第三日目 3節「川くだり」(ギルファス)(2)
* * *
上がりきった場所は、案の定、館の裏になっていた。
林の中でしばし、様子を伺う。そこはどうやら、館の北側に当たる部分のようだった。右手にはずらりと窓が並んだ館の裏側が見えていて、左手には、別館に続く渡り廊下が見える。人影はあまり見えなかった。少なくとも見張りはいない。兵士はみんな、反対側の、広場の方にいるのだろう。
館の向こうから、広場で繰り広げられている、戦いの物音が聞こえる。その喧騒とは裏腹に、こちら側はやけに静かだ。
と。
目の前に、片方だけ開かれている窓が見えた。部屋の中のほうが外よりも暗いから、それで一瞬反応が遅れたのだ。窓の向こうに人影が見える。その人影は青い服で、青い鉢巻をしていた。ギルファスには何よりも、見慣れた姿だった。
「グスタフ……!」
ギルファスは思わず呟いた。マディルスとルーディが、後ろで「え、」と呟くのが同時に聞こえた。グスタフは窓の方に、つまりこちらの方に、歩いてきているところで。気配を感じたのか、彼はそのいつもと変わらぬ平静な顔を上げ、そして、彼の黒く鋭い目が、確かにギルファスを射抜いた。
グスタフの端正な顔に驚きの色が走る。
ギルファスも腰を浮かせたまま動けなかった。
二人が同時に考えたことは、『どうしてあいつがここにいるのだ』という、純粋な疑問だった。グスタフの方がそれは強かっただろう。まさか、とグスタフは後に語った。まさかギルファスが館の裏に出現するとは夢にも思わなかったと。だから、驚いて立ちすくんだ時間は、ギルファスの方がほんのわずかだけ短かった。ギルファスは瞬きをし、とっさに、持っていた荷物を後ろに隠した。意識した動きではなかった。銀狼隊がなぜここにいるのか、悟られるわけには行かないと無意識のうちに思ったものらしい。
ギルファスの持っていた旗などの包みがドサリと音を立てて地面に落ちるのと、部屋の中で大きな音が沸き起こるのとは、ほとんど同時だった。
その数瞬の間に何が起こったのか、後になるまでギルファスにはよくわからなかった。後からみんなの話を総合したところによると、その部屋の中ではほんの一瞬のうちに、さまざまな出来事が一斉に起こったという。とにかく一番初めに動いたのはアルスターだった。アルスターはその部屋の机の下に隠れていて、グスタフが窓に向かうと見るや机の下から飛び出して、まずティトルスの鉢巻を奪い、その後机の上に飛び乗ってガスタールに襲い掛かった。ガスタールはかろうじてその攻撃をかわし、奇襲を凌いだことに満足し、そこへ。
小さな青い竜巻が沸き起こったのかと、その場にいた全員が思ったそうだ。
部屋の中に作り付けの戸棚が開いて、そこから青い竜巻が飛び出してきたように見えたと。
アイミネアも、同じ部屋の中に隠れていたのだ。
「……行け!」
高らかに、誇らしげに響いたのはアルスターの声だった。その声は衝撃から立ち直ったばかりのギルファスの耳にまで届いた。そして――その声が、グスタフをも衝撃から救い上げた。その声に反応するように、グスタフはわずかに部屋の中を振り返るそぶりを見せた。しかしそれは後ろの声を確かめるためではなかった。左腰に下げていた棍棒を掴み取るための一挙動。棍棒を引き抜きざま、グスタフは足を踏み出した。窓の方へ……ギルファスの方へ向かって。
それがグスタフを救った。
それが、アイミネアから、絶好の――唯一のチャンスを奪ったのだ。
グスタフは棍棒を手に、窓までの距離を二歩で詰め、そのまま窓枠をまたぎこえて館の裏庭に出てきた。その間に彼の目は周囲を見回し、すぐ駆けつけてこられる場所に東軍兵士がいないことを確認した。ギルファスはそんなグスタフの姿を見ながら、一瞬だけ迷った。それは川の上での迷いと同じものだった。
このまま進むか。
それともグスタフを倒してから進むのか。
ギルファスは左腰に下げた棍棒を、無意識のうちに掴み取っていた。もう少しで、グスタフのほうに足を踏み出すところだった。グスタフと戦いたい。背中を見せて逃げるのは嫌だった。目的地に進むのならば、グスタフを倒してから進みたかった。
―― 一瞬だけでいいんだ。
しかし脳に沸き起こったのはゴードの言葉。
そしてゴードの手から振舞われた、あの芳しい葡萄酒の香り。
―― 一瞬だけもらえれば、あとは俺たちが何とかする。
グスタフが口を開けた。兵士を呼ぶつもりだ、とギルファスは思う。神経が研ぎ澄まされているからか、それとも長年の付き合いの賜物なのか、グスタフの行動の意味がまるで自分のことのようによくわかる。そしてそのグスタフの行動を見た瞬間、自分が何をするべきかを悟っていた。ここでグスタフと戦うわけには行かないのだ、と、天啓のように彼は悟る。一刻も早く目的地を目指さなければならない。ゴードの望みどおり、西軍の勝利のための貴重な一瞬を生じさせることが、今自分のするべきことなのだ。
そしてそれこそが、本当にグスタフに勝つということなのだ。
グスタフが何を置いても人を呼ぼうとしたところからそれがわかる。
ギルファスは息を吸った。グスタフと戦いたいという望みから、自分を振りほどくのに一瞬だけ努力した。そしてその一瞬の間に、窓から飛び出してきたものがある。
その青くて小さなすばしっこいものは、窓枠を飛び越えて一度地面に着地して、そのままグスタフに飛びかかった。それは青いボールが、地面で一度バウンドしたように見えた。額にまいた鉢巻だけが白い。グスタフは声を出す寸前に彼女の攻撃を受けて大きく一歩後退し、二人の棍棒が、がつんと音を立てた。下から掬い上げるように放たれたアイミネアの一撃は、グスタフの構えた棍棒の上を滑って上に振り抜かれた。腕を振り上げたのと同時に彼女の右手の中で棍棒がくるりと回る。彼女は棍棒を逆手に持ち替え、柄の部分を振り下ろす。一挙動も無駄にしない、それは『伝令隊』がよく使う攻撃だった。グスタフは飛びのいてその攻撃を避け、
「アイナ!」
叫んだ声はギルファスの隣にいたルーディの声と同時だった。ギルファスはルーディの目に一瞬だけ迷いが走るのを見た。行っていいものか、それとも。ギルファスはルーディの腕から、彼が抱えていた旗の束を奪い取り、まだわずかに痛みの残る左腕でルーディの背中を押した。ルーディが一瞬こちらを見た。その目に感謝と謝罪の色が走り、そして彼はそのまま駆け出していく。
それを一瞬だけ見送って。
「行くぞ、マディ」
両手に荷物を抱えてギルファスも走り出した。騒ぎを聞きつけて、東軍兵士がすぐに集まってくるだろう。それまでに、何とか、目的地までたどり着かなければならない。
マディルスが一瞬迷った。
何か言いたげに、その口が開かれる。
しかし彼はすぐに、ギルファスの後を追って走り出す。ギルファスはマディルスと二人で、両腕に山ほどの旗と太鼓を抱えて、館と別館をつなぐ渡り廊下の下を駆け抜けた。
そして銀狼隊はたった二人で、東軍本拠地の真っ只中の、目的地を目指すことになったのだった。
* * *
広場は、奇妙な平穏に包まれていた。
広々とした広場に、西軍の白い旗と、東軍の青い旗が点在していた。その色は東西で綺麗に分かれていた。まるで見えない線を南北に引いて、ここからが各々の陣地であると、密約を交わしてでもいるかのようだった。その陣地は西軍の方が広い。それはそのまま、西軍の優勢を示している。
西軍の方は銀狼隊の出現を待つ気持ちがあったから、積極的に攻撃を仕掛ける者は少なかった。東軍の方も、まだガスタールもグスタフも出てきていなかったからか静観しようと努めているようだった。攻撃を仕掛けられても、防御に有利な陣形を保ったまま、積極的に打ち返しては来ない。
西軍の優勢にもかかわらず、そして既に三日目なのにもかかわらず、東軍の兵士たちが平静を保っていられたのは、森の中の防衛線の存在のおかげだった。あれがある限り、西軍の遊撃部隊に背後に回られる心配だけはせずにすむ。
有効な作戦が示されるまで、彼らはただ黙って、前だけ見て、待っていればよかった。
西軍銀狼隊が川に挑み始めた頃――そういう理由で、広場は不気味なほどに静まり返っていたのである。
その均衡を破ったのは、ミネルヴァだった。
彼女はシャティアーナ、ガートルードと一緒に、広場の北側にいた。北側の森の程近く、防衛線があると目されている場所のすぐ西側である。西軍媛隊がこんな前線に出てきているということで、彼女らのそばの東軍兵士たちはそわそわと落ち着かないようだった。ここで西軍媛を討ち取ることさえできれば、この劣勢が一気に覆るのである。また彼女らを取り囲む西軍兵士たちも、今この時期になってこの優勢を覆されてたまるものかと、媛に注意を払っている。隊列を崩すことはないものの、媛の存在があるというだけで、自然と敵味方両軍の注目が集まる。森の中の防衛線を構成している兵士たちはどうなんだろう、と、ミネルヴァは考えていた。森の中の人々の注目をこちらに集めるには、一体どうしたらいいのだろう、と。
「ねえ、ミネルヴァ」
すぐ横で声をかけられて、ミネルヴァはそちらに視線を移した。ミネルヴァのすぐ左脇に、シャティアーナが立っている。ミネルヴァと同い年の親友は、心配そうな顔をして、今ミネルヴァが見ていた森の方を見つめていた。いや、同じところを見ていたのではないのだろう、とミネルヴァは漠然と考えた。シャティアーナはきっと、森の向こうの――銀狼隊が移動しているはずの、川の方を見つめているのだろう。若草色の紋様の描かれた指先が、何か数えるようにかすかに動いている。
「どうすれば……」
呟くように媛は言う。
「どうすれば、防衛線の注意を引けるかしら」
そうね、とミネルヴァは呟いた。彼女の耳には、シャティアーナの言葉が、『どうすれば銀狼隊を無事に通すことができるかしら』と言ったように聞こえた。だから、ミネルヴァは微笑んだ。この端正な顔立ちの親友が、この『宴』の間に、少しずつ、許婚に心を寄せていっている――そのことに、おそらくは当の本人よりも敏感に気づいていた。彼女はそれが、とても嬉しかったのだ。ギルファスのためにではなく、他の誰のためでもなく、他ならぬシャティアーナ自身のために、ミネルヴァはそれを喜んだ。
ミネルヴァは、このあまり表情を変えない、でもとても優しい親友のことが、本当に大好きだった。
シャティアーナのためなら何だってしてやりたい、と思っている。
彼女は自分が媛に選ばれるような器ではないということを、よく知っていた。それは別に自分を卑下しているとか、シャティアーナをうらやんでいるとか、そういうことではなくて。ただ単に知っていたのだ。自分はシャティアーナのように深く物事を考えるということができないし、わずかなきっかけから真実を推察するなんて芸当もできない。シャティアーナのように美人でもない。人をひきつけるような――無条件でどんな人間の心をもつかんでしまうような魅力もないし、自分の主張を展開するための、説得力のある話術も持ち合わせていない。
でも、あたしには、人より早く走れる足と、軽い身のこなしと、よく効く目がある。
ミネルヴァは淡々と考えて、一歩、前に出た。
「とにかく注意を引けばいいのよね」
ミネルヴァは、口調も淡々と、口を開いた。
「挑発するのに一番有効な相手は誰、かな」
言いながら、視線をめぐらせる。今や目の前にいる東軍兵士の大半が、自分の一挙手一挙動に注目していることに彼女は気づいていた。自分が前に出るだけで、東軍の雰囲気が変わる。あからさまに棍棒を構えている若者も見える。みんなうずうずしているのだ。今日はもう三日目。今日が過ぎてしまえば、『宴』は終わってしまう。まだめぼしい手柄を立てていない若者には、西軍媛隊の首は、喉から手が出るほどに欲しいものであるに違いない。
東軍に大打撃を加えるということよりも、とにかく彼らを引っ掻き回すことを考えた方がいい。
別に気負いもせず、恐れも感じずに考えて、ミネルヴァは息を吸った。
東軍を引っ掻き回せば、防衛線の注意を引けるだろう。親友の大切な許婚から、彼らの注意をそらすことができるだろう。
ミネルヴァの鋭い目は、前線に出てきている、東軍銀狼の姿を探り当てた。
ゴルゴンはミネルヴァの、左前方にいた。彼を守っている人物は三人。一人は戦死したのだろうか。ゴルゴンは三人の間から目を光らせて、こちらをにらみつけている――。
「シャティ」
ミネルヴァはシャティアーナを振り返った。シャティアーナはミネルヴァよりも背が高い。少し高い位置から、黙って、こちらを見下ろしてきている。ミネルヴァは自分が興奮したり、やけになったり、手柄を立てたいと思ったり――そういう衝動に突き動かされてこんなことを言うのではないのだ、ということを示すために、普段と変わらぬ口調とまなざしで、頼んだ。
「十秒、頂戴」
そして、ミネルヴァは走り出した。
東軍兵士たちは、ミネルヴァの動きのあまりの速さと――あまりの思いがけなさに、一瞬虚を突かれた。何しろ彼女は自分の後ろ腰に下げた棍棒を抜くそぶりすら見せなかったのだ。ただでさえ静まり返っていた広場に、完全な沈黙が降りた一瞬のうちに、ミネルヴァは東軍兵士の真っ只中に踊りこんでいた。彼女の身の軽さには定評があった。ほっそりとした体は非力だが、人の体のどこを、どのタイミングで、どの向きに押せば、どのような効果が得られるのか――ということを本能的に知っているようだった。彼女は基本的に人の動きに逆らわない。無理やりに押しのけるということをしない。それなのに、前線の正面を固めていた兵士たちは、ミネルヴァの前進を止めるどころか、自分の意思でその体に触れることさえできなかった。それはおそらくミネルヴァの、人並みはずれた目のよさによって初めて可能になる動きだったに違いない。兵士たちをよろめかせ、その隙間をかいくぐって、ミネルヴァはゴルゴンの目の前に出現した。
文字通り、いきなり出現したように見えた。
わっ――と、ミネルヴァが潜り抜けてきた東軍兵士たちの、そして彼女が置き去りにしてきた西軍兵士たちの、どよめきが、一緒くたになって耳に届く。
はっと気づいたときにはミネルヴァの、猫のような小さな顔がすぐ真下に見えた。
ゴルゴンは無意識のうちに、ミネルヴァの肩に向かって棍棒を振り下ろしていた。振り下ろしてから、しまった、と思う。こんな勢いで振り下ろしては、ミネルヴァの華奢な肩が砕けるかもしれない――
しかしミネルヴァはわずかに肩をずらすだけでその攻撃を避けた。彼女の左袖をかすめて、ゴルゴンの棍棒が滑り落ちていく。ミネルヴァはそのまま右肩をゴルゴンの胸の前に差し入れ、左手でゴルゴンの手をはじいて棍棒を落させた。ゴルゴンは反射的に身をそらした。ミネルヴァの右手が、ゴルゴンの鉢巻を狙って飛んできたからだ。
ミネルヴァの右手は空を切ったが、彼女はまったく気にすることなく、そらされたゴルゴンの体を追うように、さらに一歩踏み込んだ。左足が踏み込むと同時にゴルゴンの右足を蹴った。ゴルゴンは自分の体がぐらりと大きく揺らぐのを感じ、そして彼は自分の目の前で、先ほど空を切ったミネルヴァの右腕が、初めて、自分の後ろ腰にさした棍棒を引き抜くのを見た。
――なんて奴だ。
結構冷静に、そんなことを思う。
しかしミネルヴァは棍棒を引き抜きはしたものの、それを振り下ろすことはできなかった。東軍銀狼隊の面々が、ようやく衝撃から立ち直ったのである。一人はゴルゴンの襟首をつかんでミネルヴァの間合いからどかせ、残りの二人が一斉に、ミネルヴァに飛び掛った。
西軍媛隊を初めとする西軍兵士たちが攻撃を開始したのはそのときである。
広場には――先ほどまでの静寂が嘘のように、たちまち大乱闘が沸き起こった。その熱い興奮の渦は徐々に範囲を広げ、広場中を支配していく。
ミネルヴァが東軍に突入してから、わずか十秒足らずの出来事だった。




