといったら、誰か一人だけでも脱出するということしかない。そう考えたら――シャティが一番適任なんだよ」

 媛だからじゃ、ない――。

 信じられなくて、まじまじとアイミネアを見つめる。すると年上の少女は、いたずらっぽく微笑んで見せた。

「もしミネルヴァが怪我してなかったら、ミネルヴァに押し付けたと思う。ねえ、シャティ、今ここにいる四人の中で……一番足が速いのは、シャティでしょう?」

 つらいことを押し付けてるってのはわかってるよ。

 でも、お願いだから。

 自分のためにあたしたちが犠牲になるって思わないで。あたしたちのために、逃げて欲しいの。

 アイミネアの真剣な口調が、ガートルードとミネルヴァの真摯な眼差しが、シャティアーナを包み込む。

 シャティアーナは、彼女たちの視線から逃れるように、目を閉じた。


  *   *   *


 さあっ、と、風がそよいだ。

 闇の中を進んでいたギルファスは、自分の上に月光が降り注いだのを感じた。

 東側にかかっていたまだらの雲の隙間から、ほぼ満ちかけた白い月が顔を覗かせている。月はすぐに雲に隠れてしまったが、その白々とした柔らかな光は、沸き立つようだった脳を鎮めてくれた。闇雲に走っていたギルファスは、少し落ち着いて、辺りを見回した。

 そこは、もう、西軍の小屋のすぐそばだった。

 少し先に潅木の茂みがあって、あそこをぐるりと回れば、小屋が見えるという場所にまで来ていた。ギルファスはそこで、乱れていた呼吸を整えた。

 もう、自分ひとりしかいない。

 途中で西軍の部隊に出会わなかったのは不運だったが、こうなっては仕方がない。彼はゆっくりと、潅木の茂みに触らぬように歩を進め――

 ちらり、と、茂みの向こうにオレンジ色の明かりを見つける。

 小屋は既に、包囲されていた。闇に慣れた目で様子を窺うと、オレンジ色の明かりは小屋を取り巻くようにぽつぽつと闇に浮かんでいた。ここからだとその明かりを掲げている人間と、その周りを埋め尽くすその仲間たちの姿さえもが良く見えた。こちら側にあるはずの戸口は閉まっていたが、左側――東側に切られた窓から、薄明かりが漏れているのが見える。

 ――さて、どうしようか。

 潅木の中に這い込んで、彼は思案した。

 小屋の裏側から回って、シャティアーナを助け出すことはできるだろうか? それは少し、難しそうに思えた。こういうときのために小屋の床には抜け穴が作られているが、あの小屋の中には東軍媛隊が捕らえられていたのだ。当然その抜け穴の存在も、抜け穴の出口の場所も、東軍は把握しているに違いない。そう考えてここから見ると、やはり抜け穴の出口の近くに、より多くの兵士が配置されているようだ。むしろ裏口を固める兵士の方が少ないように見える。

 しかし裏口からシャティアーナを助け出すと言う案も、うまくは行かないような気がする。自分が裏口に近づいたら、目立つだろう。それは裏口に東軍の目を集中させてしまうということになり、助けに来たのが逆効果になる恐れがある。

 いっそ、東側の東軍本隊に特攻をかけて、裏口から目をそらさせた方がいいだろうか――

 そう、思ったときだった。

 唐突に、歌声が響いた。

 

 そう――それは歌声だった。ギルファスは耳を疑った。なぜ、このような『宴』の最中、小屋を包囲された絶望的な場面で、この歌が聞こえるのだろう。その声は滑らかで、柔らかくも華やかだった。そして木々の梢を揺らす風の音かと一瞬思うほどに優しかった。耳を澄ませると、それがどうやら小屋の東側に切られた窓から、歌われているようだと言うのがわかってくる。

 

『麗しき人よ

わたしは誓う

この冴え冴えと白い

優しき月にかけて』

 

 耳に親しんだ旋律は、紛れもない『求歌』だった。この歌は、哀れな男が一晩中でも歌い続けられるようにと工夫されている。主となる旋律は三つある。その三つを様々に調子を変え、順番を組み合わせながら、男は愛しい女性の窓辺で歌うのだ。

 でも、今聞こえるのは、少女の声だった。

 アイナの声だ、とギルファスは思った。アイミネアは歌がうまい。収穫の時や、少女たちが集まって機を織るとき、アイミネアはこの優しい声で様々な歌を歌ってみんなの耳を楽しませた。普段は少し騒々しいほどに元気なアイミネアの声は、歌うときにだけは艶を帯びる。ギルファスはアイミネアの歌を聴くのが好きだった。

 でも、『求歌』を歌うのを聞いたのは初めてだ。否、少女の声で歌われる『求歌』を聴くことそのものが、初めての経験だった。あまりの思いがけなさと、その歌の美しさに、小屋を取り巻く東軍が、一瞬で静まり返ったのがわかる。

 

『愛しき人よ

わたしは歌う

そのすべらかに白い

貴女の腕のために』

 

 高い少女の声で歌われる『求歌』はとても物悲しく、夜の闇にほどけていく。

 誰に向けて歌っているのだろう。ギルファスは小屋の東側に――東軍の本隊が潜んでいる辺りに目を向けた。そう、そんなこと考えずともわかっている。あの朴念仁が、アイミネアの歌が誰に向けられているかと言うことになど、気づきもしないということも。

 あの歌がこんなにも物悲しいのは、そのせいだろうか。

 と――

 裏口が一瞬だけ、開いた。

 するり、と、中から細い人影が滑り出たのが見える。

 ――シャティ……!

 一瞬のうちに悟り、身を起こそうとした瞬間だった。

 ギルファスの右後ろで、

「あ――!」

 誰かが、息を呑むのが聞こえた。

 

 振り向いた瞬間、さあっ――と、風が吹いた。東のまだら雲の間から、再び銀月が姿を見せる。月明かりに照らし出されたその人影は、

 ゴルゴン、だった。

 

 ゴルゴンはこちらを見ていなかった。小屋の方を食い入るように見つめていた。シャティアーナが抜け出すのを見たのだろう、ゴルゴンの顔には驚愕と――何か狂おしいような表情が浮かんだ。その表情が一瞬だけ、ギルファスの脳に引っかかる。何だろう。敵方の媛が逃げ出すのを見つけたにしては、ひどく――何か――何か求めてやまぬものを見つけたような。

 ゴルゴンの精悍な顔は、ひどく、苦しそうで。

 そして同時に、とても哀しそうにも、見えた。

 ゴルゴンのこんな表情を見たのは初めてだ。いつも自信満々で、ギルファスの前ではいつも不敵で、ふてぶてしいと言ってもいいような表情を崩さなかった、ゴルゴン。でも今、彼はひどく無防備に見えた。見てはいけないものを見た気がした。それほどに、あまりにも――真摯な。

 ゴルゴンは棍棒を持っていなかった。そして、その額には、鉢巻が巻かれていなかった。この三日間空気にさらされることのなかった額をむき出しにして、ゴルゴンは北側、こちらとは反対方向に走り出すシャティアーナを、食い入るように見つめている。

 ――『戦死』、したのか。

 ギルファスは、そのむき出しの額を見詰めた。

 ――ゴルゴンが『戦死』するなんて、思ったこともなかった。

『目付』を振り切って来たのだろうか。それとも、自分が『戦死』したことに、まだ気づいていないのだろうか。そこまでゴルゴンを駆り立てるのは何だろう。そう考えたギルファスの目の前で、ゴルゴンが、息をついた。

 そして、我に返ったかのように、走り出そうとするように、一歩前へ出る。

 ――あの表情を見てしまったことを、ゴルゴンに知られたら。

 そうは思ったけれど、でも。

 ――シャティの邪魔はさせない。

 ギルファスは反射的に立ち上がっていた。

 

 月明かりに照らされて、ゴルゴンの顔は良く見えた。ゴルゴンは急に立ち上がったギルファスを見て、信じられないと言う顔をした。その顔に浮かんでいた狂おしいような表情は一瞬で消え、ゴルゴンはまじまじとギルファスを見た。視線が泳いだ。何か見られてはまずいものを目撃されたかのような、狼狽がその目に浮かぶ。

「な――」

 ゴルゴンは唾を飲み込んだ。

 その間に狼狽は消え、――その顔が、見る見る、憤怒にゆがんでいく。

 その憎悪の強さに、ギルファスは一瞬目を見開いた。

 あの狂おしいような表情の意味はわからなくても、ギルファスにだけは見られたくなかっただろうというくらいの想像はつく。見てしまったからには、そしてそれでもゴルゴンの前に立ちふさがったからには、憎まれるのは覚悟の上だったが――それにしてもあまりにもむき出しの悪意に、あおられるように足を止める。

「何でお前がここにいるんだ」

 搾り出した声は怒りに震えていた。殺意すら感じさせるような、純粋な憤怒と、憎悪。しかしぎらぎらした視線で射抜かれても、ギルファスは、ゴルゴンの前で既に――驚きは感じても――恐怖を感じていない自分に気づいた。

「お前――」

 ぎり、と、ゴルゴンが奥歯を噛み締めたのが聞こえる。

「何で、お前なんだ……!」

 ゴルゴンの髪が、月光に逆立ったように見えた。そして、掴みかかってくる。ゴルゴンの動きは今までに見たどんなときの彼の動きよりも数段早かった。身をかわしたが、左腕を掴まれた。ここのところ忘れていた左腕の痛みが一気に蘇ってきて、ギルファスは思わず、呻いた。動きが一瞬、止まる。その隙にゴルゴンの両腕が、ギルファスの首元を掴みあげていた。

「何でお前なんだ、いつもいつも!」

 ゴルゴンは頭に血が上っているらしく、鉢巻を狙うそぶりは見せなかった。いや、ゴルゴンも既に鉢巻を失っているのだから、ここでギルファスから鉢巻を狙っても『戦死』にはならないからとあえて狙わなかったのかもしれなかったが――今のゴルゴンに、そのような判断力があるとは思えなかった。万力のような力で首元を締め上げられ、息が詰まる。ゴルゴンのほうが背が高い。ギルファスの足が、地面を離れた。

 頭の中がかあっと真っ赤に染まる。

 ――ここで騒ぎになって、東軍がこちらに駆けつけてきたら、シャティアーナは無事に逃げられるだろうか。

 こんなときにそんな冷静なことを考えた自分が、何だか不思議だった。

 西軍に危機を知らせにいったはずの、ラムズとルーディは、もう仕事を果たしてくれただろうか。

 早く、西軍がこちらに向かってくれればいいのに。

 早く――シャティアーナが、安全な場所にまで、たどり着ければいいのに。

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