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第一日目 2節 銀狼と媛(アイミネア)

 祭壇の周囲には、ひどい匂いが充満していた。

 ひどい匂いだと知ってはいたものの、これ程までに痛感するのは生まれて初めてだった。祭壇はなだらかな丘の上に建てられた、小振りの石造りの建物である。普段は閉じられている扉が左右に大きく開かれ、その中身をさし初めた陽光が右側から照らし出している。壁の上に一本の、飾り紐のついた剣がかけられている。その下に小さな台があり、サキアの花が生けられていた。あの剣は建国の折、神から授けられた神剣だと言われているが、本当かどうかは分らない。切れ味が良いのは確かだが。

 祭壇の前に大樽が据えられ、長老たちが四人掛かりで中身をかき回していた。このひどい匂いはあの樽から生じている。今年『媛隊』に選ばれたお陰で、昨年迄よりは格段に祭壇の近くに立っているものだから、その悪臭は恐ろしいほどだった。しかしアイミネアはまだいい方だ。近くとはいえ、風の渡る外に立っているのだから。建物の中で大樽をかき回す長老たち、そしてその側でひざまずいて準備ができるのを待っているあの四人は、一体どれくらいの臭気を我慢しているのだろう!

 えぐいような、胸の奥がえずくような、とにかくひどい匂いだ。祭壇の前で頭を垂れて待っている四人が、まるで有罪の判決を待つ罪人のように見えてしまうのも、むりからぬことと言えた。

「そろそろいいだろう」

 長老の一人がそう言って、柄杓で中の液体をすくい上げた。濃い緑色のどろりとした液体がくみ出される。液体はすぐに乾燥してしまうので、長老たちは急いで筆を手にとり、仕事に掛かった。

 あの嫌な匂いの液体を体に塗られるなんて、考えただけでもぞっとしてしまう。

 乾けば無臭になり、おまけに綺麗な若草色になるとわかっているからこそ、耐えられるようなもので。

 両軍は綺麗に西と東に別れ、整列して彼等を見守っていた。四人の男女は両腕と、喉、頬、額、足は膝の下から爪先まで、どろどろした液体を塗り付けられていく。その苦行に耐えているのは、西軍の銀狼であるギルファス、媛であるシャティアーナ、そして東軍の銀狼であるゴルゴン、媛であるライラの四人であった。ここから見えるギルファスの横顔は憮然としたしかめっつらだった。もしかしたら、先にクキの実を渡したのは失敗だったかもしれない。吐いたりしないでしょうね、と心配になったが、それは単に自分の胃の中で、先ほど取った朝食が存在を主張し始めているからかも知れなかった。ギルファスはとくに気分が悪そうには見えない。ただひたすら、早く終われと念じているように見える。

 対照的に、普段と全く変わらないように見えるのが、傍らのシャティアーナである。彼女は表情の起伏に乏しかった。今も、この悪臭など全く感じていないような、涼しげな顔をしている。

 よく似た兄妹だわ。

 いつも思うことだが、その時もそう思った。

 シャティアーナはグスタフの妹である。顔立ちも似ていたが、感情を表に現さないところまでよく似ている。妹のほうは、それでも頻繁にほほ笑みを見せるし、声を立てて笑うこともよくある。しかし兄のほうは本当に、何を考えているのかよくわからなかった。嬉しいと思っているのか、それとも怒っているのか、それすらわからないこともある。

 ――そのうえ優秀だっていうんだから、嫌になっちゃうわよね、ホント。

 今年の『宴』の組分けを決める籤引きのとき、東軍の大将、ガスタールが叫んだのは本当に驚きだった。しかしグスタフならそれもありだろう、と周りを納得させるものが彼には確かにある。腹立たしいことこの上なかった。可愛げがないったらないわよ、と思う。しかもたったの十六歳のくせに、今年は東軍の副将ですって!

 異例の抜擢といえた。十代で将のつく役職に就いたのは、グスタフが初めてではないだろうか? あたしはどうしたらいいっていうの、とアイミネアは思う。あんな化け物じみた奴に釣り合うようになるには、隣に並んで立てるようになるには、一体どうしたらいいっていうの!

 道程は遠く、険しい。

 目の前に立ちふさがる断崖絶壁が見えるような気分。

 アイミネアは美人とはいえなかったし、背だってとても低い。グスタフも今のところそれほど背が高い方だとはいえなかったが、あの手足の大きさを見るとこれから成長していくのはわかり切っている。ギルファスだってそうだ。ギルファスが狩りに行ったりして数日会わないでいると、たったの数日だというのに、少しずつ背が伸びているのがわかる。毎晩体がきしむんだよ、と、いつだったか笑い話にしていたことがあった。肩とか脇腹とか腕とか足とか特に膝とか、とにかく関節やら骨やらが、毎晩みしみしと音を立ててきしむんだ、と。

 みしみしと音を立てて成長するなんて。

 目に見える速度で成長していくなんて。

 いつも、不安になる。

 周りの友達はどんどん成長しているのに、あたしだけひとり、いつまでも幼いままで、取り残されているような。

 よく知っている、いや、知っていると思っている存在が、どんどん前に進んでいく。それでもあたしは前に進めない。いつまでも一人でここに立って、どろどろとしたものに足を取られてうまく歩けなくて、懇願しても声が届かなくて、いつか気がつくとあたしの回りには誰もいないというような――

 漠然とした不安が、胸に巣くっている。

 普段は目を逸らしていられるのに、その暗いどろどろ、じめじめした冷たい沼地のような不安は、気がつくといつもそこにある。その冷たさが感じられるほど、すぐ近くに。


   *   *   *


 考えにふけっているうちに、模様を描く作業は滞りなく終わったようだった。四人は今床に腰を下ろし、両腕・両足を伸ばして、絵具が乾くのを待っている。東軍の銀狼と媛は、仲睦まじくお互いの模様について感想を述べあっているというのに、こちらの二人は言葉も交わさず、ただ自分の手足にかかれた模様を眺めているだけだ。あれで許嫁だっていうんだからおかしいわよね、とアイミネアは思った。二人は到底、将来を誓いあった仲には見えない。シャティアーナが表情を変えないのはいつものことだが、普段なら表情の起伏に富み過ぎているギルファスにしては、まるで敢えて無視しているようにしか見えないことがある。

 ――銀狼と媛が仲悪いんじゃ、先が思いやられるわ……

 お互いに苦手なら、婚約を解消すればいいのに。

 ギルファスには家族がいない。母親はギルファスを産んだ時に死に、父親はギルファスが十歳の頃に崖から落ち、数日後に死んだ。親友だったグスタフの父は、幼いシャティアーナを彼の床につれていき、その場で、お前の息子にこの娘をやるから、と言ったそうだ。美談と言えるかもしれない。しかし年頃になって、当人たちにその気がないのなら、解消してもいい筋合いのものだとアイミネアは勝手に思っている。

 ――まあ外野が口を出す筋合いのものでもないけどね。

 ただ思うのは、好きあっているからではなく、ただ許嫁だから結婚するなんて、屈辱じゃないだろうかと思うのだ。女の子には。男の子のことは良く知らない。でも自分なら、年頃の女の子なら、『求歌』も歌われずに結婚するなんて――耐えられない。

 でも、シャティなら、平気なのかしら?

 祭壇の前の、嫌な匂いが薄れてきた。大樽にはとっくに蓋がされ、運び出されていたし、四人の体に描かれた絵具も乾いて綺麗な若草色になっている。そっくりな模様を体に描かれた銀狼たちと媛たちは立ち上がって、祭壇の前に一列に並び直した。こうして立っているだけなら、お似合いの二人なのにね、とアイミネアは思った。シャティアーナは背が高く、ギルファスと釣り合う。

 シャティアーナはほっそりとした、綺麗な少女だった。自分より年下だとは到底思えない、大人びた雰囲気をもっている。可愛いというよりは端整な顔立ち。漆黒の髪はつややかに背に流れ、瞳は神秘的な灰色だった。気立ても優しくてしかも頼りになる。いつものことだが、アイミネアは幼馴染みに対するいらだちを覚えた。ギルファスったら何が不満なのかしら。もっと優しくしてあげればいいのに。

「それでは、媛の交換を」

 長老が言った。アイミネアは慌てて居住まいを正した。そう、これも『宴』を盛り上げるための制約の一つ。初め、媛は敵軍に捕まっている、という『設定』になっているのだ。昔語りに忠実に沿うためとはいえ、媛になる少女にとっては屈辱的な設定だとアイミネアはいつも思う。捕らわれのお姫様だなんて、助けるほうはいいかもしれないけれど、助け出されるほうにとってはひどくやりきれない。それも、自分の不注意で捕まったのならまだしも、『宴』を盛り上げるためだなんて!

 ともあれ、設定なのだから仕方がない。そして『交換』されるのは媛一人ではないのだ。四人のお供も一緒に行く。とても危険な立場であるため、各部隊から一人ずつ、有望な少女が選び出される。『伝令隊』からはアイミネアが選ばれた。グスタフの側に行けるということを除いても、ひどく誇らしく、嬉しかった。

 長老の指示に従って、東軍の方へ歩いていきながら、少女たちはポケットから白い鉢巻きを取り出して、自分の額に巻いた。アイミネアも巻きながら、シャティアーナを盗み見た。シャティアーナはいつもと変わらない、端整な顔立ちのまま、真っ直ぐに前を向いていた。しかし一瞬だけその瞳がある一点にとめられた。怪訝に思って前を見ると、その先にはグスタフがいた。東軍の証しである青い鉢巻きを額につけながら、その黒々とした双眸は西軍の方へ向けられている。あの堅そうな真っ黒の髪に覆われたできのいい頭の中で、一体何を考えているのだろう。アイミネアがそんなことを考えたとき、グスタフの傍らに立つ、東軍大将ガスタールが、シャティアーナに向かってほほ笑んだ。

「ようこそ東軍へ。御身らの安全は保証しよう。我々は白い印を戴くような、野蛮人ではないからな」

 聞こえよがしの大声だ。『宴』はもう始まっている。背後で、西軍の大将ゴードが、やはりそちらにたどりついたらしいライラたちに向かって、これまた大声で言った。

「ようこそ西軍へ、東軍の媛そして媛隊の諸君。我が軍は居心地のよいところだ。無粋な青い印を無垢な白に染め抜きたくなる日は近いだろう」

 悪口合戦が始まった。両軍は聞こえよがしの大声で、遠回しに、あるいは端的に、互いを罵る。昨日まで仲のよい隣人だった大人たちが、本気で罵りあっているのを、子供の頃は薄ら寒く思ったものだった。しかし悪口を言い合う大人たちがやけに楽しそうなことに気付いてからは、今年こそは自分も気の利いた悪口を言えるようになりたいものだと、そちらの方に意識が向くようになっている。

 年を経るごとに、悪口のコツもわかってきている。本当に致命的な悪口は口に出さない……皆でわあっと笑い飛ばせるような悪口以外、口に出してはいけないと言うのが、暗黙のルール。

「腰抜け共が! あたしたちの媛に指一本でも触れてごらん、二度とお天道さまを拝めないようにしてやるからね!」

 西軍の方から、一際張りのある女性の声がした。カーラの声だ、とアイナは思った。アイナの尊敬するカーラ女史は、伝令隊の隊長である。年は三十八歳。アイナが『宴』に参加するようになって以来、同じ軍になるごとに目を掛けてもらっている。気っ風がよく、度胸もあり面倒見もよく、アイナが一番尊敬している人物だ。今年も彼女と同じ軍になれてよかったと、まだ大声で悪口雑言を並べ立てているカーラを見ながら思う。彼女と一緒なら、何も怖くはない。たとえグスタフを敵に回していようとも。

「白軍なんか、名前の通り、白い骨をさらしてりゃいいのさ!」

 アイナの後ろから叫び返したのは、隣の家に住む二児の父親である。ドルシェという名の雑貨屋の親父は、普段はとても温和なのに、『宴』になると途端に人が変わる。彼が歯をむき出して不敵に笑う姿など、年に一度しか拝めない。

「青軍なんか真っ青になってガタガタ震えてるのがお似合いだ――」

「うるせぇこの寝小便野郎――」

 お互いをよく知っている者ばかりであるだけに、悪口合戦はしばしば、お互いの昔の悪事にまで及ぶ。蔵から冬越し用の食料を盗み出して食べ尽くして腹を壊しただの、売り物の瓶に落書きをしただの、十歳まで寝小便が直らなかっただの、焚き火に高価な香油をほうり込んだだの、木にかけた毛皮を盗もうとして降りられなくなって村中に響き渡る声で――それこそこの世の終りかと思えるような声で――泣き叫んだだの。普段立派で落ち着いて見える大人たちにも、そんな多彩で滑稽な昔話があったのだということを知るめったにない機会である。最近、アイミネアの年頃の若者たちもこの合戦に参加するようになった。おかげでギルファスとグスタフとルーディが三人で酒蔵に忍び込み、秘蔵の葡萄酒を一樽飲み尽くしたという悪事が明るみに出たのは、去年のことだっただろうか? お返しにギルファスはゴルゴンが、祭壇の剣が本物かどうか試そうとしたときのことを披露した。その時ゴルゴンは手を滑らせて袖と裾に大きな切り傷を作り、木から落ちて破れたことにするために本当に木によじ登って落ちたということだった。その時左腕にできた傷は今も残っている。ゴルゴンは名誉の負傷だとうそぶいたものだが……

 そのゴルゴンが、すぐ隣で、低くとどろき渡るような声で叫んだ。

「見てろよギルファス、お前にだけは負けねぇからな――俺の方が強いんだということを、今年こそは証明してやるからな!」

「それは当然よ!」

 悪戯っぽく叫んだのは、ライラである。彼女は勇敢にも西軍の真ん中で、青い鉢巻きを左手に巻き、高々と振りかざして叫んだ。

「すぐ助け出してくれるって、信じてるからね、ゴルゴン!」

 アイミネアの周囲、東軍の面々が嬉しそうにどよめいた。

 ライラはぱっと目を引く美少女である。言動もはきはきして自信に溢れ、くるくると渦を巻く濃い色の髪がその容姿に彩りを添えている。まだ『宴』が始まったばかりだと言うのに、この二人はしっくりと自らの役割に馴染み、少なくとも『宴』の間だけは、恋人同士を演じるのに何の抵抗もないようだ。アイミネアは不安に駆られてギルファスを見た。敵方の銀狼と媛が、こうも見事に味方を煽ったというのに、西軍がいわれっ放しでは立つ瀬がない。

 大丈夫かしら。きちんと、銀狼の役目を果たすことができるのかしら。

 昔から一緒にいるからか、アイミネアはどうしても、ギルファスを弟のように見てしまう。ギルファスが一人でもちゃんとやれるということは知っているし、信頼もしているのだが、長年の習慣はそう簡単に抜けはしない。

 しかしやはり、それは杞憂だった。ギルファスは一瞬だけ唇を舐め、平然と言い放った。

「挑戦を受けよう、ゴルゴン。俺もお前には絶対負けない。媛はすぐ助け出すから、それまで丁重に預かってろ!」

 よく言ったとばかりに西軍が歓声を上げる中、シャティアーナは何も言わなかった。何も言わないまま一歩だけ前に踏み出し、額に巻いた白い鉢巻きを外す。ひらりと細い布がたなびく。それを巻き込むように口元に当て、西軍に――ギルファスに向かって、優美に一礼した。それは堂々としたしぐさだった。西軍媛の衣装である、純白のワンピースが彼女の細い体にフワリと巻きつく。

 シャティアーナの優美な身振りに人々は一瞬静まり返り――

 そして、西軍の歓声が周囲をどよもした。

「媛!」

「銀狼!」

「西軍万歳!」

 口々に叫ぶ声がとどろき渡る中、アイミネアはちらりとグスタフに視線を走らせた。グスタフは無表情な彼には珍しく、口元に笑みを浮かべていた。その笑みが浮かんでいたのは、ほんのわずか、一瞬だけのことだったが、その誇らしげな微笑みは彼女の脳裏に焼きついた。

 ――まったくもう、妹バカなんだから!

 彼女はちょっぴりだけ、シャティアーナに嫉妬した。

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