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第三日目 4節「カッコいいよ」(アイミネア)

 棍棒が、空を切った。

 ――嘘、

 アイミネアは一瞬だけ、呆然とした。嘘、と彼女は思った。嘘、嘘、 ――どうして?

 絶対に『戦死』させた、と思ったのに。

 戸棚から飛び出したタイミングは本当に完璧だった。扉を開けて飛び出して床で一度着地して、アルスターの声に背中を押されるようにして、飛び込んでいったのだ。

 一瞬たりとも、ためらわなかった。断言できる。

 でも――ならばどうして、あたしは仕損じたんだろう?

 呆然としていたのは一瞬だけだった。我に返ったときには、空を切った自分の右腕が頭上の方に向けてまだ動いていたくらいだ。後ろにいる人たちは、アイミネアが驚愕したということにすら気づかなかっただろう。我に返り、手の中からすっぽ抜けそうになっていた棍棒を握りなおし、再びグスタフの背中を視界の中に認識できるようになったとき……彼は、窓をまたぎ越えるところだった。いつの間にか右手に棍棒が握られている。

 ぼんやりとしたまま、なぜ自分が仕損じたのか、状況を把握しようとする。

 グスタフは振り返りもしなかった。

 アイミネアが飛び掛ったとき、いや、それよりわずかに早いタイミングで、グスタフは足を速めたのだ。

 ――何故?

 グスタフを追うために足を踏み出しながら、アイミネアは考えていた。何故グスタフは足を速めたのだろう。あたしの攻撃を避けるため? でもそれなら、今彼が振り返らないのは何故だ? 背後から強襲したものの存在を、確かめようとしないのは何故だ?

 ――そう、か。

 頭が、冷えた。

 脳みそを、冷え切った情け容赦のない手で、ぎゅっと握られたようなショック。

 アイミネアは今度こそ、愕然として、足を止めた。

 ――グスタフは、あたしの攻撃に気づきもしなかったんだわ。

 それは歴然とした、そして残酷な、事実だった。

 

 こういうとき、あたしはどうしたらいいのかしら。

 

 愕然としたまま、アイミネアは考えた。同時に胸の中に沸き起こってきたのは、たじろぐほどに強い、悲しみ、だった。論理的じゃないことくらいわかっている。偶然だったかもしれないということも。グスタフが悪いわけではないことも。仕方のないことなのだ、ということも。でも、悲しかった。悲しくてたまらなかった。グスタフの中で、自分があまりにも取るに足りない存在であるということ――その事実は、よく知っているつもりだった。期待なんてこれっぽっちも、していなかった。否、しないようにと自分に言い聞かせていたのだ。いつ拒絶されても、平然としていられるようにと。

 でも、今のように思いがけない形でそれを突きつけられると、とっさには自制がきかない。

 ――泣きたい。

 アイミネアの脳裏に、ぽつんと言葉が浮かんで。

 自分が下を向いていることに気づき。

 そして、彼女は、首を振った。

 泣いてる場合じゃない。

 

 棍棒を握りなおして、窓から飛び出した。

 青いボールみたいだった、と、ギルファスが後で、言った。


  *   *   *


 窓の外に飛び出したとき、まだショックが後を引いていたのか――それともこの三日間の緊張でどこかおかしくなってしまったのか、神経が驚くほどに張り詰めていた。目はグスタフを見据えていたのに、周囲の状況が驚くほどによくわかった。ギルファスがいる、とアイミネアは思った。先ほど戸棚を飛び出したときみたいに、地面で一度着地して、そのままグスタフに飛び掛る――その間に、彼女の感覚はギルファスとルーディとマディルスが、目の前の茂みに半ば隠れるようにしているのを捉えていた。

 がつん、と手にした棍棒に衝撃が走る。

 一撃目はグスタフの棍棒に受け止められた。アイミネアは自分が伸び上がるようにして棍棒にこめた衝撃と、グスタフがはじき返した衝撃をうまく利用して、自分の棍棒を上に滑らせた。ががががっと二人の棍棒が音を立て、腕を上に振りぬく。腕を振り上げたのと同時に右手の中で棍棒をくるりと回し、逆手に持ち替えて、柄の部分を振り下ろす。アイミネアは自分の体が、『伝令隊』で教えられた棒技を覚えていること――そして自分が、やけに冷静なことに気づいた。

「アイナ!」

 グスタフが攻撃を避けながら叫ぶ。

 アイミネアは肘を曲げて、さらに棍棒を突き出しながら、

 ――初めてあたしに気づいた。

 呟いた。

 そう。

 それは、グスタフが、この三日間で、おそらく初めて、アイミネアの存在が自分のすぐ傍にあることに気づいた瞬間だった。

 

 その後も何度か攻撃を仕掛けたが、はっきりとアイミネアの存在を認識したグスタフは、さすがに隙を見せなかった。グスタフは積極的に自分から攻撃を仕掛けることはなかったが、着実にアイミネアの攻撃を受け流し、その最中にアイミネアの背後に視線を走らせることまでした。アイミネアも、ギルファスとマディルスが大荷物を抱えて向こうに走っていくのを感じていた。と、彼らの向かったのとは反対の方向――つまりグスタフの背後の方から、数人の男たちが走ってくる。

「ギルファスが向こうに!」

 アイミネアの攻撃をはじいて、グスタフがその男たちに言った。

「止めてくれ、総崩れになるぞ!」

 やってきた兵士たちは全員若者で、六人いた。

 そのうちの一人がグスタフとアイミネアの間に割り込んだ。彼の背後で、グスタフは、残りの五人に何か、早口で囁いた。また小さな紙切れのようなものを、ポケットから出して渡した――のも、見えたような気がする。

 しかしそれはほんの、数瞬でしかなかった。加勢に入った一人を除く五人が一斉に走り出す。アイミネアはどうしようか、迷った。グスタフを放って、ギルファスへの加勢のために走り出すべきだろうか。でも新しく割り込んできたこの若者はとても手ごわく、背を向けて走り出す隙を与えてくれそうにない。

 そのとき、走り出した五人の前に飛び出してきた者がいる。ルーディだ。

「アイナ!」

 ややかすれたような、独特の声がする。

 ルーディは小柄だったが、とてもすばしっこかった。奇襲だったということもあり、五人は一度足を止めた。しかしすぐにグスタフがもう一度叫んだので――ギルファスたちを行かせては東軍にとってとてもまずいことになると、グスタフは瞬時に悟ったようだった――ルーディの脇を三人が走り抜け、ギルファスたちを追っていった。しかしルーディの目の前には二人が残り、アイミネアの目の前にも、グスタフと、もう一人が残っている。グスタフがこちらに向き直ったとき、アイミネアはあっさりと『戦死』を覚悟した。グスタフ一人にもいいようにあしらわれてしまう自分のこのお粗末な腕では、二人の若者になんて到底立ち向かえるわけがない。

 あたしがミネルヴァだったら話は別だけど。

 でもあたしは、ちっぽけで弱い、アイミネアでしかない。

 だから、彼女は叫んだ。

「ルーディ!」

 棍棒を避けて、息を整えて、もう一度叫ぶ。

「早く行って! ギルファスを助けて!」

「それはお前にも言いたいな、アイナ」

 低い声は、頭上から降ってきた。

 え、と思ったときには、目の前にいた――正確に言えばアイミネアの脇をすり抜けようとしていたグスタフが、大きく下がっていた。加勢した若者がアイミネアの鉢巻を奪おうと伸ばしていた左腕を、左から伸びてきた太い腕が払った。誰かがあたしの左脇に立ったのだ、とやや遅れて彼女は気づく。

 アイミネアの左後方に出現したその体の大きな男は、左腕でグスタフの鉢巻を狙うと見せて牽制し、右腕で若者の腕を払ったのだ。

「こんなところで銀狼をみすみす『死』なせるわけにはいかないよな?」

 確認するような、優しい声。

 ――アルスター?

 ようやくその誰かの存在を認識したときには、アイミネアは宙に浮いていた。アルスターが片手で、アイミネアの首根っこをつかんで持ち上げている。ぐっと息が詰まる。それでも「嘘」、と呟くアイミネアをぶら下げて、一、二歩足を踏み出し、反動をつけて、そして、

「ルーディ! 受け取れ!」

 放り投げていた。

 あまりのことに驚いた、ルーディの前にいた兵士二人がぽかんと口を開けている。

 その頭上を飛び越えているという事態が、どうしても信じられない。

 でも着地したときには、ルーディの、見かけよりもかなりがっしりした腕が、しっかりとアイミネアを受け止めていた。足が地面についていない。ルーディは少年にしては小柄だったが、アイミネアよりもかなり背が高い。それを悔しいと思う間もなかった。ルーディは何も言わずに走り出していた。アイミネアを抱えたまま。

 虚を突かれたためだろうか、兵士たちも、グスタフも、追いかけてはこなかった。


  *   *   *


 見かけよりずっと力の強いルーディの腕の中で、アイミネアは無我夢中でもがいていた。どうしていいかわからない。頭の中が真っ赤になって、論理的な思考などとてもできそうになかった。あれではアルスターが『戦死』してしまうではないか、ということがまず頭に浮かんだ。ルーディの背中越しに後ろを見ると、こちらを追ってこなかった兵士たちが一斉にアルスターに飛び掛っていくのが見える。その中で、グスタフだけが戦闘に加わらなかった。彼は兵士たちに何か声をかけ、足早に歩いて、窓を乗り越えて――建物の中に、消える。

「アルスター!」

 もがきながら、彼女は叫んだ。

 こんな理不尽なことが起こり得るなんて、信じられなかった。アルスターはずっと、ずっと、たった一人で、敵陣の中を這いずり回ってきたのだ。それがどんなに大変なことだったか、アイミネアは良く知っている。身に沁みるほどだ。アルスターにこそ、大将か副将の首を取らせて上げたかったのに。なのに彼は、最後にアイミネアに手柄を譲ってくれた。アルスターが先に飛び出してくれなかったら、アイミネア一人だけだったら、グスタフを倒す一歩手前にまでなんて到底たどり着けなかったに違いない。

 それなのに、あたしは仕損じた。

 それなのに、アルスターはまたしても、あたしを助けてくれたのだ。

 こんなひどい話があるだろうか。

 ルーディが、角を曲がる。

 アルスターの姿が、見えなくなる。

「お願い」

 アイミネアはできるだけ身を乗り出すようにして、アルスターの姿を少しでも目の中に入れようとして、言っていた。

「ルーディ、お願い、下ろし――」

「厭だ」

 耳元で、ルーディの声が聞こえた。

 それがあまりにもきっぱりとした拒絶の言葉だったので、アイミネアは一瞬口をつぐんだ。ルーディの腕がわずかに緩んで、ずる、と体がずり落ちる。視界にさっと影がさす。同時に体に、強い力を感じる。気がつくと、ルーディの肩に額を押し当てていた。

 ルーディが今自分を抱きしめているのだ、という簡単な事実に気づくのに、数瞬を要する。

 ルーディは立ち止まっていた。

 そこは渡り廊下の真下だった。この三日間で何度か、泣きそうな思いで渡った廊下。そこからだと、館の裏も、ギルファスたちの向かった広場も見えない。

 アイミネアは、息を吐いた。あんまり驚いて、息をするのも忘れていた。真っ赤に沸き立つようだった脳が少し正常を取り戻す。視界は相変わらず暗い。ルーディの白い服と、自分の青い服が見える。息を吸って、そして吐く。息を吸って、もう一度吐く。その間にも、ルーディの手は緩まなかった。少しずつ事態を把握して――アイミネアの頬に、ゆっくりと血が上ってくる。

「ルー、」

「戻ったってアルスターは喜ばない」

 アイミネアの声をさえぎって、ルーディの声が聞こえた。その声は落ち着いていた。少しかすれているけれど、ルーディの声はいつも微かにかすれている。アイミネアは、そのかすれた声が嫌いじゃなかった。でも。

 どくどくどく、と、心臓が跳ね回る音が聞こえている。

 この音は――あたしの、だろうか。

 それとも、ルーディの?

「で、……でも」

 心臓の音が耳について、その音を聞かないためだけに、アイミネアは口を開く。頭の中では、ルーディの言葉が正しいことを理解していた。今更戻ったりしたら、アルスターは怒るだろう。あたしだって怒る。でも、だからといって、はいそうですか、って、やすやすと事態を受け入れるわけにも行かない。

 アイミネアは混乱していた。

 ルーディの腕が緩まないからだ。

 いったいどうしたのだろう、と、彼女は思った。ギルファスたちと並ぶことが多いからなのか、ルーディは小柄だといつも思っていた。それなのに、この腕の長さは何だろう? 胸の広さは? 身長も高い。力も強い。混乱する。いったいどうして、ルーディは先へ進まないのだ? あたしを、放さないのだ?

 それでも、ルーディがアイミネアを抱きしめていたのは、わずかに数瞬のことだったに違いない。混乱して、抵抗することも忘れて、ただ体をこわばらせて立ちすくんでいるアイミネアを、ルーディはそっと放した。今まで彼女の足は地面についてはいたものの、力はほとんど入っていなかった。ルーディの支えがはずれ、一瞬よろけそうになるのをこらえ――アイミネアは、顔を上げた。

 そして、息を呑んだ。

 ルーディが、まっすぐに、アイミネアを見つめていた。ルーディの両腕はまだアイミネアの両肩に添えられていた。ルーディはただ立っていた。黙って、いた。でもその顔が、何よりも雄弁に、ルーディの心情を語っていた。眉をしかめているわけでも、口を歪めているわけでもないのに、今にも怒り出しそうに――泣き出しそうに――叫びだしそうに、見えた。

 その瞬間、アイミネアはルーディの心のうちを悟った。

 それほどに、ルーディの顔が悲痛だったのだ。

 自惚れだとか、そういう次元の話ではなかった。ルーディはずっと長いこと、この感情を秘めてきたのかもしれなかった。今までその片鱗すらも見せないようにと押さえ込まれていた感情は、ここに来て一気に解き放たれて、アイミネアに突き刺さった。アイミネアは呆然としたまま、ただその事実を受け入れるしかなかった。疑問の余地すらなかった。

「……どうすれば」

 呻くように、ルーディが囁く。

「どうすれば、……俺」

 ルーディは、何を言おうとしたのだろうか。

 しかし、アイミネアはその言葉を最後まで聞くことができなかった。ルーディの前方――広場の向こうで、太鼓がものすごい音量で鳴り渡ったからだ。アイミネアはぎょっとして背後を振り返った。太鼓はめちゃくちゃに打ち鳴らされている。誰かが叫び交わしている。そして、棍棒の打ち交わされる音――

「ギルファス!」

 二人の声が重なった。アイミネアはルーディを振り返った。ルーディは、アイミネアの頭越しに、広場の方を見つめていた。そして彼はアイミネアがこちらを見ていることに気づくと、少し、悲しげに笑った――ように、見えた。

「行こう」

 言って、ルーディが走り出す。

 アイミネアも後を追って走り出した。渡り廊下の下を潜り抜けると、すぐに視界が開ける。『宴』の様相が一気に目の前に広がる。ここは東軍の真っ只中だから、目の前を埋め尽くす色はほとんどが青で、そして目の前で、青い色に囲まれて――

 太鼓をめちゃくちゃに叩きまわるマディルス、旗を振るラムズ、そして、一人で先ほどの追っ手たちに立ち向かっている、ギルファスの姿が見えた。

 そこだけが、やけに白く見えた。

 

 こうして、アイミネアは、『宴』の表舞台にようやく戻ってきたのだった。

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