第三日目 2節「対決」(アイミネア)(2)
「まったく、持ってきてくれてもよさそうなもんなのに」
ブツブツ言いながら、がたがたと音を立てる。どうやら机と棚の間をすり抜けるのに手間取っているらしい。ごっとん、と最後に大きな音を立てて、グーレンの巨体が背の低い棚の向こうから現れた……のが気配でわかった。何も疑わず、彼は足音を響かせて、ゆっくりと部屋から出て行く。
扉が開いて、グーレンが外に出て、扉が、……閉まる。
アイミネアは大きな息を吐いた。
「すごいね、アルスター」
「俺が見つかって『戦死』しても、アイナがいるからな」
アルスターは布を持ち上げて、立ち上がるアイミネアを見送りながら、ニヤリとした。元通りに布をかぶりながら、低い声が聞こえる。
「俺もその戸棚の中に隠れたかったよ。昨日の晩からずっとここにうずくまってて、いいかげん腰が痛い」
「グスタフ……か、ガスタール、ここに来るかなあ」
囁きながら戸棚を開ける。右側は太鼓や棍棒や木の板などが積み重ねられていたが、左側、アイミネアがかろうじてもぐりこめるくらいの隙間には、防水布が積み重ねられていた。布の中にもぐりこんでいれば、寝返りは打てそうもないが、結構居心地よくすごせそうである。もぞもぞとその中にもぐりこんで、手を伸ばして戸棚の割れ目に指を引っ掛けて、扉を閉める。最後にアルスターの声が、聞こえた。
「来るさ。アイナにも俺にも、運がついて回ってるみたいだからな」
それは本当にその通りだ、とアイミネアは思った。
* * *
こうして、アイミネアは絶好の隠れ場所を手に入れたわけである。
アルスターが渡してくれた包みの中には、なんと練り粉の固まりが一つと、クキの実が二つ、チョコレートの粒が三つ、入っていた。防水布の中で、アイミネアはゆっくりとそれを食べた。今までに食べたどんな食べ物よりも美味しく感じられた……本当に、こんなに美味しい物を食べたのは生まれて初めてだと思うほどだった。焼きたての、熱々の焼き菓子よりも数段美味しいような気がする。クキの実がつぶれて練り粉が濡れていたが、彼女はそんなことに気づきすらしなかった。ゆっくりとその甘酸っぱい練り粉を食べ、つぶれて温まってしまったクキの実を、皮も残さずみんな食べる。すっからかんになっていた胃を満たすには到底足りない。でも、体中に熱が戻ってくる。
仕上げにチョコレートをゆっくり舐めながら、ようやく少し落ち着いて、アルスターと別れてからの、彼の行動について考えをめぐらせた。
昨日の晩からここにいた、とアルスターは言っていた。ということは、アルスターはアイミネアと別れてからすぐ、この部屋にやってきたということになる。アルスターは東軍に入り込んでいたのだから、地図作成隊の控え室がどこにあるか、よく知っていたのだろう。そして鉢巻も青いし服装も東軍のものだから、夜中なら大胆に行動することができたのだろう。一度ここに入り込んで、その後厨房に行って、食糧を用意して……そしてずっとここにいたのだ。
アルスターに再び会うことができて、本当に幸運だった。
――俺が見つかって『戦死』しても、アイナがいるからな。
何気ない口調だったが、あれはきっと、アルスターの本心だったんだろう、とアイミネアは想像する。アルスターに会えて、アイミネアも本当に嬉しかった。この敵陣の真っ只中で、たった一人だけ残った、唯一の味方。一人だけだけれど、本当に心強い。……そう。アイミネアが見つかって『戦死』したって、アルスターがまだ残っている。生きていてくれる……そう思うだけで、なんて心が軽くなることだろう。
――銀狼も、こんな気持ちなのかな。
空腹の収まった幸福感で、うとうととまどろみ始めながら、アイミネアはそんなことを思った。
――シャティが自力脱出した後、ギルファスは、こんなことを思ったのかな。
『宴』が終わったら聞いてみよう。そう思ったのを最後に、アイミネアは防水布にすっぽりくるまれて、いつしかぐっすりと、眠り込んでいた。
その眠りを覚ましたのは、ガスタールの大声でも、酔ったグーレンの怒鳴り声でもなかった。グスタフのゆっくりと落ち着いた声が、アイミネアの目を覚まさせた。
目を覚ますとすぐに、彼女はびくっとして頭をもたげた。
戸棚の割れ目から、明るい光が差し込んできている。
――朝?
燭台の明かりとはまったく違う、すがすがしいほどに明るい光。朝だ。信じられない――朝まで熟睡してしまったんだ!
急に、体中に血が巡り始めた。慌てていつでも飛び出せるような体勢を整えながらも、昨日満たしたばかりの胃が、再び空腹を主張しているのが我ながら情けないというか、なんというか。アルスターはどうしただろう、と考えて、アイミネアはそっと向こう側の音に耳を澄ませた。アルスターが行動を起こしたというのに暢気にも眠りこけていたとしたら、一生自分を許せそうにない。
「大逆転を狙うには、思い切った手段をとらなければならないと思います」
グスタフがゆっくりと話している。
「しかし少々思い切りすぎだなあ、それは」
グーレンが面白そうな口調で言った。『思い切りすぎている』なんてちっとも思っていない口調だった。アイミネアのいる場所からは見えなかったが、今この部屋の中にいるのはグスタフとグーレン、ガスタール、ティトルス、そして『目付』が一人。彼らはアルスターが潜んだままの机の周りに集まって、大きな地図を見ながら、話をしている。
アルスターはなかなかめぐってこないチャンスを、じりじりしながら待っていた。昨夜、結局グスタフもガスタールも、銀狼も媛も、アルスターが狙っている人間は一人も、この部屋に来なかったのだ。グーレンは夜半過ぎには寝床に引き上げ、ティトルスが燭台を全て消して出て行った。朝になって戻ってきたと思ったら、この大人数である。チャンスはなかなかやってこない。
―― 一か八か、飛び出してみるべきだろうか。
アルスターは先ほどから、そのことについて考えていた。一人ならばともかく、あの戸棚の中にはアイミネアがいる。夜中に覗いてみたところよく眠っていたようだが、人が戻ってきたのだからさすがに目を覚ましているだろう。
ガスタールかグスタフのどちらか一人を、あの戸棚の前に追いやることさえできれば、アイミネアが飛び出してきて仕留めてくれる――
そのことを考え始めると、止まらなくなった。昨日まで、たった一人で、暗殺を決行しようと考えていたときよりも、気分がだいぶ軽くなってきていた。『戦死』を宣言するのは、何も自分じゃなくたっていいのだ。三日目の朝に大将か副将のどちらかを戦死させることができたら、西軍にとってその効果は計り知れない。
そして何よりも……アイミネアに、手柄を立てさせてやりたかった。
スパイの籤に選ばれてしまったわけでもないのに、どんなスパイよりも大変な思いをしてきたあの子には、大将か副将の首くらい、取らせてやったっていい。
そのためには、どうするのが一番効果的だろう――?
机の下でアルスターが虎視眈々とチャンスを狙っているのも知らず、軍議は続いていた。
「実現の可能性は?」
ガスタールがのんびりとした声を出した。グスタフがすぐに答える。
「五分五分くらいかと」
「そんなに高いのか」
グーレンが感心したように口を出す。グスタフは淡々と肯いた。
「これは西軍媛隊をどう誘導するかにかかってます。媛隊さえ上手く動かせれば、銀狼隊にはスパイがまだ残っているから、上手くいくと思います」
「そうだな。面白そうじゃないか」
ガスタールがニヤリとする。しかしグスタフは、机に目を落とした。
「これは最後の手段です。今日の午前中でまだ盛り返せる可能性はある。でも……もしものために丸太だけでもあちらに運んでおかないと」
「そうだな、午後になってから運んだんじゃ遅いだろう。しかし夜中ならともかく、真昼間にあの大きな丸太を運ぶのは目立つだろう?」
ガスタールの言葉にうなずいて、グスタフは、机の上に乗せられた大きな地図を見た。
地図には『宴』の舞台となっている広場が、森を含めて、詳細に描かれている。
「ここに、」
とグスタフは、北側を流れる川を指差した。
「川があります。ここなら人目につかないと思う。丸太を浮かせて紐をつけて運べば、流れは急だけど、そう人数はいらないんじゃないかと思うんですが」
「ああ、川か」
グーレンが、体を起こす。そしてグスタフに言った。
「向こうの俺の机の上にな、川の地図があるだろう。376と番号が振ってあるやつだ。取ってきてくれ」
「はい」
グスタフは肯いて、机に背を向けた。戸棚の前を横切って、グーレンの机の方に行く。
その背後で。
アルスターが、机の下から飛び出した。
アルスターの動きは青い疾風のように見えた。そのあまりの速さと思い切りの良さに、ティトルスは弾き飛ばされてから初めて、それが人間だったということに気づいた。アルスターが青い服と青い鉢巻をしていたことも、彼らの動きを遅れさせた。アルスターはグスタフの抜けたところから飛び出しざまティトルスに体当たりをかませ、その鉢巻を奪い取った。『目付』すら泡を食った一瞬のうちに地図を蹴散らして机の上に飛び乗る。そしてガスタールに襲い掛かったが、ガスタールはさすがに落ち着いていた。ティトルスが『戦死』させられた一瞬で立ち直り、振り下ろされた棍棒をはじく。
「アルスター!」
ガスタールは吼え、反射的に机を蹴っていた。衝撃で机が揺れ、アルスターが体勢を崩す。不意打ちには驚いたが、一番危険な一瞬を乗り切ったから、もうアルスターに勝ち目はない、そう判断したガスタールの目の前で、アルスターが叫んだ。
「……行け!」
その声は高らかに響く。同時に戸棚の戸が勢いよく開いて、
――まだいたのか!
アイミネアが、そこから飛び出してきた。
彼女も、ぶかぶかではあったが青い制服を着ていた。青い小さな竜巻みたいに飛び出してきた彼女は、振り返りかけていたグスタフの背中に向けて飛び掛っていく。
大したもんだ、と、ガスタールは思った。




